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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

三鷹高校土肥校長の異議申立の意義

2008年10月21日 | 暴走する都教委
 ◎ 憲法を守り「言論の自由と教育の自由」を確立しよう。
I・N


「9.27集会から」 《撮影:平田 泉》

 中江兆民とも交際のあった西園寺公望(1849~1940)は92歳でなくなる直前「日本は滅びるのや」と述懐しています。西園寺は「近代日本の教育」に深刻な挫折感を表明しています。
 「結局右翼がどうのこうのと言ふけれども、国民の知識が非常に低いし、国民が低調過ぎる。…知識的の向上が足りないと言ふか。実に困ったもんだ。これまでいったい何を教育してゐたか。これも明治以来の教育の方針が悪かったんだな」(「西園寺公望と政局」)と語った。偏狭な「国粋主義」と対置する立場にあった西園寺の目に映った1930年代の姿であった。

 明治5年学制頒布によって国民教育の制度が確立され、その指導原理が求められると、師範学校令が発布されて、国民教育の基礎は国民道徳に求められる事となりました。その結果世界史上の一畸形児といっていい無自覚で無批判で事大主義的で非人間的な日本国民を作り上げました。そうした反省から戦後教育は始まったのです。しかし、今、東京都教育委員会は物事を批判し吟味をする人間的な人間を抹殺すべきだとする「信念」「狂気」人たちばかりになってしまった。都教委の言うことを黙って従えという姿勢でしかない。そこには「自由検討の精神」がまったくない教育です。

 石原都知事の支配する東京都教育委員会は、職員会議を否定しました。教育の否定、学校の否定です。「自由検討の精神」を失った学校は教育の精神を失った。戦前の教育に戻ったのです
 土肥校長が、東京都の教育委員会に対して異議を申し立てたことは、ごく常識的なことで、決して異常な、特異な異議申し立てではありません。強権的な都教委の非人間的な、非教育的な姿勢は、多くの良識ある教員の憂いとするところだったのです。

 土肥さんは「政治経済」の教師として日本人であることの「アイデンティティ」は日本国憲法にあるとし教えてきました。次の世代を担う高校生に優れた「よき日本市民」として「日本国憲法」体に染み込むように教えてきました。その同じ人間が校長になったら、日本国憲法の「主権在民、基本的人権の尊重、平和主義」の考え方を否定することを「学校運営」の責任ある人間として否定することは出来ないと真剣に悩んだのです。「これでいいのだろうか」
 東京都教育委員会が、都立学校の職員会議で教員による採決を禁じる通知を出していることに対し「先生方が、何を言っても意味がないと思うようになり、教員の意見が反映しにくくなった」と、土肥さんは撤回を訴えました。

 今の日本を支配する重苦しい空気は、言論の封殺が一因ではないか。ものごとを吟味し、批判し、真実はどこにあるかを追求する精神こそ、教育においてもっとも大切にされなくてはならないものです。教員の「自由検討の精神」を封じる都教委の通知は、その精神を否定するようなものです。
 「吟味する精神」は、思想などという難しいものではないのです。むしろ思想を肉体に宿す人間が心して自らから持つべき潤滑油のようなものです。こわばってとげとげしくなっていく学校を柔軟な姿に戻すためにも、吟味する精神は欠かせない。その精神を働かせ教育の根本をたずねることは、すべての先生が参加してはじめて可能です。職員会議を否定するような通知は、学校教育を壊すことでしかないのです。
 「日の丸・君が代」「職員会議での挙手や採決禁止」「教職員の業績評価」をめぐって、強権的な東京都教育委員会の姿勢は、自分の信念として教えてきた「日本国憲法の『主権在民、基本的人権の尊重、平和主義』」の民主主義の根本思想の考え方と全く相反するものであると真正面から批判することとなったのです。

 「人権の土肥」と現職の教員時代は言われ、また彼自身も「人権の土肥」と語り、何より「基本的人権の尊重」を大切にしてきた。また大切にしなくてはならないと実践してきたのが土肥さんです。
 憲法第19条は思想・良心の自由、人間形成のための内面的活動それ自身を保証しています。その自由は人間の本質に関わるものです。公権力がその内心を理由に不利益を科したり、内心の信条を強制する事は許されないのです。

