◆ 人々の命を二度と国に差し出させてはならない
◆ 憲法9条の成立
二度と国のために命を差し出させたりはしない。これが日本国憲法にいう「個人の尊重」(13条)であり、9条の究極の意味と私は受けとめてきました。
しかし今、ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにして、日本では国家のために戦うことが称賛されています。ゼレンスキー大統領の演説に立ち上がって拍手を贈った国会議員達は、人々が武器を取るのは当然と考えているようです。
攻め込まれたならば戦うのはやむを得ないのでしょうか。防衛費の増大、敵基地攻撃能力の保有や核武装までもが俎上にあがり、緊急事態条項の導入など憲法改正?にまで進むような勢いです。
しかし、侵略に対する自衛のための応戦も国際法上の交戦にあたります。「専守防衛」を掲げようとも交戦には変りありません。これは人でいう正当防衛を国家に当てはめて組み立てられた概念です。
自衛隊の違憲性が争われた北海道のミサイル基地建設をめぐる長沼ナイキ訴訟(札幌地裁福島違憲判決1973/9/7。高裁で取消、最高裁で確定)の進行中、合憲性を主張するために田中首相など政府側の国会答弁を通して固められました(1972年10月)。
しかし、そもそも帝国議会で憲法案が審議された当時、吉田首相は「一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したもの」と答弁しています (1946/6/26衆院本会議)。
戦争の手段である戦力を持たないだけでなく、交戦権も認めない。
ここまで歯止めをかけた背景には、1928年のパリ不戦条約が「国策の手段としての戦争の放棄」を掲げたにもかかわらず、第二次世界大戦を防げなかった歴史があります。
1945年の国連憲章には、憲法9条1項が「国権の発動たる戦争」と共に放棄の対象とした「武力による威嚇又は武力の行使」が、「慎まなければならない」こととして明記されています。
戦争を繰り返さないために積み重ねられて来た人類の誓いが、核兵器の登場を踏まえて、9条に結実していると言えます。
勿論、これは敗戦時の課題であった「国体護持」を確保するために、日米合作で憲法に盛りこまれたことでもあります。
戦争責任を陸軍等に押しつけて昭和天皇の戦争指導を免罪する。
政治権力を持たない象徴と天皇を位置づけ、再び侵略に走らない証として戦力も交戦権も持たない。
社会構造も民主化する。
これで天皇制存続を連合国に認めさせることができたのです。
アメリカにとっても、日本の非武装化はソ連との対立が険しくなる中、独立回復後も日本がアメリカに防衛依存せざるを得なくする狙いがありました。その点では、9条は、沖縄などの米軍支配の継続と、日米安保条約の締結を予定していたと考えられます。
連合国側の無条件降伏要求は、二度と敵対しないように日本の国家構造を作り替えることが目的でした。
昭和天皇が率先してマッカーサーに占領協力を誓い、米軍に共産主義からの天皇制防衛を求めてきた以上、国家構造の核であった天皇制を利用する方向がとられたのです(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』)。
◆ 日本国憲法と国体
憲法案の国会審議では、9条よりも国家主権が天皇から「国民」に移ることに、つまり国体を変更するものか否かに論議が集中しました。衆院本会議での採決を前に、帝国憲法改正案委員会委員長の芦田均は、吉田首相や金森担当大臣の答弁を踏まえてこう報告しています(1946/8/24)。
神道指令による国家と神社との切り離し、天皇の人間宣言、日本国憲法の制定、教育勅語の排除・失効の国会決議等によって、日本は平和で民主的な国に生まれ変わったと思い込まれてきたのではないでしょうか。
しかし憲法は国体を否定した訳ではありません。第一章天皇の他にも国体が埋め込まれてきました。その代表が「国民」概念です。
憲法英文草案の"people"の訳語は当初「人民」でした。政府案作成の過程で、法制局第一部長の佐藤達夫によって「国民」に変えられます(『ジュリスト』1955/6/1号)。
