《小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」》
☆ 判決は気味が良かったですか?
先月の30日、いわゆる「君が代不起立訴訟」について、最高裁が原告側の上告を棄却する判決を下した。
興味深い話題だ。
が、記事として取り上げるのは、正直に言って、気が重い。
今回は、私自身のこの「気後れ」を出発点に原稿を書き始めてみることにする。
「君が代」について書くことが、どうして書き手にストレスをもたらすのか。
「君が代」の最初の課題はここにある。圧力。見逃されがちだが、大切なポイントだ。
気後れの理由のひとつは、たとえば、コメント欄が荒れるところにある。
愛国心関連の記事がアップされていることが伝わる(どうせ伝わるのだよ。どこからともなく。またたく間に)と、本欄の定期的な読者ではない人々も含めて、かなりの数の野次馬が吸い寄せられてくる。その彼らは、「売国」だとか「反日」だとかいった定型的なコメントを大量に書きこんでいく。休止状態になっている私のブログにも、例によっていやがらせのコメントが押し寄せることになる。メールも届く。「はろー売国奴」とか。捨てアドレスのGmail経由で。
私は圧力を感じる。コメントを処理する編集者にも負担がかかる。デスクにも。たぶん。
ということはつまり、コメント欄を荒らしに来る人々の行動は、あれはやっぱり効果的なのだ。
この程度のことに「言論弾圧」という言葉を使うと、被害妄想に聞こえるだろう。
「何を言ってるんだ? こいつ」
「反論すると弾圧だとさ」
「ん? 読者の側に言論の自由があるとそれは著者にとっての言論弾圧になるということか?」
「どこまで思い上がってるんだ、マスゴミの連中は」
圧力と呼ばれているものの現実的なありようは、多くの場合、この程度のものだ。
憲兵がやってくるとか、公安警察の尾行が付くとか、目の据わった若者が玄関口に立つとか、そういう露骨な弾圧は、滅多なことでは現実化しない。その種の物理的な圧力が実行されるのは、お国がいよいよ滅びようとする時の、最終的な段階での話だ。
わが国のような民主的な社会では、目に見える形での弾圧はまず生じない。
圧力は、「特定の話題を記事にすると編集部が困った顔をする」といった感じの、微妙な行き違いみたいなものとして筆者の前に立ち現れる。と、書き手は、それらの摩擦に対して、「いわく言いがたい気後れ」や、「そこはかとない面倒くささ」を感じて、結果、特定の話題や用語や団体や事柄への言及を避けるようになる。
かくして、「弾圧」は、成功し、言論は萎縮する。そういうふうにして、メディアは呼吸をしている。
当初、私は、この話題を、大阪府の橋下府知事が、起立条例の法案について語ったタイミング(具体的には先々週)で、原稿にするつもりでいた。が、その週はなんとなく気持ちが乗らないので、別の話題(IMF専務理事の強制わいせつ疑惑)を選んだ。翌週も同様。メルトダウンについて書いた。
結局、私は、書きたい気持ちを持っていながら、実現を先送りにしていたわけだ。
理由は、前述した通り、面倒くさかったからだが、より実態に即して、「ビビった」というふうに申し上げても良い。
が、いずれであれ、面倒くさいからこそ書かねばならないケースがある。
君が代は、そういう話題だ。
(中略)
たとえば、結婚指輪の装着を強要することはできる。
が、愛情それ自体を強制することはできない。
メールの末尾に必ずハートマークの付加を要求することは可能だし、毎日一回必ず「愛してるよ」と口に出して言うことを条件づけることもできるだろう。結婚記念日の度に体重分の花束を持って帰るルーティンを習慣化することも不可能ではない。
でも、永遠の愛を義務化することはやはりできない。誓うことはできる。でも、誓いの遵守を強いることはできない。誓いて遠きは男女の仲。残念だが。(略)
橋下さんの真意が、愛国心の涵養にあるのだとすると、おそらく強制は逆効果になる。
