★ 河原井・根津08・09処分取消訴訟 1月14日(木)15:00~東京地裁527
~炎は消えず「日の丸・君が代」強制に抵抗する小・中学校教員の記録から~
◆ 「君が代」不起立処分を受ける中で見えたこと
私は1999年度までは八王子市の中学校に、その後3年間は多摩市の、2003年度は調布市の、2004年から2年間は立川市の、2006年度は町田市の中学校に、そして、2007年度からは都立養護学校(特別支援学校)2校に強制異動させられ、2011年3月に定年退職となった。
小学校も同じと思うが、中学校では1989年の学習指導要領の改定で「日の丸・君が代」の強制が始まり、国旗国歌法の成立で強制が一層強まった。
未実施校の校長に対しては「卒業式が近くなると連日、朝にタに市教委室長から電話があり、実施を迫られる」と勤務校(1990年度から1999年度)の校長は言っていた。
それはかなり執拗ではあったが、しかし、まだ、職場構成員の闘いがものを言う最後の時代であった。
私が1999年度まで在職した学校では、毎回、職員会議で「『日の丸・君が代』を実施したい」という校長修正案は否決され、校長の暴走を止めようと当日朝まで職場交渉は続いた。
市教委の圧力に屈して校長は1993年度の卒業式の朝、校庭のポールに「日の丸」を揚げてしまったが、それに対する生徒たちの批判はすさまじかった。
校長が交代した95年度からは、再び、「日の丸」のない卒業式が実現。生徒たちの声に校長が説得されたのだった。
1998年度の卒業式では生徒たちが入場したタイミングを見て「日の丸」が揚げられ、1999年度の卒業式では、開式のことばの前に「君が代」のメロディーを副校長がやっと聞こえるほどの音量で流し始めた。しかし、このどちらも、大勢の生徒の抗議に遭った。
八王子の生徒たちは広島修学旅行と1年次からの事前学習によって、「日の丸・君が代」の歴史を知ったから判断し行動できたのだと思う。
その後転任した各市各学校の生徒たちは「日の丸・君が代」や日本が行った侵略戦争についての知識を持たなかった。考え判断するに足る資料の提示は、教員の職務行為と私は思う。
教員たちは、10・23通達以前は「日の丸・君が代」を持ち込むことに反対する発言を多少はしたが、通達によって発言さえしてはいけないと自粛していったように感じる。
◆ 10・23通達発出以降、市教委のしたこと
都教委が10・23通達を出したのと前後して、八王子市教委や町田市教委は市教委通知や通達を出した。「君が代」が徹底されていない区市教委に都教委の指導が入った結果と聞く。
立川市教委は、市の通知や通達は出していなかったが、私が転任した年の卒業式に向けて通達を出した(2005年1月7日)。
立川市教委は「立川市の学校では、儀式は整然と行われております」(大澤教育長2004年3月23第1回定例会)と認識していたのに、その後通達を出す必要性が生じたということか。
この通達を使って、「君が代」起立の職務命令を発出したのは、私がいた立川二中のみ。私を起立させる、あるいは処分するために通達を出したということにほかならない。
2006年度、私が町田に転任すると、町田市教委は12月21日付で「2006年度卒業式、2007年度入学式の適正な実施について(通知)」を発出した。10・23通達発出直後の2003年10月29日に市教委通達を出しているにもかかわらず、である。しかも、通知に基づいて職務命令が出されたのは、市内で私一人。
立川二中では職員会議の場でロ頭による職務命令が出され、個人名を記した職務命令書が各人の机上に配布されたが、町田の鶴川二中では卒業式当日の朝、私を校長室に呼びつけ、職務命令書を手渡そうとした。
町田市教委の新たな通知も、私一人を対象に出したことは明白だ。校長や市教委に学校運営権はなく、都教委の指導・命令が絶対であったことが校長のことばから感じられた。
◆ 生徒や保護者は「日の丸・君が代」の強制と処分をどう見たか