君主との対立概念である「人民」をさけ、「君民一體」「君臣一如」を表わす「国民」がとられたと考えられます。
古関彰一は「『国民』は、天皇と私たちの関係をあいまいにし、外国人を国籍によって排除する言葉として登場した」と語っています(『世界』1995年6月号)。
また、前川喜平は昨年8/15東京新聞朝刊「本音のコラム 入管行政の人権侵害」でこう述べています。
むしろ彼らを排除することで、万世一系と位置づけた天皇中心の「特別な家族」としての「国民」像を戦後も維持していく。これが今日の難民認定に頑なな政府の姿勢にも引き継がれています。
「国民」像に包み込めない人達の定住を認めがたいのです。戦禍を逃れてきたウクライナの人達を「避難民」として受け入れ、新たに「準難民」制度を設けようとしているのは、難民認定の拡大につなげないためでしょう。
国体の影は他にもあります。
5月3日は憲法「施行」の記念日です。その6ヶ月前の11月3日、かつての明治節に「公布」されたことに因むものです。
明治天皇の誕生を祝って学校などでは、御真影を掲げ、君が代を斉唱し、教育勅語を奉読するなど、天皇崇拝儀式が行われてきました。この日を選んで「公布」したのです(中村正則他『ビッソン日本占領回想記』)。
1947年11月3日朝、昭和天皇は、吉田首相や貴衆両院議長が列席する中、まず宮中三殿で神武天皇以来の皇祖皇宗に憲法改正を報告しました。続いて発布式が行われ、「公布」を命じた上諭をつけて憲法を首相に渡しています。帝国議会に臨むのはこの後です。
しかし、天皇が宮中で新憲法を「発布」した事実が報じられることはなく、「公布」一色に塗り固められました。主権在民の憲法を天皇が「発布」したおかしさが隠されたのです(江橋崇『日本国憲法のお誕生』)。
私は、民主主義を装って生き延びた国体が、戦後の日本社会で次第に姿を現わしてきたと見ています。1967年2月11日から実施された「建国記念の日」がこの大きな一歩です。
神話上の初代天皇である神武天皇の即位日として、明治初めに「紀元節」と定められ、1989年には大日本帝国憲法が「発布」された日です。
「神聖天皇崇敬」を人々の精神文化の基軸として国家体制を整えだした(島薗進『神聖天皇のゆくえ』)、その記念日です。
この日を改めて「建国記念の日」に定めたのは、天皇の神聖性の根源である「万世一系」を歴史的事実のように印象づけ、その神聖性と近代明治国家の誕生を戦後も人々を統合する理念としていくために他なりません。
天皇の即位を時間軸とする元号法の制定(1979年)も、入学式卒業式等での「日の丸・君が代」の強制なども同じ意味をもっています。
これらの式典では、かつての紀元節等の学校儀式の形に則り、舞台壇上正面に敗戦時に回収された御真影に代わる「日の丸」を掲げ、これに正対して「君が代」斉唱が強いられています。諸外国にこのような国旗掲揚国歌斉唱の形は見られません。
◆ 幣原喜重郎の認識
憲法9条は、日本が近代化を急ぐ中で内外に多大な戦争の惨禍をもたらした反省に立つものです。大戦争を引き起した側として、二度と繰り返さない決意を国際社会にも国内にも示さざるを得なかったと考えます。
しかし講和条約と同時に日米安保条約が結ばれて米軍はそのまま居座り、自衛隊も発足します。安保条約は、その違憲性が問われた砂川事件の裁判で、アメリカの介入の下、最高裁は統治行為論をとって憲法判断を避けます(1959/3/30東京地裁伊達違憲判決、飛躍上告後破棄)。
自衛隊については、ソ連崩壊による冷戦終了後から米軍を助けて海外派遣が重ねられ、2015年の安保法制に至って「専守防衛」に大きな穴が空けられました。直接日本が攻撃されなくても、米軍など他国への攻撃を日本への攻撃とみなして武器使用等を可能としたのです。
世界情勢によって変化していくアメリカの都合に9条が揺さぶられ、それに迎合するように個人よりも国家を大事とし、天皇の元首としての位置づけなど、国体の顕現を求める憲法改正?論議が高まってきました。