なんとなれば、起立や斉唱を強制することは、自発的な愛国心の発露であるところの起立や斉唱をスポイルするはずだからだ。
愛国心は国家の側が制御できる感情ではない。むしろ、国民の内心に育った愛国心が国をコントロールするというのが正しい順序だ。愛は求めるものではない。与えるものだ。
愛国心に限らず、どんな感情であれ、人間の心の動きは、強制できるものではない。
強制可能なのは、形式だけだ。(略)
結婚指輪が一定の意味(具体的には、「ああ、この人は愛妻家なんだな」と思わせる効果)を持っているのは、それをする人間の数が限られているからだ。
皮肉ななりゆきだが、「指輪をしない人」の存在が、「指輪をする人」の誠実さを立証しているのだ。
もし仮に、すべての既婚者が、結婚指輪を身につける法的な義務を帯びているのだとすると、指輪は絆を証し立てる金属としての意味を決定的に失うはずだ。それはたぶん、犬の首輪みたいな感じの、どうにも陰々滅々たる装身具に成り下がるだろう。
というよりも、家畜に押す焼印に近いものになるかもしれない。
(中略)
学校は工場ではない。
教育現場が目指すところの理想は、歩留まりや均質性ではない。効率でも生産性でもない。
学校は、人間を扱う場所だ。
と、当然そこには一定のバラつきが前提として遍在しており、そうである以上、多様性を許す環境が担保されていなければ、教育は十全な機能を果たすことができない。
生徒の個性を尊重するためには、個性ある教師の存在が不可欠だ。というのも、多様な個性を守ることができるのは、多様な個性だけだからだ。(略)
「教育現場であるからこそ、些細な逸脱を見逃すべきではない」という考え方を採用する人々がいる点は承知している。ある面では、彼らの考えが当たっていることも分かっている。たとえば、卒業単位の取得数や入学試験の実務については、安易な妥協は許されない。そこのところをゆるがせにすると、学校としての依って立つ基盤が崩壊してしまう。
でも、式典の歌や国旗の扱いはその限りではない。
すべてにおいて、統一が必要なわけではない。君が代についての対応は、ほかのたとえば、うどんやそばの好き嫌いと同じく、適当にバラついていても構わない。それらの変異は、教育にとって致命的な問題にはならない。
なぜなら、教育はプレス工程ではないし、式典は品質検査ではないからだ。
(中略)
葬儀でも、細かく観察していれば、焼香をしない人たちが一定数いる。
故人を嫌っているからではない。
宗教上の理由で焼香を避ける人たちがいる。これは、仕方のないことだ。
追悼には、それぞれの作法がある。信仰や儀礼は、個人の尊厳に属する事柄だ。誰かが強制して良いことではない。
無論、仏教とは別の信仰を持っている人の中にも、故人の信仰に配慮して、仏法の作法通りに焼香をする人はたくさんいる。それはそれで尊い対応だ。
でも、焼香をしない人の態度も、それもまたそれで立派な対処ではあるのだ。大切なのは、焼香の有無や手順ではない。唯一重要なのは、追悼の感情であり、その表し方は、人それぞれの胸のうちにある。というよりも、追悼は、葬儀に駆けつけたということにおいて、既に十分に果たされている。
大阪の言葉で「歌わす」は、「悲鳴をあげさせる」ことを意味している。なので、その応用形の用法である「うたわしたろか?」は、「私に従わないとひどい目に遭わせるが、それでも良いのか」という意味になる。
もし府知事の真意が府教委の先生方を「うたわす」ところにあるのだとすると、その試みは、おそらく成功しない。
法律は行動を縛ることができる。が法を以て人の心を律することはできない。巨大な岩を砕いて、幾千幾百の小石に分解したのだとしても、それでもなおひとつひとつの石には魂が宿っている。府知事閣下にはぜひともいま一度の賢慮をお願いしたい。
『日経ビジネスonline』(2011/6/3)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110602/220377/?rt=nocnt
☆ 判決は気味が良かったですか?
