《SELC(埼玉教育労働者組合)から》
★ 書評 「被差別部落に生まれて」黒沢みどり著
この著作は
部落差別を元にした不当な判決によって獄中に32年間も囚われ
仮出獄後も尚現在に至るまで自分の無実を晴らすために闘い続けている
石川一雄と仮出獄後その伴侶となった早智子の
内面の様々な思いや感慨にスポットを当てた作品である
今迄「狭山事件」に関しては、野間宏や鎌田慧等の著名なな作家を初めとして、数多くの識者によって様々な視線や視点を通して言及されて来たが、今回の黒沢みどりによる『被差別部落に生まれて』という著作は、
その事件の犯人とされて一審の地裁で死刑の判決を受け、二審の高裁で無期懲役に減刑されたものの、三審の最高裁で上告を棄却されて刑が確定し、獄中の生活を三十二年間も送り、仮出獄した後も、自己の無罪判決を勝ち取るために今なお闘い続けている現在八十四歳になった石川一雄と、
仮出獄した後結婚して現在七十歳になる妻・中川早智子の語る、それぞれの個体史における様々な思いや感慨と、結婚後の二人の生活の様々な哀歓を巡っての聞き書きを中心にまとめられた、今迄になかった二人のこれまでの心情や情動や意識というものにスポットを当てて生み出された作品である。
言うまでもなく、「狭山事件」とは今から六十年も前の一九六三年に、埼玉県狭山市の女子高校生(二年生)が下校途中に行方不明となり、その後遺体として発見されることになった殺人事件のことである。
その当日の夕刻にその女子高校生の自宅に身代金を要求する脅迫状が届けられ(すでにその時には被害者は絞殺されていたのだが)、その脅追状に記された通りの翌日の深夜の十二時に被署者の家から一キロ程離れた所にある佐野屋の近くに身代金を受け取りに来た犯人を、狭山署と応援に来た埼玉県警合わせて四十名にも及ぶ警察官で張り込みをしていたにも関わらず、取り逃がすどいう失態を演じることになる。
当時の新聞に「またも犯人逃がす」とか「張り込みの警察またも黒星」という見出しが躍っていたように、その一月程前に東京都下の入谷で四歳の男の子が誘拐され、脅迫状通りに用意した五十万円を奪われた上に犯人に逃げられるという事件が発生していたために、二度にわたる失態に警察の信用は失墜することになって、何としても警察は犯人を検挙しなければならない状態に迫い詰められることになってしまったのである。
そのために自分達のメンツを回復することが急務になった警察は、漢字の部分に万葉仮名のような宛字を多数使い、ひらがなを使う部分にカタカナを使っている脅迫状の文面から、学校に満足に通えなかった低学力の者のなした犯罪であると判断して、それに相当する者は被差別部落の出身者であると目星を付けて、非差別部落に住んでいた石川を逮捕するに至ったのである。
石川一雄の家族は、戦前から小作人として働いていた父冨造の、元母リイ・姉の静枝と一枝・兄の六造・妹の雪枝と美智子と清といった九人家族で(一雄が小学生になった時には、静枝と一枝はすでに奉公に出ていて七人家族であったが)、母がトラホームに罹った時に治療費が払えなかったために医者にかかれず失明してしまったよう、「貧乏人の子だくさん」という諺通りの状態で、一雄もまた小学校に入学したものの、二年生になると燃料の薪拾いや父と共に畑で小作人として働かなければならなくなって、
雨の日は学校に行けたが傘も雨靴もなかったために行けず、集金の日もお金がなかったために行けずと、満足に学校に通えなかった上に、小学五年生の時から住み込みの子守り奉公に出なければならなくなり、次に修繕を専門とする靴屋に、次に漬物屋にと、六年もの間年季奉公に出なければならなくなって、文字だけではなく、社会で生きていく一般的な常識や知識さえも身につけることが出来なかったのである。
その後年齢的に一般的な職業に就くことが出来るようになって、プレス工場(右手の人差し指を切断することになる)を皮切りに、ゴルフ場での整地の仕事(給料を監督に持ち逃げされる)、次に米軍基地内の飛行機の部品工場で、続いて東鳩の製菓工場で働くも、文字が読めたり書くことが出来なかったことによって、作業が遅いと解雇されたり、認められて責任者になるものの「日報」を同僚に書いて貰っていたということが発覚して、そこで働くことをあきらめざるをえなくなってしまったりしたのである。
その後、土建の仕事に、次に養豚場での残飯集めの仕事に就くことになるのだが、兄からそこは評判が悪いから自分と一緒に働かないかと持ちかけられて土工の仕事をやっていた時に、「狭山事件」の犯人として逮捕されることになってしまったのである。