いま私たちはウクライナの惨状を日々突きつけられています。ロシア軍による破壊のすさまじさ。住民虐殺など戦争犯罪。核兵器の使用までほのめかされています。
しかし、侵攻がいきなり始まった訳ではありません。少なくともロシア軍が集結している段階で戦争回避の手立てはなかったのでしょうか。
また武器をとって戦う市民がいる一方でこれを拒否する人達もいます。残念ながらこうした報道は少なく、自衛のためならば戦争はやむを得ないという空気が広がっています。
憲法草案作成時の首相、幣原喜重郎の後日の発言を振り返ってみます。「天皇制を維持するという重大な使命」を自覚していた彼は、マッカーサーに「天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案」したと語り、侵略を受けた場合を元秘書官に問われてこう答えています(『平野文書』*ネット公開中)。
自衛のためには軍備が必要という前提に立てば、相手が持つものは自分も持たねばならず、果てしない堂々巡りに陥る。その制限を求める軍縮交渉の難しさを体験し、ようやく締結に至った条約によっても戦争を防げなかったことを踏みしめて、平和実現のためには世界一斉に軍備の廃棄が必要であり、負けた日本だからこそ、その世界史の扉を開く使命を果たさなければならないと語っています。
国家間の対立はあくまでも外交努力によって解決する。憲法9条はその覚悟を示している。私はそう受けとめました。
攻め込まれた場合におびえてこれを崩したのでは、戦争による解決を認めることになります。それでは9条を天皇制延命のための方便でしかなかったことに貶めます。
あの戦禍に倒れた人々はどう受けとめるでしょうか。
◆ せめぎ合う国体と民主主義
加藤典洋は『戦後入門』で、なぜ、戦後の日本人は、先の戦争の死者を、うまく弔えなくなったのかと問いを立てています。
戦後、アメリカの価値観を受け入れて繁榮を謳歌してきた私達が、それと戦って戦前の価値観に殉じた人々をどう弔えばよいのかという問題です。
侵略した国々の死者とその国民にどう謝罪すればよいのか、なかなか国民的合意をえられないという問題にもつながっています。
日本は間違っていなかった、あれは聖戦だったといい募ることで死者達が追悼される訳がありません。歴史の現実から目をそらし、彼らをなお「国体護持」の楯とするものです。
反対に間違った戦争だったからといって死者達に目を向けないですむ訳もありません。今の私達につながる人達なのです。
私は、彼らを「侵略の先兵」にしてしまった社会のあり方を根本から改め、二度と戦争を繰り返さず、侵略した国々の犠牲者に対しても国内の犠牲者に対しても、謝罪と補償を尽くすことでしか誰も弔われないと考えます。
その改めるべき社会のあり方こそ、お国のためにと言って人々に命を差し出させた国体です。
第二次世界大戦末期に限ってみても、敗戦を必至(1945/2近衛上奏文)としつつも「国体護持」に拘って日本は戦争終結を長びかせました。
特攻作戦が続けられ、東京大空襲など都市空襲が本格化し、沖縄では住民を巻き込んで米軍を迎え撃つ戦いが始まりました。本土決戦準備の時間稼ぎのためです。さらにポツダム宣言受諾を躊躇ったために、原爆投下、ソ連の参戦をも招きました。
速かに降伏していれば、これらの被害も朝鮮半島の分断もなかったでしょう。
国体を守るために人々の命が捨て石にされ、戦後の東アジアに深刻な対立まで招いたのです。
戦争は人々の命を国家に捧げさせる究極の場面です。人を個人として尊重しないからこそ、殺し合いの中に投げ込めるのです。
いまウクライナの惨状に動揺する私達に、あの戦争で亡くなった人々は何と叫んでいるでしょうか。9条は、人々に二度と命を差し出させたりしないという宣言であり、どこまでも外交努力によって国家間の対立を解決するという覚悟を示すものです。
しかし、戦争自体はここまで反省する一方で、人々を熱狂させ日本史上かつてない大戦争に引き摺り込んだ国体の根本的な解体は避けられました。軍国主義や超国家主義が戦争を導いたとされ、封建制度の遺存をその温床として、「民主主義のてっ底」に問題がすり替えられたのです(文部省『新教育指針』1946)。