私は2度排斥攻撃を保護者・地域から受けた。一度は2000年度に従軍慰安婦問題を授業で取り上げたことをきっかけに、もう一度は2006年度に停職3か月を受けて異動させられた町田で、着任前の3か月間のことだった。
前者は学区在住の公明党・自民党市議会議員、後者は学区在住の自民党議員がその先頭に立った。その動きに反対の声をあげたい、声をあげねばと考える保護者はいたが、恐ろしくて声をあげることができないと詫びられたこともあった。
この2校のほかでは、生徒も保護者も大半は私が「君が代」不起立することに理解をし、処分を不当と感じてくれた。
中学校及び、一般中学校と同じ教育課程で学ぶ肢体不自由部門の特別支援学校の生徒たちに対し、私は「日の丸・君が代」の歴史や意味、都教委の考えや社会に分る考え、私の考えを校長にも了解を得たうえで、必ず示してきた。そうした経過があって、「日の丸・君が代」の強制について考えてくれた結果だと思う。
知的障がい部門で働いていた時には、保護者にチラシを手渡して私の考えや行動を伝えた。特別支援学校では保護者との接触が日常的にあるので、保護者はよく理解をしてくれた。
理解にとどまらず、根津を処分しないよう校長に要求・進言してくれた生徒や保護者はかなりの数、存在した。また、「保護者も反対していることを示すために私も座りました」等々、告げてくれた保護者も何人かいる。
気持ちを伝え行動すれば、理解し共感し、中には立ち上がっていく人たちがいることを私は処分を受ける中で常に感じてきた。
「日の丸・君が代」の強制と処分に都教委が乗り出したのは、教員がものを言わなくなり、自主編成による授業をしなくなってきた時期と一致する。石原都知事だから10・23通達を出しただけでなく、支配者はその時機到来を待っていたのだ。
したがって、教員がものを言い、子どもたちが知るべき、かつ、国家が隠そうとする事柄(その筆頭が「日の丸・君が代」)を授業で取り上げていけば、子どもも、我が子を通して保護者も、「日の丸・君が代」強制の問題点に気づいていくのは必然と私は思う。その機運を高めていきたいと切に思う。
~炎は消えず「日の丸・君が代」強制に抵抗する小・中学校教員の記録から~
◆ 「君が代」不起立処分を受ける中で見えたこと
根津公子
私は1999年度までは八王子市の中学校に、その後3年間は多摩市の、2003年度は調布市の、2004年から2年間は立川市の、2006年度は町田市の中学校に、そして、2007年度からは都立養護学校(特別支援学校)2校に強制異動させられ、2011年3月に定年退職となった。
小学校も同じと思うが、中学校では1989年の学習指導要領の改定で「日の丸・君が代」の強制が始まり、国旗国歌法の成立で強制が一層強まった。
未実施校の校長に対しては「卒業式が近くなると連日、朝にタに市教委室長から電話があり、実施を迫られる」と勤務校(1990年度から1999年度)の校長は言っていた。
それはかなり執拗ではあったが、しかし、まだ、職場構成員の闘いがものを言う最後の時代であった。
私が1999年度まで在職した学校では、毎回、職員会議で「『日の丸・君が代』を実施したい」という校長修正案は否決され、校長の暴走を止めようと当日朝まで職場交渉は続いた。
市教委の圧力に屈して校長は1993年度の卒業式の朝、校庭のポールに「日の丸」を揚げてしまったが、それに対する生徒たちの批判はすさまじかった。
校長が交代した95年度からは、再び、「日の丸」のない卒業式が実現。生徒たちの声に校長が説得されたのだった。
1998年度の卒業式では生徒たちが入場したタイミングを見て「日の丸」が揚げられ、1999年度の卒業式では、開式のことばの前に「君が代」のメロディーを副校長がやっと聞こえるほどの音量で流し始めた。しかし、このどちらも、大勢の生徒の抗議に遭った。
八王子の生徒たちは広島修学旅行と1年次からの事前学習によって、「日の丸・君が代」の歴史を知ったから判断し行動できたのだと思う。
その後転任した各市各学校の生徒たちは「日の丸・君が代」や日本が行った侵略戦争についての知識を持たなかった。考え判断するに足る資料の提示は、教員の職務行為と私は思う。
