《尾形修一の教員免許更新制反対日記から》
◆ 権力的教育行政の転換を-都立高入選ミス問題⑧
長く書いてきたので、最後に総論的なことを書いて終りにしたい。とは言うものの、また細かい議論から入ることにする。都教委は来年の一次試験を2月24日(火)としたが、発表日はまだ決定していない。この記事の中で、僕は「22~25で、水から金までに学力検査を行い、翌週の6日目に発表する」のがいいのではと書いた。だから、24(火)というのは支持しないのだが、それはともかく、もし火曜日に検査を行うのだったら、その場合だけは発表は次週の火曜日でなければならないと思うのである。3月2日(月)の発表だったら、実質的に今年と同じで、ミス防止対策にならない。
どういうことか判るだろうか。もし月曜の発表だったら、どんなに遅くても金曜日の夕方には判定会議を開かないといけない。(土曜日の授業がない学校の場合だが。)それでは、水木金の3日間で、採点と入力のチェックを完全に終わらせないといけない。今年と同じである。
合格者に渡す事務的な書類の作成に入るためには、学校の正式機関である合否判定会議を開かないといけない。判定会議を経たのちに、「入学予定者の決定について」という文書を起案し、校長が決済する必要がある。本来は金曜夕方の判定会議でも、教務や事務職員は残業か休日出勤を強いられるだろう。だから合格者決定はもっと早いことが望ましいのだが、日程的に無理だろう。だから、休日にも入選業務を行わざるを得ないので、管理職の何人かも出勤することになるだろう。そうすると、今年の事例を思い出し、自分で再度点検したい校長も出てくるに決まっている。万が一、そこで合否が覆るミスを発見してしまったら、どうするか。校長が経営企画室長や教務主任と協議し、判定会議の結論を変えることにならざるを得ないだろう。月曜発表だと、そのような望ましくないプロセスがあり得る。(実質的な事務態勢は、もう少し融通をきかせているかもしれないが、タテマエ上は以上のように進行する。)
さて、以上のようなことは「現場の事情」が判っているなら、誰でも知ってることである。しかし、この間都教委は「現場の意向を聞かない」ことをモットーにしてきた(としか思えない政策を進めてきた。)だから、学校現場では「もはや現場の意向は取り入れられることはない」と思い込んでいるのではないか。
採点ミス自体は、教員なら(教員でなくても)誰にでもある問題である。教師の「指導力」などとは直接の関係はない。(関係があるとすれば、通勤時間とか当日の体調の方だろう。2月末だから、風邪気味の人がいるのは避けられない。)それでも、学校現場に「自由闊達な気風」が形成されていれば、ミスは点検で発見されやすいのではないだろうか。
東京に限らないと思うが、また教育現場にも限らないと思うが、「現場」における「自由闊達な気風」というのは、日本ウナギ並みの「絶滅危惧種」ではないか。
特に、東京は全国のトップを切って、教育の成果主義、新自由主義的な「改革」が進められてきた。今回のミス多発は、僕にはそのような都教委のすすめてきた「教育風土」が背景にあるのではないかと思う。しかし、都教委はそれを絶対に認めないだろう。「採点態勢の不備」とか「教員の資質の低下」などを原因に挙げ、「教員に対する研修の強化」などを「対策」に打ち出すのではないか。その結果、学校現場の疲弊はますます進むことになる。そうしてはならない。今回の問題をきっかけとして、ここで「東京の教育行政の全面的な転換」に踏み出さないといけない。
今回ミスがなかった学校が何校かある。それらの学校の教員は評価が高くなるかというと、そういうことはない。なぜなら、勤務評定は「同じ学校の教員で相対評価する」からである。
全員でしっかり仕事して、ミスがなかったりすれば、差が付かないではないか。
自分の評価が高くなり給料も上がるためには、同じ学校に成績評価が低くなる教員がいた方がいいことになる。
全員で協力し合わなければならない学校という場所で、こんな「成果主義」を導入して何の意味があるのだろうか。こういう誤った「成果主義」こそが、学校を毒して協力態勢を壊すのである。
