【浦部法穂 神戸大学名誉教授の証人尋問 傍聴メモ】
◆ 憲法19条(思想・良心の自由)の<法規範3つの意味>
1、権力による思想の強制の禁止。
2、思想を理由とする「不利益取扱」の禁止。
3、権力による思想推知の禁止。
(=権力が、その人がどういう思想を持っているのか調査することを禁止している。思想推知が歴史的に、有形無形の圧迫を加えることが常であった。)
◆ 憲法19条は、絶対的保障である。
内心作用の自由を保障するものであり ⇔ 内心にとどまる限り、他者の権利を侵害することがない。
いかなる場合も、内心における物の見方考え方の自由は保障される。
● 他者の権利に具体的に害悪を及ぼす場合は規制を受ける⇒21条(表現の自由)の問題
その場合にも、厳密・厳格な審査が必要である。
・害悪に着目した規制であること、
・害悪が実際に、存在しているのか否か、
・害悪を防止するための最小限か、
● 特定の思想のみ規制することを意図している場合は「19条違反」である。
権力がある特定の思想を「これが正しいのだから、これに従いなさい」と、個人にいくら強制したところで、個人の内心を変えさせられない。
思想の強制はその思想に基づく“行為”を強制させるのが常である。
民主主義を標榜する国家は、直接的思想弾圧はまず考えられない。
権力側が宣伝し、「こういうのが正しいんだから」というのは、マインドコントロールに等しく、権力が統制して特定思想の干渉となる。
間接的に、マインドコントロールを通じて統制していくことになる。
◆ 法義務が免除されるケースもある
法令による強制ないし禁止は、一般的には、19条違反とならない。
しかし法令さえ定めれば、内心を統制できてしまうのもおかしい。
思想・良心に基づき法義務が免除されるのは2つのケースである。
(A)憲法秩序に照らして、本来本人の自律的価値判断に委ねられるべきこと〔客観的〕。
ex.判例では南九州税理士会最高裁判例。教科書的事例では神社参拝の強制。
(B)当該法義務に従うことが、本人の人間性の核心に触れる場合〔主観的〕。
ex.判例ではエホバ信仰と剣道最高裁判例。教科書的事例では良心的兵役拒否。
当事案は、(A)のケースに当たる。
◆ 国旗国歌の機能
国旗・国歌とは、重層的・多元的な国民を一元的国家権力に統合するために登場したもので『国家への国民統合』という機能を持つ。
「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」行為は、統治権力=一元的権力への統合というものを積極的に自ら認めていく行為である。
主観的に思っているかどうかではなく、「国家というものに積極的に価値を認めるという考え方の表明としての意味を持つ行為」である。
『国家・国民という枠組みの中で生きている』が、今日、世界的流れは『国家・国民という枠組みの中で生きている』だけが生き方ではない。
『国家・国民』から離れ、『国家・国民』が揺らぎ、EUという大枠組が出来上がっている。
地球環境(問題)や、資源、人口問題などをとってみても、国家の枠組みを前提にしていたのでは、今日解決しない。
UNDPも1994年に、国家の安全保障から人間の安全保障に代わっており、国家の枠組みを離れた生き方が現実的意味合いを持っている。
国家に対する考え方は多様化しており、個人がどのように生きていくのかは、個々人が判断すべきで、強制は、19条:内心の自由を侵害することになる。
国旗に向かって起立し、国歌を歌うことは、個々人が自立的に判断すべき事柄を強制されることであり、従わないということが認められるべきである。
憲法19条の保証は、絶対的保障である。
個々人の判断にゆだねられるべきことが強制されるのは憲法違反である。
◆ 『教師が起立しないことが、こどもの学習権を侵害しているという』都教委の主張について
『国家というものに積極的な価値を認める価値が正しいんだ』と考えるのは、国家という枠組みを絶対視すること。
⇔ 健全な、多様な考え方・多様な生き方を教えることが大切である。
こどもに一方的に『国家というものに積極的な価値を認める価値が正しいんだ』と植え付けるのは逆に学習権を侵害することになる。
公立学校の教員に対して起立斉唱には、義務の免除が認められる。
個人としての生き方の一番根本的な部分で、権力が介入してはならない。
公務員であるか、教員であるか、関係がない。
本件控訴人の171人の個々人の自立的判断にゆだねられる。
当該個人がどのような思想を持っているのかではなく、当該行為の客観的性格によって判断すれば良い。
◆「思想の推知の禁止について」
権力にとって好ましくない思想をもつ者に対して、特定の思想が正しいんだと染め上げてしまう。⇒内心の自由を侵害する行為である。