 アメリカの最高裁判所判事ロバート・ジャクソン氏はある事件の判決に次のようなことを述べています。「反対意見を強制的に抹殺しようとする者は間もなく、あらゆる異端者を抹殺せざるを得ない立場に立つことに成でしょう。強制的に意見を画一化する事は墓場における意見の一致を勝ち取ることでしかないのです。しかも、異なった意見を持つことの自由は些細なことについてのみであってはならないのです。それだけなら、それは自由の影でしかないのです。自由の本質的テストは現存制度の核心に触れるような事柄について異なった意見を持ち得るか否かにかかっているのです。」と。

 土肥さんは語ります。「職員会議などで強制反対(「日の丸・君が代」)の意思表示をするだけで問題教員とされ、校長連絡会で校長が意義を唱えることが許されない雰囲気なのが東京都の現状です。民主主義で最も重要な言論の自由が許されない教員が、生徒に民主主義を教えられるわけがない。ぼくは自分自身のことを平和な日本を愛している愛国者であると思っています。愛国心は他人から強制されるものではないし、他人から強制される愛国心は怪しいと疑って欲しいと日ごろから生徒に話しています。」と。

 大学卒業後、大手商事会社に就職したが、そのあり方「利潤追求だけが優先する」ことに疑問を持ちたいと退職。「自分の意見がきちんと反映できる職場で働きたい」と教育の世界で「子供たちに考え方や思想を伝えたい」と新たに教員生活をスタートした自分が、自分の生涯は何であったのかと考えた時、東京都教育委員会の狂気に近い理不尽な「強権的姿勢」に、黙っていて良いのだろうかと思い「異議を申し立て」することになりました。

 その土肥さんが「守秘義務違反」として、都教委は追及しています。「守秘義務違反」とは瑣末的なことで嫌がらせをする。都教委の瑣末主義は戦前の軍隊と同じです。

 大西巨人著「神聖喜劇」にこんな場面がありました。ある二等兵が「毎日毎日三度三度大根のおかずばかり食べておりますので、大根中毒になりそうです。この頃戦友たちの顔も大根のように見えます。よろしくおねがいします」と母に「はがき」を書いた。上官のその「はがき」を根拠に二等兵を「軍紀違反の秘密暗号通信」ということで、リンチをします。
 毎日「大根を食べている事」を書いたことが秘密漏洩だと言い「秘密暗号」というのは、母に何か送れという暗号だと言い掛かりをつけて、徹底的に上官が二等兵を撲り倒します。しかし、これは私的リンチではない。「軍紀違反」という軍法を犯すものとしました。

 土肥さんが「記者会見」をしたことに言い掛かりをつけて「公務員の守秘義務違反」として法的処分をしようとしています。「三度のおかずが大根ばかり」だと親に書いたのが陸軍の「秘密漏洩」だといって陰湿な暴力を「公的な処罰」だといって二等兵を撲り倒したのと五十歩百歩です。陰湿な官僚の本質が出ています。官僚の陰険な陰湿な暴力的体質がますます露骨に出てきています。これが今の日本を支配する陰湿な閉鎖的な支配体質です。日本の官僚は戦前と全く違わない体質を引きずったままです。この陰湿で閉鎖的な壁を破るには、土肥さんが語るように「言論の自由の確立」の闘いしかありません。
 官僚組織の持つ暴力的側面、権力の暴力的側面が、教育支配という形であらわれています。暴力的な絶対服従という官僚社会。土肥さんが教育庁の特殊な官僚社会の理不尽なあり方に気がつき、抵抗をするとき、「瑣末な事件」に仕立て上げられ、でっち上げられ、処分をされんとしているかもしれない。

 心ある校長も「定年退職後のことを考えると、名前を公表して外に意見は言えません」という。何か行動しようとすれば、リスクを背負わなくてはならないのが人生です。土肥さんは「都教委の指示に従わざるを得ない校長も犠牲者のひとりと思います。」「言論の自由を守るためにリスクを負うのです。生徒たちの未来を守るのです」と語っています。私たち仲間は共に手を取り合って、「言論の自由」のために闘おうではありませんか。仲間は我々の良心です。
 支配者の臆病で、抑圧的で、残虐な姿勢が東京の教育だけではなくあらゆる側面に歪として現れています。

『藤田先生を応援する会通信』第30号(2008/10/9)から

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