先月の30日、いわゆる「君が代不起立訴訟」について、最高裁が原告側の上告を棄却する判決を下した。
興味深い話題だ。
が、記事として取り上げるのは、正直に言って、気が重い。
今回は、私自身のこの「気後れ」を出発点に原稿を書き始めてみることにする。
「君が代」について書くことが、どうして書き手にストレスをもたらすのか。
「君が代」の最初の課題はここにある。圧力。見逃されがちだが、大切なポイントだ。
気後れの理由のひとつは、たとえば、コメント欄が荒れるところにある。
愛国心関連の記事がアップされていることが伝わる(どうせ伝わるのだよ。どこからともなく。またたく間に)と、本欄の定期的な読者ではない人々も含めて、かなりの数の野次馬が吸い寄せられてくる。その彼らは、「売国」だとか「反日」だとかいった定型的なコメントを大量に書きこんでいく。休止状態になっている私のブログにも、例によっていやがらせのコメントが押し寄せることになる。メールも届く。「はろー売国奴」とか。捨てアドレスのGmail経由で。
私は圧力を感じる。コメントを処理する編集者にも負担がかかる。デスクにも。たぶん。
ということはつまり、コメント欄を荒らしに来る人々の行動は、あれはやっぱり効果的なのだ。
この程度のことに「言論弾圧」という言葉を使うと、被害妄想に聞こえるだろう。
「何を言ってるんだ? こいつ」
「反論すると弾圧だとさ」
「ん? 読者の側に言論の自由があるとそれは著者にとっての言論弾圧になるということか?」
「どこまで思い上がってるんだ、マスゴミの連中は」
圧力と呼ばれているものの現実的なありようは、多くの場合、この程度のものだ。
憲兵がやってくるとか、公安警察の尾行が付くとか、目の据わった若者が玄関口に立つとか、そういう露骨な弾圧は、滅多なことでは現実化しない。その種の物理的な圧力が実行されるのは、お国がいよいよ滅びようとする時の、最終的な段階での話だ。
わが国のような民主的な社会では、目に見える形での弾圧はまず生じない。
圧力は、「特定の話題を記事にすると編集部が困った顔をする」といった感じの、微妙な行き違いみたいなものとして筆者の前に立ち現れる。と、書き手は、それらの摩擦に対して、「いわく言いがたい気後れ」や、「そこはかとない面倒くささ」を感じて、結果、特定の話題や用語や団体や事柄への言及を避けるようになる。
かくして、「弾圧」は、成功し、言論は萎縮する。そういうふうにして、メディアは呼吸をしている。
当初、私は、この話題を、大阪府の橋下府知事が、起立条例の法案について語ったタイミング(具体的には先々週)で、原稿にするつもりでいた。が、その週はなんとなく気持ちが乗らないので、別の話題(IMF専務理事の強制わいせつ疑惑)を選んだ。翌週も同様。メルトダウンについて書いた。
結局、私は、書きたい気持ちを持っていながら、実現を先送りにしていたわけだ。
理由は、前述した通り、面倒くさかったからだが、より実態に即して、「ビビった」というふうに申し上げても良い。
が、いずれであれ、面倒くさいからこそ書かねばならないケースがある。
君が代は、そういう話題だ。
(中略)
たとえば、結婚指輪の装着を強要することはできる。
が、愛情それ自体を強制することはできない。
メールの末尾に必ずハートマークの付加を要求することは可能だし、毎日一回必ず「愛してるよ」と口に出して言うことを条件づけることもできるだろう。結婚記念日の度に体重分の花束を持って帰るルーティンを習慣化することも不可能ではない。
でも、永遠の愛を義務化することはやはりできない。誓うことはできる。でも、誓いの遵守を強いることはできない。誓いて遠きは男女の仲。残念だが。(略)
橋下さんの真意が、愛国心の涵養にあるのだとすると、おそらく強制は逆効果になる。
なんとなれば、起立や斉唱を強制することは、自発的な愛国心の発露であるところの起立や斉唱をスポイルするはずだからだ。