このように、文字を書けなかったり読めなかったりして(自分の名前を書く時にも、難しい「一雄」ではなく簡単に書ける「一夫」を使っていた)、次々と仕事を辞めざるを得なかった石川に、どうして、一見すると宛字が目立つと共に、ひらがなの部分に片仮名が使われていたりと一貫した表記法が採られていないために、低学力の人間の手になる稚拙な文章に見えるものの、多くの使われている漢字が草書体で一気に右肩上がりに記されていて、書き慣れた人の手になるものであると思われる文章や、脅迫状としての役割を果たすための文意が明晰で、達意な文章を書くことが出来るであろうか。
それは何よりも、石川の上申書や、書かされた脅迫状の写しのごつごつとした金釘流の筆記法と、脅迫状の流麗な筆記法を比較してみれば、それだけで明らかになるはずである。
この脅迫状を書いた人間は、自分を低学力の者に見せるためわざわざ稚拙な文章を綴っているのに、検察官も裁判官も、犯人の狡智と思惑にまんまと騙されて、そのような低学力の者は被差別部落の出身者に多く、被差別部落の者ならこのような犯行をなして当然だという予断と偏見から目星を付け、それに該当するとして石川を逮捕し、罪に問うてしまったのである。
最初の内は、頑強に自分が犯人ではないと主張していたものの、身代金を受け取りに来た犯人が履いていた地下足袋が兄のものと示され、犯行の当日に雨に濡れて夜遅く兄が帰って来たこともあって、犯人が兄だと思ってしまい、その当時の石川家の家計は鳶職の親方をしていた兄の双肩に掛かっており、兄が逮捕されるより自分が身代わりになって逮捕される方が増しだと考えたのと、石川本人の数々の微罪を挙げ、それだけでも大変な罪なのに、自白すれば十年で出所出来るという甘言を信じて、自分ではやってもいない犯罪を自白することになってしまったのである。
その検察官の誘導に基づいてなされた自白や、記された図面を元に発見された証拠の数々と、脅迫状に似た表記のある幾つかの記録というものを証拠にして、一審では死刑が宣告され、
そのままでは死刑になってしまうと収監された雑居房の人達から進言を受け、騙されたと自覚した石川は二審の高裁で、自分は殺害に関与していないと無実を主張するものの、無期懲役に減刑された判決によって、仮出獄に至るまでの合わせて32年間を誤認された殺人犯として獄中で過ごすことになるのである。
一審の判決後、石川は自分が犯人でもないのに騙されて、このように死刑囚として獄中の生活を送らなければならなくなった原因は、自分が貧しさから満足に学校教育を受けられずに文字を覚えることがなかったからだと悟ることを通して、猛然と文字の習得に励むことになる。
そのような石川にとって幸運であったことは、拘置所で出会った刑務官=看守が、大学時代部落研究会に属していた友人を通して「狭山事件」のことを知っていて、まず何よりも自分の無実を晴らすためには文字を身につけることが第一と、厳しく指導してくれるようになったことだ。
彼は妻を通して、石川の父と母の名で、文字が書けるようになって頻繁に解放同盟の集会に当てて手紙やメッセージを送るようになった石川のために、必要なボールペンや封筒や便せんや切手を惜しむことなく送ってくれたり、『広辞苑』や『漢和辞典』も差し入れてくれたりした。
また、その当時死刑囚の一人から、短歌の手解きを受けて、短歌を作るようにもなっていく。その短歌の幾つかは
蜘蛛の巣に 蝶思はせる 葉のからみ 風に揺られて 夜は更け渡る
紫か紅か碧りか 朝顔の 花は明日を 知らんでも咲く
我が躯幹 暗夜の獄に 埋もれども 心は常に 荊冠旗の下
といったものだが、このような短歌を詠むことによって、石川は無実の罪によって囚われている自分の不安や苦悩と向き合いながら、自己を慰め励まし、部落差別を根絶する闘いへと乗り出していったのであろう。
この著作の優れている点は、そのような短歌に目を向けると共に、部落差別によって不当な人生を送らされることになった石川とその伴侶となった早智子の苦しみや悲しみや喜びや楽しみといった様々な生の声を数多く拾い上げていることであろう。
現在、第三次再審請求がなされているが、再審が決定され、積み上げると2~3メートルにも達するという未開示の証拠物件が開示され、一日も早く「見えない手錠」が外されて、今年既に84歳になる石川の無実が晴れて証明される日が一日も早く訪れる日を願って止まない。(戸谷)
『SELC(埼玉教育労働者組合) No.442』(2023年11月22日)
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