「天皇への尊崇の意識を再度目覚めさせることを意図」して全国巡幸も始まります(瀬畑源「象徴天皇制における行幸」『戦後史のなかの象徴天皇制』所収)。
銃後で戦争を支えた人々もまた、食糧難など日々の生活に喘ぐ中、自分達を戦争の被害者として「神聖天皇崇敬」を骨肉化して戦争に熱狂したことと向き合わなかったのではないでしょうか。
このように捉え直すと、戰後の日本社会で、国体が、その解体を免れるために装った民主主義とせめぎ合ってきたことが見えてきます。
先にあげた「万世一系」にしても、男系血筋による皇位継承は、「男性中心の家族理念の正当性を社会に印象づけ」「憲法の男女平等の原則と齟齬を来」たしています(島薗進『戦後日本と国家神道』)。
いま、ウクライナ戦争に便乗して勢いをます憲法改正?の動きは、民主主義を押し込め、国体の公然たる復活を狙うものです。それは人々の命を再び国に差し出させるものです。
岡山輝明(元都立高校教員)
◆ 憲法9条の成立
二度と国のために命を差し出させたりはしない。これが日本国憲法にいう「個人の尊重」(13条)であり、9条の究極の意味と私は受けとめてきました。
しかし今、ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにして、日本では国家のために戦うことが称賛されています。ゼレンスキー大統領の演説に立ち上がって拍手を贈った国会議員達は、人々が武器を取るのは当然と考えているようです。
攻め込まれたならば戦うのはやむを得ないのでしょうか。防衛費の増大、敵基地攻撃能力の保有や核武装までもが俎上にあがり、緊急事態条項の導入など憲法改正?にまで進むような勢いです。
しかし、侵略に対する自衛のための応戦も国際法上の交戦にあたります。「専守防衛」を掲げようとも交戦には変りありません。これは人でいう正当防衛を国家に当てはめて組み立てられた概念です。
自衛隊の違憲性が争われた北海道のミサイル基地建設をめぐる長沼ナイキ訴訟(札幌地裁福島違憲判決1973/9/7。高裁で取消、最高裁で確定)の進行中、合憲性を主張するために田中首相など政府側の国会答弁を通して固められました(1972年10月)。
しかし、そもそも帝国議会で憲法案が審議された当時、吉田首相は「一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したもの」と答弁しています (1946/6/26衆院本会議)。
戦争の手段である戦力を持たないだけでなく、交戦権も認めない。
ここまで歯止めをかけた背景には、1928年のパリ不戦条約が「国策の手段としての戦争の放棄」を掲げたにもかかわらず、第二次世界大戦を防げなかった歴史があります。
1945年の国連憲章には、憲法9条1項が「国権の発動たる戦争」と共に放棄の対象とした「武力による威嚇又は武力の行使」が、「慎まなければならない」こととして明記されています。
戦争を繰り返さないために積み重ねられて来た人類の誓いが、核兵器の登場を踏まえて、9条に結実していると言えます。
勿論、これは敗戦時の課題であった「国体護持」を確保するために、日米合作で憲法に盛りこまれたことでもあります。
戦争責任を陸軍等に押しつけて昭和天皇の戦争指導を免罪する。
政治権力を持たない象徴と天皇を位置づけ、再び侵略に走らない証として戦力も交戦権も持たない。
社会構造も民主化する。
これで天皇制存続を連合国に認めさせることができたのです。
アメリカにとっても、日本の非武装化はソ連との対立が険しくなる中、独立回復後も日本がアメリカに防衛依存せざるを得なくする狙いがありました。その点では、9条は、沖縄などの米軍支配の継続と、日米安保条約の締結を予定していたと考えられます。
連合国側の無条件降伏要求は、二度と敵対しないように日本の国家構造を作り替えることが目的でした。
昭和天皇が率先してマッカーサーに占領協力を誓い、米軍に共産主義からの天皇制防衛を求めてきた以上、国家構造の核であった天皇制を利用する方向がとられたのです(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』)。