権力が個人の思想を知ろうとすること自体が禁止される。
● ex (江戸時代の)踏み絵は絶対に禁止される。
踏み絵は、権力にとって都合の悪い思想をあぶりだす手段=弾圧である。
(権力側に主観的意図ががなくても踏み絵になることもある。)
社会の中にさまざまな対立がある時に、権力が一つの考えを強制する時には拒否することもありうる。
≪拒否した側≫
・ 反対側だと推測される。
・ 疑心暗鬼になり、反対する行為が委縮してしまう。
・ 委縮行為まで排除している。
権力側が推進する思想ではない思想をあぶりだす行為は、踏み絵と同じで、「権力側の推進する思想について『従えない人』をあぶり出す効果がある」と言える。
● 国旗国歌の強制には、いわゆる「あぶりだし効果」がある。
1、「日の丸・君が代」が国旗・国歌であるということの問題
2、国旗に向かって起立し、国歌を歌う『国家』に積極的価値を認めない人
3、「国歌」を強制されるものではないと考える人
これらは、純度が100パーセントである必要はない。
1~3の反対思想の人があぶり出されるという効果を持っている。⇒ 踏み絵
<憲法19条> 思想推知の禁止
あぶり出された人の思想がどうかということではなく、反対の人があぶり出されること自体が問題である。
◆ 証言のまとめとして(証言の最後に、大橋裁判長に対して)
「国旗・国歌の扱いは、国によってさまざまであるが、先進民主主義国で、このような強制が行われている例は知りません。
国旗の掲揚と国歌の起立斉唱は、国家に向かって国民を統合していくという意味合いを持っており、全体主義、国家主義に向かっていき、民主主義が破壊されてしまう。過度に強制された結果が、ファシズムやナチズムだ。
(都教委の君が代起立斉唱の強制・処分について)直感的に、極めて異常・異例だと感じた。(都教委による強制と処分は)民主主義国家であること、そのものが否定されるものである。(裁判長に対して)「そういうことを踏まえたうえで司法判断されるよう望みます。」
浦部教授が証言し終えると、傍聴席全体から拍手がわき起こりました。
『今 言論・表現の自由があぶない!』(2010/10/16)
http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/17343171.html
◆ 憲法19条(思想・良心の自由)の<法規範3つの意味>
1、権力による思想の強制の禁止。
2、思想を理由とする「不利益取扱」の禁止。
3、権力による思想推知の禁止。
(=権力が、その人がどういう思想を持っているのか調査することを禁止している。思想推知が歴史的に、有形無形の圧迫を加えることが常であった。)
◆ 憲法19条は、絶対的保障である。
内心作用の自由を保障するものであり ⇔ 内心にとどまる限り、他者の権利を侵害することがない。
いかなる場合も、内心における物の見方考え方の自由は保障される。
● 他者の権利に具体的に害悪を及ぼす場合は規制を受ける⇒21条(表現の自由)の問題
その場合にも、厳密・厳格な審査が必要である。
・害悪に着目した規制であること、
・害悪が実際に、存在しているのか否か、
・害悪を防止するための最小限か、
● 特定の思想のみ規制することを意図している場合は「19条違反」である。
権力がある特定の思想を「これが正しいのだから、これに従いなさい」と、個人にいくら強制したところで、個人の内心を変えさせられない。
思想の強制はその思想に基づく“行為”を強制させるのが常である。
民主主義を標榜する国家は、直接的思想弾圧はまず考えられない。
権力側が宣伝し、「こういうのが正しいんだから」というのは、マインドコントロールに等しく、権力が統制して特定思想の干渉となる。
間接的に、マインドコントロールを通じて統制していくことになる。
◆ 法義務が免除されるケースもある
法令による強制ないし禁止は、一般的には、19条違反とならない。
しかし法令さえ定めれば、内心を統制できてしまうのもおかしい。
思想・良心に基づき法義務が免除されるのは2つのケースである。
(A)憲法秩序に照らして、本来本人の自律的価値判断に委ねられるべきこと〔客観的〕。
ex.判例では南九州税理士会最高裁判例。教科書的事例では神社参拝の強制。
(B)当該法義務に従うことが、本人の人間性の核心に触れる場合〔主観的〕。
ex.判例ではエホバ信仰と剣道最高裁判例。教科書的事例では良心的兵役拒否。
当事案は、(A)のケースに当たる。
◆ 国旗国歌の機能
国旗・国歌とは、重層的・多元的な国民を一元的国家権力に統合するために登場したもので『国家への国民統合』という機能を持つ。