都教委が採点期間を短くしてきたのは、何故だろうか。僕が思うには、「都教委はこの日数で出来ると本気で考えていた」という可能性が高い。
「現場の声が聞こえない」「現場も声を挙げない」ということもあるが、この間に完成されてしまった「ピラミッド型勤務体制」、つまり「校長-副校長-主幹教諭-主任教諭-教諭」という「構造」を、「主幹、主任を中心にした機動的な学校経営」を実現したと評価し、その「生産性向上効果」をもってすれば、入選業務もスピード化されるはずだなどと考えていたのではないか。
しかし、現実には同じ教科内で「主幹、主任、教諭」などと分かれていて採点して、果たしてうまく行くのだろうか。若手教師からすれば、職階も違う主幹教諭の採点にミスがあるとは思わないし、見つけても指摘しにくいということはないだろうか。年齢、経験差があるのは仕方ないが、職階としては「同じ教諭」という立場で採点したほうが、「自由闊達」にお互いのミスを指摘し合えるのではないだろうか。
都教委の政策は10数年かけて成立してきたので、すぐには変更が難しい部分もあるだろう。しかし、僕は「異動要項の改定」と「主任教諭制度の廃止」、「職員会議での挙手禁止通達の撤回」あたりから、今までの政策を変えてはどうかと思う。
主任教諭は導入からまだ数年しか経っていないので、教諭と主任教諭の給料表一本化もまだ可能なのではないか。
都の異動要項も明らかにおかしいので、そろそろ変えるべきだ。どうしても個人的事情で異動する教師もいるわけだが、同じ学校に10年程度いられるという異動制度だったら、自分が担任、または授業や部活で接する可能性が非常に高い受検生の答案を採点するわけで、ミス防止効果があるのではないか。来年度は異動だからといって、わざわざミスをするわけではないが、それでも心理的には人間にはそういう部分もあるように思うのである。
また三つ目の「挙手禁止」は、ここ10年以上続いた「おバカ教育行政」の象徴である。もういいでしょ。
このように都教委のあり方を見てくると、やはり「10・23通達」は大きかったと思う。入選ミスの問題はイデオロギーの問題ではないと言われるかもしれない。その通りだけど、学校現場から「イデオロギー的反対派の存在余地をなくす」という政策が進行した結果、イデオロギーとは関係のない問題でも、校長なども委縮して現場の声が反映できない風土が生まれてきたのではないかと思う。
ナチスの時代に言う、最初は共産主義者が排除され、次に社会主義者、自由主義者、最後には穏健なクリスチャンも政府に反対することが出来なくなった、ということと同じである。要するに「茶色の朝」。「毛が茶色以外の犬猫を飼ってはならないという法律」が作られた社会では、人は知らず知らずに「従順」にさせられていく。
「学力検査日を2月23日に固定する」というやり方が決定された時期は、国旗国歌に関して職務命令を校長に義務付けた「10・23通達」や、中高一貫校の中学に扶桑社の教科書採択、性教育に関する弾圧が強まり七生養護学校事件が起きた時期と重なっている。つまり、イデオロギー的に偏向した都教委がどんどん「極右的政策」を進めた時期である。
そういう問題が積み重なると、「自由闊達な気風」というかつての都立高にひろく見られた気風が消えていったのである。そうして職階が多層化され、競争が強化され、職場の分断が進んだ。
もう一回繰り返しておくが、採点ミスそのものは誰でも起こす可能性のあるミスで、それ自体は問題ではない。問題なのは、それを点検する態勢の方で、職場の自由がないと「ミスが防げなくなる可能性が高くなる」。そして、事前に容易に推測できた「採点期間の短縮の問題性」を事前に把握できないという事態となる。そここそが問題で、今考えないといけないのである。都教委に限らず、また学校に限らず、どこでも起こる問題ではないかと思う。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2014年06月13日)
http://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/9c1578d57de056e61e14191147887098
