◆ フィンランドの教育と比べ、ファシズム的な日本の教育の問題点 (ハーバービジネスオンライン)
古田島大介
ひと昔前まで、フィンランドは福祉国家としての印象が強かった。しかし、近年は教育の質の高さに注目が集まっている。学校教育では、日本に比べてフィンランドの授業数が半分以下にも関わらず、PISA(15歳児童の学習到達度国際比較)において世界1位を達成している。
小学校から大学に至るまで無償で教育を受けることができ、合理的で人生観を育むフィンランドの教育法にはどんな特徴があるのか。
8月18日に「テストも運動会も制服もいらない?! 本当の教育に必要なものを考える」と題して開催されたイベントには、ヘルシンキ大学非常勤教授で『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(新潮新書)著書の岩竹美加子氏と、『PTA不要論』の著者として知られるノンフィクション作家の黒川祥子氏が登壇。
参加者とともに、日本の教育を見つめ直すきっかけとなるような議論が行われた。
まず岩竹氏が、フィンランドの学校教育の実情について語った。
「フィンランドの学校は、日本の教育現場とは全く異なる。日本のような殺伐とした空間ではなく、所々にソファーやクッションが置いてあって休めるようになっているため、フィンランドではゆったりとリラックスして学校生活を送れる」
規律性や道徳性を求められる日本とは異なり、子供一人ひとりが伸び伸びと成長できる環境が用意されていることに言及した。
さらに、「日本と決定的に違うのは、行事がほとんどないこと」だという。
「入学式や始業式、終業式、運動会も行われない。あるのは高校で行われる文化祭のような舞踏会くらい。テストも学力を測って順列をつけるといった評価をしないため、偏差値自体がない。フィンランドの教育は、一人ひとりの子供が、かけがえのない存在であると捉えている。他の子供と比べず、自分の成長と生きるために必要な素養を学ぶ環境が揃っている」(岩竹氏)
日本の学校教育は、国からのトップダウンで何から何まで決まる。
指定の教科書やカバン、制服。
そして科目の5段階評価やテストの出来栄えで順列がつけられ、
学力の高低で進学できる学校が決まってくる。
とかく日本の学校生活はルールに厳しく、人と外れたことをすれば罰せられる。ここには、ある種の息苦しさがあるのではと感じる。
一方でフィンランドの教育は、肩の力を抜いて学校に通うことができ、教育を通して自分の本来やりたいこと、興味あることに向き合える。ここが大きな違いなのではないだろうか。
黒川氏は、フィンランド教育と日本の教育について次のような意見を述べた。
「フィンランドは子供の権利条約についても学校で教え、子供は尊重される存在であることを伝えている。片や、日本では権利ではなく義務を押し付けているのではと感じる。日本の学校は子供の権利条約を教えず、子供が大切にされることを学べない環境下にあるため、自己肯定感を持てない子供が多くなる原因の1つになっている」
一定の基準通り画一的に教育をしていく。確かにこれであれば、社会のレールに沿った規則正しい人間形成ができるのかもしれない。
しかし一方で、そのレールから外れた者は烙印を押され、マイノリティーとして見られる。こうした日本社会の縮図は、規律性や道徳性を求める日本の教育が生み出したものと考えられなくもない。
多様な生き方やダイバーシティが注目されつつある中、基本に立ち返って、もっと日本の教育現場は変わっていくべきではないだろうか。
◆ 日本の学校に根付くファシズム的思想
次に、日本特有のPTA組織のあり方について話が及んだ。
「フィンランドにはPTAのような組織がない。親は、任意の市民団体を作って学校とは別で活動をしている。日本は半強制的に親がPTAに参加し、行政や学校とともに活動しなければならない。PTAが子供たちの役に立てばいいものの、国の施策に従わざるを得ないため、どうなるか見当がつかないのはとても怖い」(岩竹氏)
親が行政の言いなりになる日本のPTAや団体は、もっと変革していく必要があるのでは。こう主張した岩竹氏に呼応するように、黒川氏は
「PTAは日本最大の市民組織であるため、国に利用される恐れがある。国に都合のいいように使われる危険性をもつ。行政や国につながる組織ではなく、学校独自の組織として、子供のためになる活動をする団体としてあるべき。そうすれば親はもっと楽になる」と述べた。
日本特有のPTA組織は戦前の母の会の流れを汲むものだという。奉仕と修養の精神で作られた母の会は、その名残をPTAに受け継ぎ、国の縦割り組織の一部として機能している。