「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」行為は、統治権力=一元的権力への統合というものを積極的に自ら認めていく行為である。
主観的に思っているかどうかではなく、「国家というものに積極的に価値を認めるという考え方の表明としての意味を持つ行為」である。
『国家・国民という枠組みの中で生きている』が、今日、世界的流れは『国家・国民という枠組みの中で生きている』だけが生き方ではない。
『国家・国民』から離れ、『国家・国民』が揺らぎ、EUという大枠組が出来上がっている。
地球環境(問題)や、資源、人口問題などをとってみても、国家の枠組みを前提にしていたのでは、今日解決しない。
UNDPも1994年に、国家の安全保障から人間の安全保障に代わっており、国家の枠組みを離れた生き方が現実的意味合いを持っている。
国家に対する考え方は多様化しており、個人がどのように生きていくのかは、個々人が判断すべきで、強制は、19条:内心の自由を侵害することになる。
国旗に向かって起立し、国歌を歌うことは、個々人が自立的に判断すべき事柄を強制されることであり、従わないということが認められるべきである。
憲法19条の保証は、絶対的保障である。
個々人の判断にゆだねられるべきことが強制されるのは憲法違反である。
◆ 『教師が起立しないことが、こどもの学習権を侵害しているという』都教委の主張について
『国家というものに積極的な価値を認める価値が正しいんだ』と考えるのは、国家という枠組みを絶対視すること。
⇔ 健全な、多様な考え方・多様な生き方を教えることが大切である。
こどもに一方的に『国家というものに積極的な価値を認める価値が正しいんだ』と植え付けるのは逆に学習権を侵害することになる。
公立学校の教員に対して起立斉唱には、義務の免除が認められる。
個人としての生き方の一番根本的な部分で、権力が介入してはならない。
公務員であるか、教員であるか、関係がない。
本件控訴人の171人の個々人の自立的判断にゆだねられる。
当該個人がどのような思想を持っているのかではなく、当該行為の客観的性格によって判断すれば良い。
◆「思想の推知の禁止について」
権力にとって好ましくない思想をもつ者に対して、特定の思想が正しいんだと染め上げてしまう。⇒内心の自由を侵害する行為である。
権力が個人の思想を知ろうとすること自体が禁止される。
● ex (江戸時代の)踏み絵は絶対に禁止される。
踏み絵は、権力にとって都合の悪い思想をあぶりだす手段=弾圧である。
(権力側に主観的意図ががなくても踏み絵になることもある。)
社会の中にさまざまな対立がある時に、権力が一つの考えを強制する時には拒否することもありうる。
≪拒否した側≫
・ 反対側だと推測される。
・ 疑心暗鬼になり、反対する行為が委縮してしまう。
・ 委縮行為まで排除している。
権力側が推進する思想ではない思想をあぶりだす行為は、踏み絵と同じで、「権力側の推進する思想について『従えない人』をあぶり出す効果がある」と言える。
● 国旗国歌の強制には、いわゆる「あぶりだし効果」がある。
1、「日の丸・君が代」が国旗・国歌であるということの問題
2、国旗に向かって起立し、国歌を歌う『国家』に積極的価値を認めない人
3、「国歌」を強制されるものではないと考える人
これらは、純度が100パーセントである必要はない。
1~3の反対思想の人があぶり出されるという効果を持っている。⇒ 踏み絵
<憲法19条> 思想推知の禁止
あぶり出された人の思想がどうかということではなく、反対の人があぶり出されること自体が問題である。
◆ 証言のまとめとして(証言の最後に、大橋裁判長に対して)
「国旗・国歌の扱いは、国によってさまざまであるが、先進民主主義国で、このような強制が行われている例は知りません。
国旗の掲揚と国歌の起立斉唱は、国家に向かって国民を統合していくという意味合いを持っており、全体主義、国家主義に向かっていき、民主主義が破壊されてしまう。過度に強制された結果が、ファシズムやナチズムだ。
(都教委の君が代起立斉唱の強制・処分について)直感的に、極めて異常・異例だと感じた。(都教委による強制と処分は)民主主義国家であること、そのものが否定されるものである。(裁判長に対して)「そういうことを踏まえたうえで司法判断されるよう望みます。」
浦部教授が証言し終えると、傍聴席全体から拍手がわき起こりました。
『今 言論・表現の自由があぶない!』(2010/10/16)
http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/17343171.html
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