◆ 権力的教育行政の転換を-都立高入選ミス問題⑧
長く書いてきたので、最後に総論的なことを書いて終りにしたい。とは言うものの、また細かい議論から入ることにする。都教委は来年の一次試験を2月24日(火)としたが、発表日はまだ決定していない。この記事の中で、僕は「22~25で、水から金までに学力検査を行い、翌週の6日目に発表する」のがいいのではと書いた。だから、24(火)というのは支持しないのだが、それはともかく、もし火曜日に検査を行うのだったら、その場合だけは発表は次週の火曜日でなければならないと思うのである。3月2日(月)の発表だったら、実質的に今年と同じで、ミス防止対策にならない。
どういうことか判るだろうか。もし月曜の発表だったら、どんなに遅くても金曜日の夕方には判定会議を開かないといけない。(土曜日の授業がない学校の場合だが。)それでは、水木金の3日間で、採点と入力のチェックを完全に終わらせないといけない。今年と同じである。
合格者に渡す事務的な書類の作成に入るためには、学校の正式機関である合否判定会議を開かないといけない。判定会議を経たのちに、「入学予定者の決定について」という文書を起案し、校長が決済する必要がある。本来は金曜夕方の判定会議でも、教務や事務職員は残業か休日出勤を強いられるだろう。だから合格者決定はもっと早いことが望ましいのだが、日程的に無理だろう。だから、休日にも入選業務を行わざるを得ないので、管理職の何人かも出勤することになるだろう。そうすると、今年の事例を思い出し、自分で再度点検したい校長も出てくるに決まっている。万が一、そこで合否が覆るミスを発見してしまったら、どうするか。校長が経営企画室長や教務主任と協議し、判定会議の結論を変えることにならざるを得ないだろう。月曜発表だと、そのような望ましくないプロセスがあり得る。(実質的な事務態勢は、もう少し融通をきかせているかもしれないが、タテマエ上は以上のように進行する。)
さて、以上のようなことは「現場の事情」が判っているなら、誰でも知ってることである。しかし、この間都教委は「現場の意向を聞かない」ことをモットーにしてきた(としか思えない政策を進めてきた。)だから、学校現場では「もはや現場の意向は取り入れられることはない」と思い込んでいるのではないか。
採点ミス自体は、教員なら(教員でなくても)誰にでもある問題である。教師の「指導力」などとは直接の関係はない。(関係があるとすれば、通勤時間とか当日の体調の方だろう。2月末だから、風邪気味の人がいるのは避けられない。)それでも、学校現場に「自由闊達な気風」が形成されていれば、ミスは点検で発見されやすいのではないだろうか。
東京に限らないと思うが、また教育現場にも限らないと思うが、「現場」における「自由闊達な気風」というのは、日本ウナギ並みの「絶滅危惧種」ではないか。
特に、東京は全国のトップを切って、教育の成果主義、新自由主義的な「改革」が進められてきた。今回のミス多発は、僕にはそのような都教委のすすめてきた「教育風土」が背景にあるのではないかと思う。しかし、都教委はそれを絶対に認めないだろう。「採点態勢の不備」とか「教員の資質の低下」などを原因に挙げ、「教員に対する研修の強化」などを「対策」に打ち出すのではないか。その結果、学校現場の疲弊はますます進むことになる。そうしてはならない。今回の問題をきっかけとして、ここで「東京の教育行政の全面的な転換」に踏み出さないといけない。
今回ミスがなかった学校が何校かある。それらの学校の教員は評価が高くなるかというと、そういうことはない。なぜなら、勤務評定は「同じ学校の教員で相対評価する」からである。
全員でしっかり仕事して、ミスがなかったりすれば、差が付かないではないか。
自分の評価が高くなり給料も上がるためには、同じ学校に成績評価が低くなる教員がいた方がいいことになる。
全員で協力し合わなければならない学校という場所で、こんな「成果主義」を導入して何の意味があるのだろうか。こういう誤った「成果主義」こそが、学校を毒して協力態勢を壊すのである。
