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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

2.9再雇用拒否2次裁判結審 原告陳述(2)

2015年02月15日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 ◎ 現場の教員に力を与える判決を
原告 B

 被告都教委は職務命令違反が重大な非違行為であり、この1点で私達の採用を拒否したと主張しています。私は、「教育」というのは多様な立場や価値観が寛容されなければならないこと、そして被告の主張が誤りであることを、教育者としての経験から述べさせていただきます。
 1 教員と校長・都教委の「教育」についての考え方の違い(Y君事件を通じて)
 教育現場の観点から見ると、都教委及び校長による判断が間違っていることはよくあることです。私がそれを痛感したのは、Y君をめぐる出来事でした。
 (1)Y君事件について
 私が都立X高校に赴任し、1年生のクラス担任をしていた2000年3月のことです。男子生徒の中でも一番身体の大きいY君が突然に無断欠席を続けました。それまで休んだこともなかったので家に電話をしたのですが、なかなか連絡が取れません。
 そんな中、突然に警察から学校に電話がありました。Y君を逮捕したと言うのです。
 驚きました。私は、すぐに江戸川区内の警察署へ行き、Y君と面会しました。殺風景な小部屋にY君が現れました。身体は大きいといってもまだ16歳の少年です。比較的元気そうに見えましたが、最後は涙ぐんでいました。
 担当の刑事さんのお話しによれば、逮捕したのはおやじ狩りの殺人事件に関連して、ということでした。実際にはY君はその殺人事件とは関わりがなかったのですが、別のおやじ狩りに2回ほど参加していたということでした。
 この時、刑事さんにお伺いしたところ、Y君の今後は、家庭裁判所へ送致され、少年院送りになるのが通例ということでした。しかし、学校が今後Y君をしっかり教育し、面倒をみるという内容の「上申書」を出してくれるならば、学校に任せるという可能性もある、とのことでした。
(2)校長の対応と職員会議での決定
 翌日、私は校長室へ行き、校長に事件の概要を伝え、「上申書」の作成を依頼しました。校長は担任である私にY君についていろいろ尋ねてきましたので、これまで欠席もなく、クラスのリーダーであることを伝え、今後は悪い仲間と手を切り、更生してくれることを信じていると話しました。
 ところが校長は「上申書」を書かないというのです。私は何度もお願いしましたが、校長はどうしても書かないというのです。逮捕されるほど面倒な不良生徒は学校へ戻さない方が学校経営としては安全というのです。
 そこで、私は、担任の立場で「上申書」を作成し提出したいと職員会議で報告し、他の教員の意見を求めました。
 本当にたくさんの意見が出されました。Y君を担当している教員がそれぞれ意見を述べました。遅くまで議論をした結果、上申書を作成してY君を学校として受け入れ、教員集団全体で見守っていこうと確認しました。その後、私は家庭裁判所の調査官と何度か面談し、審判廷では裁判官に「学校全体で受け入れます」と証言しました。
 その結果、Y君は学校に復帰し、その後の2年間の高校生活を無事に過ごし、卒業していきました。事件後の2年間、いろいろな教員がY君を見守り、Y君を成長させ、そしてY君は立派に卒業しました。教育の力の大きさを改めて知ることができました。
 しかし、あのまま、校長にしたがって学校がY君を切り捨てていたならば、彼の将来はどうなっていたか分かりません。このように、Y君の事件は、校長の判断と現揚教職員の判断とは異なることがあることを明らかにしています。
 2「教育」についての考え方の違いと私の不起立
 (1)職員会議の持つ重要な役割

 Y君を受け入れることは、確かにリスクを伴い、学校経営の立場からすれば不利益かもしれません。しかし、担任を始めとする教員集団は、一人の生徒をどのように成長させていくのかという「教育」の立場から判断し、Y君を学校に受け入れました。
 学校は言うまでもなく「教育」の場です。笑顔で卒業していったY君の姿を見た時、私達教員集団の判断の正しさを見ることができました。教員は、子どもの人格の成長を目指す「教育」に責任を持っているのです。それは効率を重視する校長の立場とは異なるのです。
 このような、校長と現場教職員の立場の違いからくる判断の違いを調整する役割を果たしてきたのが職員会議でした。職員会議を中心とした学校教育のあり方は、戦後長く培われてきた教育慣行であり、教育の条理です。私は、長年の教員生活の中で、職員会議で徹底的に議論する「教育」こそ生徒の成長に一番ふさわしいことを実感しています。
 (2)職員会議の決定を無視した校長の職務命令と私の不起立
 私が職務命令違反に問われて処分されたのは「通達」が出された直後の2004年の卒業式でした。卒業式の進行要領については、職務命令が出される前に職員会議で決定されていました。
 しかし、校長は都教委から通達という名の命令を受けるや、職員会議での決定を無視して、全教員に職務命令を乱発しました。都教委は、通達と職務命令により、職員会議で議論をして中身を作り上げていた卒入学式を、命令による卒業式に変えてしまったのです。
 私が不起立をせざるを得なかったのは、陳述書に記載したように外国籍生徒を尊重するためであり、また同時に教育慣行である職員会議の合意を優先させただけなのです。
 被告は、職員会議の果たす重要な役割を無視し、職務命令に違反したことのみで「重大な非違行為」があるとし、この1点を理由に採用拒否をしたのだと主張しています。しかし、このような被告の主張は、「教育」に責任を持つ教員の立場からすれば、到底承服できるものではありません。
 3 職務命令体制は真の「教育」ではない
 「10.23通達」以降、都教委は、校長に対する業績評価や人事異動の権限を存分に使って、校長を都教委の意向に従わせています。また、職員会議における挙手禁止の通達が出された結果、職員会議はその役割を形骸化させられ、校長の権限と職務命令のみが優先されてきています。
 このように都教委は、現揚の教員を自らの意に沿わせるよう職務命令体制を作り上げてきたのです。そして、通達→職務命令→懲戒処分→採用拒否という一連の仕組みが出来上がった結果、現場の教員は萎縮し、教育に対する情熱を失い、教員間の協働もなくなり、教育現場では何も言えない状態になっています。
 2011年~12年にかけて出された卒入学式の懲戒処分事件に対する一連の最高裁判決では、卒入学式での職務命令は憲法に反しないという判断がなされました。
 しかし、一連の最高裁判決は、事実上、卒入学式の時だけでなく、日常的に出される職務命令体制をも追認することになりました。その結果、今日の東京の教育現場では、職務命令体制の行き過ぎにより、管理職によるパワハラが横行する等、深刻な状態になっています。また、一人ひとりの児童生徒と向き合い寄り添うような「教育」は否定され、受験での合格数や学力調査の点数のみが重視されてきています。
 生徒に寄り添う教育を行なおうとしても、「一連の仕組み」によって定年後に再雇用されないという「脅し」を前にし、教員間の協働もなければ、到底そのような教育を実施してゆくことはできません。都立学校の現場は、真の「教育」とかけ離れてしまっています。
 4 おわりに
 「教育」というのは多様な立場や価値観が寛容されなければなりません。その「教育」を実現するのは、職員会議を中心とした教員集団でした。どうか本件訴訟では、職務命令体制を安易に追認することなく、現場の教員に力を与える判決が出されますように、心より願うものです。
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