国の都合でPTA活動や学校の教育方針が決まってしまうのは、ファシズム的思想にも似た構造が見られると岩竹氏は意見を述べた。
「事故が起きているのにやめない組体操問題は、ファシズム的な思想が今も残っている象徴なのではないだろうか。かつての軍隊式な考えの最たるものであり、旧来の教育方法から脱却できずにいる現状。今もナショナリズム的な考えがはびこっていることが、レールの上に成り立った日本の画一的な義務教育につながっているのでは」
◆ いじめは対処するのはなく、予防の意識が大切
フィンランドでは日本のようにいじめが起こってから対処するのではなく、予防に注力しているという。
いじめ防止プログラムが学校に用意されていて、傍観しないよう啓蒙がされている。
「いじめは人との関わり合いのスキルの問題だと思う。日本はいじめに対してドライな反応を示す。やり過ごすもの、我慢するものであると。見て見ぬふりせざるを得ない状況は、日本社会が、子供から大人まで苦役を与える構造になっているからなのでは」と日本のいじめに対する考え方について岩竹氏が意見を述べた。
「いじめがないと報告すれば、校長の評価につながる。こうした背景があるから、臭い物に蓋をする形でいじめを隠蔽してしまう。いじめを見て見ぬ振りをしている学校の体質は、今後変えていかないと、いじめ問題は解決しない」と黒川氏。
日本は、2018年から道徳の授業が教科化され、5段階評価がつくようになった(転載者注:数値ではなく記述式で評価することになっている)。道徳の授業では、規律性や道徳性を育むことが主眼に置かれている。しかし、いじめの根本的な防止に繋がるのかは疑問だ。
画一的な教育方針で、授業で何でも詰め込もうとする日本の教育。
近い将来、確実にAI時代が到来するからこそ、教育現場で考えるべきことは、「人を育てる」ことの根源を問うことなのではないだろうか。
フィンランドのようにシンプルで合理的な教育をどう取り入れていけば良いか。日本の教育を見直すターニングポイントが来ているのかもしれない。
<取材・文/古田島大介>
※ 古田島大介
1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている。
『ハーバー・ビジネス・オンライン』(2019.09.06)
https://hbol.jp/201022?cx_clicks_art_mdl=9_title
古田島大介
ひと昔前まで、フィンランドは福祉国家としての印象が強かった。しかし、近年は教育の質の高さに注目が集まっている。学校教育では、日本に比べてフィンランドの授業数が半分以下にも関わらず、PISA(15歳児童の学習到達度国際比較)において世界1位を達成している。
小学校から大学に至るまで無償で教育を受けることができ、合理的で人生観を育むフィンランドの教育法にはどんな特徴があるのか。
8月18日に「テストも運動会も制服もいらない?! 本当の教育に必要なものを考える」と題して開催されたイベントには、ヘルシンキ大学非常勤教授で『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(新潮新書)著書の岩竹美加子氏と、『PTA不要論』の著者として知られるノンフィクション作家の黒川祥子氏が登壇。
参加者とともに、日本の教育を見つめ直すきっかけとなるような議論が行われた。
まず岩竹氏が、フィンランドの学校教育の実情について語った。
「フィンランドの学校は、日本の教育現場とは全く異なる。日本のような殺伐とした空間ではなく、所々にソファーやクッションが置いてあって休めるようになっているため、フィンランドではゆったりとリラックスして学校生活を送れる」
規律性や道徳性を求められる日本とは異なり、子供一人ひとりが伸び伸びと成長できる環境が用意されていることに言及した。
さらに、「日本と決定的に違うのは、行事がほとんどないこと」だという。
「入学式や始業式、終業式、運動会も行われない。あるのは高校で行われる文化祭のような舞踏会くらい。テストも学力を測って順列をつけるといった評価をしないため、偏差値自体がない。フィンランドの教育は、一人ひとりの子供が、かけがえのない存在であると捉えている。他の子供と比べず、自分の成長と生きるために必要な素養を学ぶ環境が揃っている」(岩竹氏)
日本の学校教育は、国からのトップダウンで何から何まで決まる。
指定の教科書やカバン、制服。
そして科目の5段階評価やテストの出来栄えで順列がつけられ、
学力の高低で進学できる学校が決まってくる。
とかく日本の学校生活はルールに厳しく、人と外れたことをすれば罰せられる。ここには、ある種の息苦しさがあるのではと感じる。
