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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

最終準備書面陳述要旨(上)

2014年07月19日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 ☆ 判決期日指定 2015年1月16日(金)13:10 東京地裁103号法廷
  <東京「君が代」第3次訴訟結審>
 ◎ 公権力は自らに対して忠誠要求をすることはできない


 【最終準備書面第1の1~2、5~15P、思想・良心・信教の自由の侵害】
 10・23通達、及び、本件各職務命令は、原告らの思想、良心の自由を侵害します。
 原告らによる、不起立・不斉唱の理由となったものは、日の丸・君が代を強制することに対する「否定的評価」です。
 この法廷では、4人の原告が、それぞれの世界観、人生観、教育観など、強制に対する否定的評価を持つにいたった理由を証言しました。そして、そうした原告らの否定的評価は、憲法19条に言う思想・良心として、保障されることに疑いはありません。
 本件職務命令は、原告らの持つ「否定的評価」と矛盾する行動を取るように強制するものですから、原告らの思想・良心を、直接制約するものです。
 また、原告らのうちには、キリスト教をはじめとする、信仰を持つ者が複数いますが、10・23通達及び本件各職務命令は、原告らの信仰を直接的に制約するものでもあるのです。
 そして、10・23通達及び本件各職務命令は、原告らの思想・良心の自由、ないし信教の自由を侵害し、違憲です。
 本件では、思想・良心の自由ないし信教の自由という、精神的自由権が制約されているのですから、厳格な基準によって、合憲性を判断しなければなりません。
 被告は、10・23通達及び本件各職務命令の目的が、子どもの学習権の保障であるとしています。しかし、その実態は、「国旗・国歌」を尊重する態度を、一方的、一面的な教育によって刷り込みによって植え付けるものですから、旭川学テ判決にいう、「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げる」ものです。
 また、その目的が、式典の円滑な進行にあるとしても、不起立・不斉唱・不伴奏は式典の進行を妨げるものではありません。実際、10・23通達が発出される以前も、不起立・不斉唱・不伴奏があっても、式典は支障なく進行していたのです。
 すなわち、規制の正当性を支える立法事実はありません
 よって、その目的に正当性はなく、憲法に反するのです。

 【最終準備書面第1の3、15~24P、違憲性審査基準】
 一方で、一連の最高裁判例は、10・23通達及びそれに基づく職務命令についての違憲審査基準として、比較衡量を用いています。
 この法廷で証言した、巻美矢紀教授は、本件の思想・良心の自由の制約を間接的制約ととらえる一連の最高裁判例を前提としても、思想・良心の自由が公権力の恣意によって制約される危険性が高いことから、立法事実を検証し、規制の真の目的を炙り出した上で、その負担の強度を考慮して、比較衡量を行うべきとしています。
 ここで、10・23通達及び本件各職務命令の中間目的とされる「国旗国歌条項」との関係では、本件各職務命令は不合理ですらあることから、10・23通達の隠された真の目的が炙り出されます。すなわち、卒業式や入学式という、日常的な学校生活とは異なる緊張感のある場で、教職員に起立斉唱を命じることで、生徒たちに対する同調圧力を生じさせ、刷り込みによって国旗・国歌を尊重させようとする「刷り込み式愛国心教育」にあります。さらには、「刷り込み式愛国心教育」に反対する教職員を炙り出し、排除することも意図しています。
 そして、その規制の態様は、強制に対する「否定的評価」を有する者に対しては、心理的矛盾・葛藤や精神的苦痛を生じさせる、強度な制約です。
 よって、一連の最高裁判例の判断枠組みによったとしても、10・23通達及び本件各職務命令は、違憲なのです。
 【最終準備書面第2、25~30P、国家シンボルの強制自体が違憲】
 1 原告らは、予備的主張として、被告都教委が日の丸・君が代に関して原告らに起立・斉唱・伴奏を義務付けることそのものが、国旗・国歌という「国家シンボル」を、個人である原告らに強制するもので、憲法に違反することを主張しています。
 これは、個々の原告に対する主観的な権利としての人権侵害の有無を問題にするのではなく、「公権力はどこまで国民に対して義務を課すことが許されるのか」という、公権力の行使の限界に着目した主張です。
  原告らの主張根拠は2点あります。
 第1は、日本国憲法が立脚する立憲主義の理念です。これは、国家の専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという考えですが、ここから公権力に対して、国民の権利、特に、憲法上の人権については、自由な行使が原則であって、これを制限することは、例外的に必要最小限度で許されるにすぎないとの結論が導かれます。
 第2は、国旗・国歌のような政治的シンボルには、国という一元的権力の下にその所属する国民を精神的に結びつける「統合機能」があることです。このような統合機能からすると、国旗・国歌に対する起立・斉唱・伴奏行為は、国旗・国歌を尊重し、賛同する行為であり、それらが象徴する国への敬意を表明する行為と評価されることになります。しかし、自らの所属する国に対して、どのような思いを持ち、どのような態度をとるかということは、まさに、個人の尊厳にかかわる非常に重要な問題であり、最終的には個々の国民の判断にゆだねられるべき事項ですから、第1の立憲主義の理念からも公権力の介入は許されません。
 以上より、都教委による原告らに対する起立斉唱、伴奏行為の義務づけは、国への敬意表明の強制と評価され、立憲主義(憲法前文、11条、97条)に反し違憲となります。この結論は、義務づけの対象が公務員であるか否かによって変わることはありません。
 2 以上のような原告らの主張は、憲法学者によっても支持されています。
 例えば慶應義塾大学の駒村圭吾教授は、被告都教委による原告らに対する起立斉唱等の義務づけは、日の丸や君が代に対し敬意表明を求めるもので、その憲法上の根拠としては、99条の「公務員による憲法尊重擁護義務」がこれに該当するが、それはあくまで最高法規たる「憲法」への忠誠に限定され、公権力は自らに対して忠誠要求をすることはできないとの理由から、国旗国歌である日の丸君が代が象徴しているものは「国」であって「憲法」ではない以上、公権力である被告都教委が、原告らに対して起立斉唱行為等を義務づけることはできないと結論づけています。
 また、北星学園大学の岩本一郎教授も、日本国憲法の基本理念である個人尊重の原理(憲法13条)から、公権力には個人の哲学的・道徳的・宗教的な確信に対する中立性、すなわち国家の価値中立性が要請され、国家が特定の道徳的な価値観を個人に強制することは許されないとしています。そして、本件の場合、わが国のように多元的な価値観の存在を前提とする民主主義社会の下では、国旗・国歌に対する考え方・評価は一義的ではあり得ないところ、国旗・国歌に対して起立・斉唱・伴奏という特定の態度や行為を義務づけることは、そこに敬意表明と強制の契機が認められ、国家の価値中立性に違反するから、違憲(憲法13条)であると結論づけています。
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