都教委が採点期間を短くしてきたのは、何故だろうか。僕が思うには、「都教委はこの日数で出来ると本気で考えていた」という可能性が高い。
「現場の声が聞こえない」「現場も声を挙げない」ということもあるが、この間に完成されてしまった「ピラミッド型勤務体制」、つまり「校長-副校長-主幹教諭-主任教諭-教諭」という「構造」を、「主幹、主任を中心にした機動的な学校経営」を実現したと評価し、その「生産性向上効果」をもってすれば、入選業務もスピード化されるはずだなどと考えていたのではないか。
しかし、現実には同じ教科内で「主幹、主任、教諭」などと分かれていて採点して、果たしてうまく行くのだろうか。若手教師からすれば、職階も違う主幹教諭の採点にミスがあるとは思わないし、見つけても指摘しにくいということはないだろうか。年齢、経験差があるのは仕方ないが、職階としては「同じ教諭」という立場で採点したほうが、「自由闊達」にお互いのミスを指摘し合えるのではないだろうか。
都教委の政策は10数年かけて成立してきたので、すぐには変更が難しい部分もあるだろう。しかし、僕は「異動要項の改定」と「主任教諭制度の廃止」、「職員会議での挙手禁止通達の撤回」あたりから、今までの政策を変えてはどうかと思う。
主任教諭は導入からまだ数年しか経っていないので、教諭と主任教諭の給料表一本化もまだ可能なのではないか。
都の異動要項も明らかにおかしいので、そろそろ変えるべきだ。どうしても個人的事情で異動する教師もいるわけだが、同じ学校に10年程度いられるという異動制度だったら、自分が担任、または授業や部活で接する可能性が非常に高い受検生の答案を採点するわけで、ミス防止効果があるのではないか。来年度は異動だからといって、わざわざミスをするわけではないが、それでも心理的には人間にはそういう部分もあるように思うのである。
また三つ目の「挙手禁止」は、ここ10年以上続いた「おバカ教育行政」の象徴である。もういいでしょ。
このように都教委のあり方を見てくると、やはり「10・23通達」は大きかったと思う。入選ミスの問題はイデオロギーの問題ではないと言われるかもしれない。その通りだけど、学校現場から「イデオロギー的反対派の存在余地をなくす」という政策が進行した結果、イデオロギーとは関係のない問題でも、校長なども委縮して現場の声が反映できない風土が生まれてきたのではないかと思う。
ナチスの時代に言う、最初は共産主義者が排除され、次に社会主義者、自由主義者、最後には穏健なクリスチャンも政府に反対することが出来なくなった、ということと同じである。要するに「茶色の朝」。「毛が茶色以外の犬猫を飼ってはならないという法律」が作られた社会では、人は知らず知らずに「従順」にさせられていく。
「学力検査日を2月23日に固定する」というやり方が決定された時期は、国旗国歌に関して職務命令を校長に義務付けた「10・23通達」や、中高一貫校の中学に扶桑社の教科書採択、性教育に関する弾圧が強まり七生養護学校事件が起きた時期と重なっている。つまり、イデオロギー的に偏向した都教委がどんどん「極右的政策」を進めた時期である。
そういう問題が積み重なると、「自由闊達な気風」というかつての都立高にひろく見られた気風が消えていったのである。そうして職階が多層化され、競争が強化され、職場の分断が進んだ。
もう一回繰り返しておくが、採点ミスそのものは誰でも起こす可能性のあるミスで、それ自体は問題ではない。問題なのは、それを点検する態勢の方で、職場の自由がないと「ミスが防げなくなる可能性が高くなる」。そして、事前に容易に推測できた「採点期間の短縮の問題性」を事前に把握できないという事態となる。そここそが問題で、今考えないといけないのである。都教委に限らず、また学校に限らず、どこでも起こる問題ではないかと思う。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2014年06月13日)
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