愛国心は国家の側が制御できる感情ではない。むしろ、国民の内心に育った愛国心が国をコントロールするというのが正しい順序だ。愛は求めるものではない。与えるものだ。
愛国心に限らず、どんな感情であれ、人間の心の動きは、強制できるものではない。
強制可能なのは、形式だけだ。(略)
結婚指輪が一定の意味(具体的には、「ああ、この人は愛妻家なんだな」と思わせる効果)を持っているのは、それをする人間の数が限られているからだ。
皮肉ななりゆきだが、「指輪をしない人」の存在が、「指輪をする人」の誠実さを立証しているのだ。
もし仮に、すべての既婚者が、結婚指輪を身につける法的な義務を帯びているのだとすると、指輪は絆を証し立てる金属としての意味を決定的に失うはずだ。それはたぶん、犬の首輪みたいな感じの、どうにも陰々滅々たる装身具に成り下がるだろう。
というよりも、家畜に押す焼印に近いものになるかもしれない。
(中略)
学校は工場ではない。
教育現場が目指すところの理想は、歩留まりや均質性ではない。効率でも生産性でもない。
学校は、人間を扱う場所だ。
と、当然そこには一定のバラつきが前提として遍在しており、そうである以上、多様性を許す環境が担保されていなければ、教育は十全な機能を果たすことができない。
生徒の個性を尊重するためには、個性ある教師の存在が不可欠だ。というのも、多様な個性を守ることができるのは、多様な個性だけだからだ。(略)
「教育現場であるからこそ、些細な逸脱を見逃すべきではない」という考え方を採用する人々がいる点は承知している。ある面では、彼らの考えが当たっていることも分かっている。たとえば、卒業単位の取得数や入学試験の実務については、安易な妥協は許されない。そこのところをゆるがせにすると、学校としての依って立つ基盤が崩壊してしまう。
でも、式典の歌や国旗の扱いはその限りではない。
すべてにおいて、統一が必要なわけではない。君が代についての対応は、ほかのたとえば、うどんやそばの好き嫌いと同じく、適当にバラついていても構わない。それらの変異は、教育にとって致命的な問題にはならない。
なぜなら、教育はプレス工程ではないし、式典は品質検査ではないからだ。
(中略)
葬儀でも、細かく観察していれば、焼香をしない人たちが一定数いる。
故人を嫌っているからではない。
宗教上の理由で焼香を避ける人たちがいる。これは、仕方のないことだ。
追悼には、それぞれの作法がある。信仰や儀礼は、個人の尊厳に属する事柄だ。誰かが強制して良いことではない。
無論、仏教とは別の信仰を持っている人の中にも、故人の信仰に配慮して、仏法の作法通りに焼香をする人はたくさんいる。それはそれで尊い対応だ。
でも、焼香をしない人の態度も、それもまたそれで立派な対処ではあるのだ。大切なのは、焼香の有無や手順ではない。唯一重要なのは、追悼の感情であり、その表し方は、人それぞれの胸のうちにある。というよりも、追悼は、葬儀に駆けつけたということにおいて、既に十分に果たされている。
大阪の言葉で「歌わす」は、「悲鳴をあげさせる」ことを意味している。なので、その応用形の用法である「うたわしたろか?」は、「私に従わないとひどい目に遭わせるが、それでも良いのか」という意味になる。
もし府知事の真意が府教委の先生方を「うたわす」ところにあるのだとすると、その試みは、おそらく成功しない。
法律は行動を縛ることができる。が法を以て人の心を律することはできない。巨大な岩を砕いて、幾千幾百の小石に分解したのだとしても、それでもなおひとつひとつの石には魂が宿っている。府知事閣下にはぜひともいま一度の賢慮をお願いしたい。
『日経ビジネスonline』(2011/6/3)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110602/220377/?rt=nocnt
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