教員たちは、10・23通達以前は「日の丸・君が代」を持ち込むことに反対する発言を多少はしたが、通達によって発言さえしてはいけないと自粛していったように感じる。
◆ 10・23通達発出以降、市教委のしたこと
都教委が10・23通達を出したのと前後して、八王子市教委や町田市教委は市教委通知や通達を出した。「君が代」が徹底されていない区市教委に都教委の指導が入った結果と聞く。
立川市教委は、市の通知や通達は出していなかったが、私が転任した年の卒業式に向けて通達を出した(2005年1月7日)。
立川市教委は「立川市の学校では、儀式は整然と行われております」(大澤教育長2004年3月23第1回定例会)と認識していたのに、その後通達を出す必要性が生じたということか。
この通達を使って、「君が代」起立の職務命令を発出したのは、私がいた立川二中のみ。私を起立させる、あるいは処分するために通達を出したということにほかならない。
2006年度、私が町田に転任すると、町田市教委は12月21日付で「2006年度卒業式、2007年度入学式の適正な実施について(通知)」を発出した。10・23通達発出直後の2003年10月29日に市教委通達を出しているにもかかわらず、である。しかも、通知に基づいて職務命令が出されたのは、市内で私一人。
立川二中では職員会議の場でロ頭による職務命令が出され、個人名を記した職務命令書が各人の机上に配布されたが、町田の鶴川二中では卒業式当日の朝、私を校長室に呼びつけ、職務命令書を手渡そうとした。
町田市教委の新たな通知も、私一人を対象に出したことは明白だ。校長や市教委に学校運営権はなく、都教委の指導・命令が絶対であったことが校長のことばから感じられた。
◆ 生徒や保護者は「日の丸・君が代」の強制と処分をどう見たか
私は2度排斥攻撃を保護者・地域から受けた。一度は2000年度に従軍慰安婦問題を授業で取り上げたことをきっかけに、もう一度は2006年度に停職3か月を受けて異動させられた町田で、着任前の3か月間のことだった。
前者は学区在住の公明党・自民党市議会議員、後者は学区在住の自民党議員がその先頭に立った。その動きに反対の声をあげたい、声をあげねばと考える保護者はいたが、恐ろしくて声をあげることができないと詫びられたこともあった。
この2校のほかでは、生徒も保護者も大半は私が「君が代」不起立することに理解をし、処分を不当と感じてくれた。
中学校及び、一般中学校と同じ教育課程で学ぶ肢体不自由部門の特別支援学校の生徒たちに対し、私は「日の丸・君が代」の歴史や意味、都教委の考えや社会に分る考え、私の考えを校長にも了解を得たうえで、必ず示してきた。そうした経過があって、「日の丸・君が代」の強制について考えてくれた結果だと思う。
知的障がい部門で働いていた時には、保護者にチラシを手渡して私の考えや行動を伝えた。特別支援学校では保護者との接触が日常的にあるので、保護者はよく理解をしてくれた。
理解にとどまらず、根津を処分しないよう校長に要求・進言してくれた生徒や保護者はかなりの数、存在した。また、「保護者も反対していることを示すために私も座りました」等々、告げてくれた保護者も何人かいる。
気持ちを伝え行動すれば、理解し共感し、中には立ち上がっていく人たちがいることを私は処分を受ける中で常に感じてきた。
「日の丸・君が代」の強制と処分に都教委が乗り出したのは、教員がものを言わなくなり、自主編成による授業をしなくなってきた時期と一致する。石原都知事だから10・23通達を出しただけでなく、支配者はその時機到来を待っていたのだ。
したがって、教員がものを言い、子どもたちが知るべき、かつ、国家が隠そうとする事柄(その筆頭が「日の丸・君が代」)を授業で取り上げていけば、子どもも、我が子を通して保護者も、「日の丸・君が代」強制の問題点に気づいていくのは必然と私は思う。その機運を高めていきたいと切に思う。
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