◆ 「君が代」不起立戒告処分取消控訴審第2回口頭弁論を終えて
まずは、多くの方々が傍聴支援に駆けつけてくださり本当にありがとうございました。
第2回控訴審審理は、被控訴人から出された準備書面に対して控訴人側が反論書を出すことになり、第3回の口頭弁論へとつながりました。
◆ 第3回口頭弁論期日 12月5日(水)15:30 高裁74号法廷にて
さて、閉廷後、近隣の弁護士会館で報告集会がもたれましたが、そこで控訴人のひとりとして感じたことを記しておきます。
前半、被控訴人の準備書面に対してどう反論していくか、というところで話題になったのは、おもに教育長の職務命令の有効性でした。それを崩すことができれば、控訴人のひとりである井前さんの処分取消も十分考えられます。たとえ一部であったとしても「勝訴」の可能性をだれもが追求したい思いで議論は盛り上がりました。
ところが、その時、支援者であるお一人の方がおっしゃったこと、「この裁判はなにより教育裁判であるのだ」という言葉が耳に残りました。
たしかに、私自身もそのことを訴えてきたつもりですが、裁判では、相手側である大阪府教育委員会も、そして裁判所もまるで見向きもしないことに、私たちもついつい技術的というと語弊があるかもしれませんが、「勝ち」を目指してしまったように思います。
むろん裁判をしたからには勝訴を目指すのは当然かもしれません。しかし、私は、そのこと以上に、学校で何が起こっているのかを多くの人に知っていただきたく裁判に訴えたのですから。
教育行政が、公教育をある方向に導くことはとても危険なことです。
まして、今、いろんな場面で、どれほど政治の力が行政に働いているか、私たちは嫌になるほど見聞きさせられています。
大阪においては、維新の会が主導したところの「教育改革」に、当初こそ教育委員会は抵抗したものの、今では百パーセント、政治に従っているといっても過言ではないほどです。それだけ、行政は歪められてしまったわけです。
入学式や卒業式で、国旗国歌を強制するのは明らかに政治的な意図があります。
大阪では、先の戦争の反省から「日の丸」「君が代」を学校に持ち込ませない、また地域には日本人ばかりでなく少なからぬ外国人が暮らしていること、なによりいわゆる「在日」の生徒たちはいまだ本名を名乗ることが難しい状況が日本社会にあることなどから、多くの教員は学校における「日の丸」「君が代」の実施には実に長い間抵抗してきました。いわば、教育に政治が介入するのを、現場でギリギリのところで防いできたわけです。
ところが、大阪府知事であり市長であった橋下徹氏は、有無を言わせず条例を制定して、子どもたちの手本として教員に「君が代」を歌うことを強制してきたわけです。
明らかに為政者による「都合のいい」教育が仕組まれ、その担い手として教員が利用されることになったわけです。まさに政治が教育に露骨なまでに介入してきたわけです。
これを防ぐことができなかったのは私たちの力不足と言えましょう。しかし、だからといって「仕方がない」とは考えたくありません。いくらなんでもそれはおかしい、そういう気持ちで始めた裁判でした。
「君が代」条例施行以降、問題は「君が代」強制にとどまらず、政治の意のままに行政が動き、それがそのまま現場におりてきて教員は従わざるを得ない構図ができてしまったように思います。
いま、私たちは、「君が代」裁判とは公教育を問い直す裁判であるのだという原点に戻り、大阪の教育の問題を考えていく必要があるのかもしれません。
現場の教員のみなさん、教育行政に携わるみなさん、保護者、市民のみなさん。そして小学生、中学生、高校生のみなさん、卒業生のみなさん、ともに考えてみませんか。(控訴人T)
『グループZAZA』(2018-09-22)
https://blog.goo.ne.jp/zaza0924/e/44d66892cd24ee3357f8ce59ce2de6eb
まずは、多くの方々が傍聴支援に駆けつけてくださり本当にありがとうございました。
第2回控訴審審理は、被控訴人から出された準備書面に対して控訴人側が反論書を出すことになり、第3回の口頭弁論へとつながりました。
◆ 第3回口頭弁論期日 12月5日(水)15:30 高裁74号法廷にて
さて、閉廷後、近隣の弁護士会館で報告集会がもたれましたが、そこで控訴人のひとりとして感じたことを記しておきます。
前半、被控訴人の準備書面に対してどう反論していくか、というところで話題になったのは、おもに教育長の職務命令の有効性でした。それを崩すことができれば、控訴人のひとりである井前さんの処分取消も十分考えられます。たとえ一部であったとしても「勝訴」の可能性をだれもが追求したい思いで議論は盛り上がりました。
ところが、その時、支援者であるお一人の方がおっしゃったこと、「この裁判はなにより教育裁判であるのだ」という言葉が耳に残りました。
たしかに、私自身もそのことを訴えてきたつもりですが、裁判では、相手側である大阪府教育委員会も、そして裁判所もまるで見向きもしないことに、私たちもついつい技術的というと語弊があるかもしれませんが、「勝ち」を目指してしまったように思います。
むろん裁判をしたからには勝訴を目指すのは当然かもしれません。しかし、私は、そのこと以上に、学校で何が起こっているのかを多くの人に知っていただきたく裁判に訴えたのですから。
教育行政が、公教育をある方向に導くことはとても危険なことです。
まして、今、いろんな場面で、どれほど政治の力が行政に働いているか、私たちは嫌になるほど見聞きさせられています。
大阪においては、維新の会が主導したところの「教育改革」に、当初こそ教育委員会は抵抗したものの、今では百パーセント、政治に従っているといっても過言ではないほどです。それだけ、行政は歪められてしまったわけです。
入学式や卒業式で、国旗国歌を強制するのは明らかに政治的な意図があります。
大阪では、先の戦争の反省から「日の丸」「君が代」を学校に持ち込ませない、また地域には日本人ばかりでなく少なからぬ外国人が暮らしていること、なによりいわゆる「在日」の生徒たちはいまだ本名を名乗ることが難しい状況が日本社会にあることなどから、多くの教員は学校における「日の丸」「君が代」の実施には実に長い間抵抗してきました。いわば、教育に政治が介入するのを、現場でギリギリのところで防いできたわけです。
ところが、大阪府知事であり市長であった橋下徹氏は、有無を言わせず条例を制定して、子どもたちの手本として教員に「君が代」を歌うことを強制してきたわけです。
明らかに為政者による「都合のいい」教育が仕組まれ、その担い手として教員が利用されることになったわけです。まさに政治が教育に露骨なまでに介入してきたわけです。
これを防ぐことができなかったのは私たちの力不足と言えましょう。しかし、だからといって「仕方がない」とは考えたくありません。いくらなんでもそれはおかしい、そういう気持ちで始めた裁判でした。
「君が代」条例施行以降、問題は「君が代」強制にとどまらず、政治の意のままに行政が動き、それがそのまま現場におりてきて教員は従わざるを得ない構図ができてしまったように思います。
いま、私たちは、「君が代」裁判とは公教育を問い直す裁判であるのだという原点に戻り、大阪の教育の問題を考えていく必要があるのかもしれません。
現場の教員のみなさん、教育行政に携わるみなさん、保護者、市民のみなさん。そして小学生、中学生、高校生のみなさん、卒業生のみなさん、ともに考えてみませんか。(控訴人T)
『グループZAZA』(2018-09-22)
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