《東京新聞【ミラー】》
◆ 教育現場には余裕必要
先月二十九日のミラー「生活指導の信念失うな」を拝見し、「愛の鞭」の名の下、「体罰=暴力」指導容認論が復活するのではないかと危惧している。
私自身、三十八年間、都立高保健体育科教師やラグビー部顧問として指導してきた。他校ラグビー部顧問が、試合に負けた部員を殴ったり、同僚教師が体罰指導したりすれぽ、嫌われることを恐れず、その都度激しく抗議してきた。
「部員、生徒を殴るな。馬や牛ではない。荒れた生徒も奥底に“少しでも人として成長したい”の願いを持っている。一人一人の人権を大切にする教育を」と。
先日のミラーにあった「部活をさぼり、屋上でたばこを吸っていた」時こそ、教師と生徒が本音で語る絶好の機会なのだ。「体罰=暴力」指導は、勝手な私的感情の思い込みで、教育に絶対必要な粘り強い「説得・納得」指導の放棄である。
「何としても立ち直らせる」強い信念は、殴らなくても示せる。私は体罰指導を受けた生徒が大人になった時、暴力指導肯定の連鎖を恐れる。
いま教育現場は、煩雑な書類書きに追われ、職員会議での話し合いもない。成果主義導入で同僚との協働もなく、悩みを共有することも少ない。貧困家庭の急増で、しつけも学校に頼られる。なのに非正規教師が急増、現場は“ブラック企業”の過密労働だ。
本来は問題行動の生徒に、「どうした?」と聞く心の余裕が必要で、一学級三十五~四十人ではなく、少人数によるきめ細かい指導が求められる。生徒一人とじっくり向き合える教育環境の整備こそ、行政の緊急な責務である。
◆ 教育現場には余裕必要
元高校教員 星野直之 71 (東京都立川市)
先月二十九日のミラー「生活指導の信念失うな」を拝見し、「愛の鞭」の名の下、「体罰=暴力」指導容認論が復活するのではないかと危惧している。
私自身、三十八年間、都立高保健体育科教師やラグビー部顧問として指導してきた。他校ラグビー部顧問が、試合に負けた部員を殴ったり、同僚教師が体罰指導したりすれぽ、嫌われることを恐れず、その都度激しく抗議してきた。
「部員、生徒を殴るな。馬や牛ではない。荒れた生徒も奥底に“少しでも人として成長したい”の願いを持っている。一人一人の人権を大切にする教育を」と。
先日のミラーにあった「部活をさぼり、屋上でたばこを吸っていた」時こそ、教師と生徒が本音で語る絶好の機会なのだ。「体罰=暴力」指導は、勝手な私的感情の思い込みで、教育に絶対必要な粘り強い「説得・納得」指導の放棄である。
「何としても立ち直らせる」強い信念は、殴らなくても示せる。私は体罰指導を受けた生徒が大人になった時、暴力指導肯定の連鎖を恐れる。
いま教育現場は、煩雑な書類書きに追われ、職員会議での話し合いもない。成果主義導入で同僚との協働もなく、悩みを共有することも少ない。貧困家庭の急増で、しつけも学校に頼られる。なのに非正規教師が急増、現場は“ブラック企業”の過密労働だ。
本来は問題行動の生徒に、「どうした?」と聞く心の余裕が必要で、一学級三十五~四十人ではなく、少人数によるきめ細かい指導が求められる。生徒一人とじっくり向き合える教育環境の整備こそ、行政の緊急な責務である。
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