◆ 日本国憲法と国体
憲法案の国会審議では、9条よりも国家主権が天皇から「国民」に移ることに、つまり国体を変更するものか否かに論議が集中しました。衆院本会議での採決を前に、帝国憲法改正案委員会委員長の芦田均は、吉田首相や金森担当大臣の答弁を踏まえてこう報告しています(1946/8/24)。
主權の本體は天皇を含めての國民の組織體に在る、國家意思の源泉は全國民の心と繋がって居ると考へざるを得ない……我が國體は、天皇を憧れの中心として國民全體が結合し、以て國家が組立てられて居る所にあると言ふのであって、本改正案は我が國家存立の基底を變更するものではないから、之に依って國體の變革は來すことはないと結論する憲法施行後、国体論議は途絶えます。
神道指令による国家と神社との切り離し、天皇の人間宣言、日本国憲法の制定、教育勅語の排除・失効の国会決議等によって、日本は平和で民主的な国に生まれ変わったと思い込まれてきたのではないでしょうか。
しかし憲法は国体を否定した訳ではありません。第一章天皇の他にも国体が埋め込まれてきました。その代表が「国民」概念です。
憲法英文草案の"people"の訳語は当初「人民」でした。政府案作成の過程で、法制局第一部長の佐藤達夫によって「国民」に変えられます(『ジュリスト』1955/6/1号)。
君主との対立概念である「人民」をさけ、「君民一體」「君臣一如」を表わす「国民」がとられたと考えられます。
古関彰一は「『国民』は、天皇と私たちの関係をあいまいにし、外国人を国籍によって排除する言葉として登場した」と語っています(『世界』1995年6月号)。
また、前川喜平は昨年8/15東京新聞朝刊「本音のコラム 入管行政の人権侵害」でこう述べています。
日本政府の憲法改正草案では「法の下の平等」の対象が「すべて国民」と書き直され、内外人平等の規定は削除された。また、衆議院の審議では「日本国民たる要件は、法律上これを定める」という条文が加えられ、人権保障における日本国民と外国人の区別が明示された。人権が「国民の権利」にすり替えられたのだ。その背景には日本という国を特別な家族だと考える国体観念の残滓があった。それは今も日本人の潜在意識に根深く残っている。鋭い指摘です。占領終了を前に日本政府の外国人政策は、朝鮮や台湾など旧植民地出身者の日本国籍を一方的に奪うことから始まりました。本国の独立は彼らを「君民一體」「君民一如」に包み込むことを不可能にします。
むしろ彼らを排除することで、万世一系と位置づけた天皇中心の「特別な家族」としての「国民」像を戦後も維持していく。これが今日の難民認定に頑なな政府の姿勢にも引き継がれています。
「国民」像に包み込めない人達の定住を認めがたいのです。戦禍を逃れてきたウクライナの人達を「避難民」として受け入れ、新たに「準難民」制度を設けようとしているのは、難民認定の拡大につなげないためでしょう。
国体の影は他にもあります。
5月3日は憲法「施行」の記念日です。その6ヶ月前の11月3日、かつての明治節に「公布」されたことに因むものです。
明治天皇の誕生を祝って学校などでは、御真影を掲げ、君が代を斉唱し、教育勅語を奉読するなど、天皇崇拝儀式が行われてきました。この日を選んで「公布」したのです(中村正則他『ビッソン日本占領回想記』)。
1947年11月3日朝、昭和天皇は、吉田首相や貴衆両院議長が列席する中、まず宮中三殿で神武天皇以来の皇祖皇宗に憲法改正を報告しました。続いて発布式が行われ、「公布」を命じた上諭をつけて憲法を首相に渡しています。帝国議会に臨むのはこの後です。
しかし、天皇が宮中で新憲法を「発布」した事実が報じられることはなく、「公布」一色に塗り固められました。主権在民の憲法を天皇が「発布」したおかしさが隠されたのです(江橋崇『日本国憲法のお誕生』)。
私は、民主主義を装って生き延びた国体が、戦後の日本社会で次第に姿を現わしてきたと見ています。1967年2月11日から実施された「建国記念の日」がこの大きな一歩です。