一方でフィンランドの教育は、肩の力を抜いて学校に通うことができ、教育を通して自分の本来やりたいこと、興味あることに向き合える。ここが大きな違いなのではないだろうか。
黒川氏は、フィンランド教育と日本の教育について次のような意見を述べた。
「フィンランドは子供の権利条約についても学校で教え、子供は尊重される存在であることを伝えている。片や、日本では権利ではなく義務を押し付けているのではと感じる。日本の学校は子供の権利条約を教えず、子供が大切にされることを学べない環境下にあるため、自己肯定感を持てない子供が多くなる原因の1つになっている」
一定の基準通り画一的に教育をしていく。確かにこれであれば、社会のレールに沿った規則正しい人間形成ができるのかもしれない。
しかし一方で、そのレールから外れた者は烙印を押され、マイノリティーとして見られる。こうした日本社会の縮図は、規律性や道徳性を求める日本の教育が生み出したものと考えられなくもない。
多様な生き方やダイバーシティが注目されつつある中、基本に立ち返って、もっと日本の教育現場は変わっていくべきではないだろうか。
◆ 日本の学校に根付くファシズム的思想
次に、日本特有のPTA組織のあり方について話が及んだ。
「フィンランドにはPTAのような組織がない。親は、任意の市民団体を作って学校とは別で活動をしている。日本は半強制的に親がPTAに参加し、行政や学校とともに活動しなければならない。PTAが子供たちの役に立てばいいものの、国の施策に従わざるを得ないため、どうなるか見当がつかないのはとても怖い」(岩竹氏)
親が行政の言いなりになる日本のPTAや団体は、もっと変革していく必要があるのでは。こう主張した岩竹氏に呼応するように、黒川氏は
「PTAは日本最大の市民組織であるため、国に利用される恐れがある。国に都合のいいように使われる危険性をもつ。行政や国につながる組織ではなく、学校独自の組織として、子供のためになる活動をする団体としてあるべき。そうすれば親はもっと楽になる」と述べた。
日本特有のPTA組織は戦前の母の会の流れを汲むものだという。奉仕と修養の精神で作られた母の会は、その名残をPTAに受け継ぎ、国の縦割り組織の一部として機能している。
国の都合でPTA活動や学校の教育方針が決まってしまうのは、ファシズム的思想にも似た構造が見られると岩竹氏は意見を述べた。
「事故が起きているのにやめない組体操問題は、ファシズム的な思想が今も残っている象徴なのではないだろうか。かつての軍隊式な考えの最たるものであり、旧来の教育方法から脱却できずにいる現状。今もナショナリズム的な考えがはびこっていることが、レールの上に成り立った日本の画一的な義務教育につながっているのでは」
◆ いじめは対処するのはなく、予防の意識が大切
フィンランドでは日本のようにいじめが起こってから対処するのではなく、予防に注力しているという。
いじめ防止プログラムが学校に用意されていて、傍観しないよう啓蒙がされている。
「いじめは人との関わり合いのスキルの問題だと思う。日本はいじめに対してドライな反応を示す。やり過ごすもの、我慢するものであると。見て見ぬふりせざるを得ない状況は、日本社会が、子供から大人まで苦役を与える構造になっているからなのでは」と日本のいじめに対する考え方について岩竹氏が意見を述べた。
「いじめがないと報告すれば、校長の評価につながる。こうした背景があるから、臭い物に蓋をする形でいじめを隠蔽してしまう。いじめを見て見ぬ振りをしている学校の体質は、今後変えていかないと、いじめ問題は解決しない」と黒川氏。
日本は、2018年から道徳の授業が教科化され、5段階評価がつくようになった(転載者注:数値ではなく記述式で評価することになっている)。道徳の授業では、規律性や道徳性を育むことが主眼に置かれている。しかし、いじめの根本的な防止に繋がるのかは疑問だ。
画一的な教育方針で、授業で何でも詰め込もうとする日本の教育。
近い将来、確実にAI時代が到来するからこそ、教育現場で考えるべきことは、「人を育てる」ことの根源を問うことなのではないだろうか。
フィンランドのようにシンプルで合理的な教育をどう取り入れていけば良いか。日本の教育を見直すターニングポイントが来ているのかもしれない。
<取材・文/古田島大介>
※ 古田島大介
1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている。
『ハーバー・ビジネス・オンライン』(2019.09.06)
https://hbol.jp/201022?cx_clicks_art_mdl=9_title
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