神話上の初代天皇である神武天皇の即位日として、明治初めに「紀元節」と定められ、1989年には大日本帝国憲法が「発布」された日です。
「神聖天皇崇敬」を人々の精神文化の基軸として国家体制を整えだした(島薗進『神聖天皇のゆくえ』)、その記念日です。
この日を改めて「建国記念の日」に定めたのは、天皇の神聖性の根源である「万世一系」を歴史的事実のように印象づけ、その神聖性と近代明治国家の誕生を戦後も人々を統合する理念としていくために他なりません。
天皇の即位を時間軸とする元号法の制定(1979年)も、入学式卒業式等での「日の丸・君が代」の強制なども同じ意味をもっています。
これらの式典では、かつての紀元節等の学校儀式の形に則り、舞台壇上正面に敗戦時に回収された御真影に代わる「日の丸」を掲げ、これに正対して「君が代」斉唱が強いられています。諸外国にこのような国旗掲揚国歌斉唱の形は見られません。
◆ 幣原喜重郎の認識
憲法9条は、日本が近代化を急ぐ中で内外に多大な戦争の惨禍をもたらした反省に立つものです。大戦争を引き起した側として、二度と繰り返さない決意を国際社会にも国内にも示さざるを得なかったと考えます。
しかし講和条約と同時に日米安保条約が結ばれて米軍はそのまま居座り、自衛隊も発足します。安保条約は、その違憲性が問われた砂川事件の裁判で、アメリカの介入の下、最高裁は統治行為論をとって憲法判断を避けます(1959/3/30東京地裁伊達違憲判決、飛躍上告後破棄)。
自衛隊については、ソ連崩壊による冷戦終了後から米軍を助けて海外派遣が重ねられ、2015年の安保法制に至って「専守防衛」に大きな穴が空けられました。直接日本が攻撃されなくても、米軍など他国への攻撃を日本への攻撃とみなして武器使用等を可能としたのです。
世界情勢によって変化していくアメリカの都合に9条が揺さぶられ、それに迎合するように個人よりも国家を大事とし、天皇の元首としての位置づけなど、国体の顕現を求める憲法改正?論議が高まってきました。
いま私たちはウクライナの惨状を日々突きつけられています。ロシア軍による破壊のすさまじさ。住民虐殺など戦争犯罪。核兵器の使用までほのめかされています。
しかし、侵攻がいきなり始まった訳ではありません。少なくともロシア軍が集結している段階で戦争回避の手立てはなかったのでしょうか。
また武器をとって戦う市民がいる一方でこれを拒否する人達もいます。残念ながらこうした報道は少なく、自衛のためならば戦争はやむを得ないという空気が広がっています。
憲法草案作成時の首相、幣原喜重郎の後日の発言を振り返ってみます。「天皇制を維持するという重大な使命」を自覚していた彼は、マッカーサーに「天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案」したと語り、侵略を受けた場合を元秘書官に問われてこう答えています(『平野文書』*ネット公開中)。
その場合でもこの精神〈戦争放棄〉を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も〈原子爆弾の登場で〉次の戦争は今までとは訳が違う。僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う(〈〉は岡山の補足)。ここには外交官としてパリ不戦条約、ワシントンやロンドンの海軍軍縮条約に携わってきた幣原の認識があります。
自衛のためには軍備が必要という前提に立てば、相手が持つものは自分も持たねばならず、果てしない堂々巡りに陥る。その制限を求める軍縮交渉の難しさを体験し、ようやく締結に至った条約によっても戦争を防げなかったことを踏みしめて、平和実現のためには世界一斉に軍備の廃棄が必要であり、負けた日本だからこそ、その世界史の扉を開く使命を果たさなければならないと語っています。
国家間の対立はあくまでも外交努力によって解決する。憲法9条はその覚悟を示している。私はそう受けとめました。
攻め込まれた場合におびえてこれを崩したのでは、戦争による解決を認めることになります。それでは9条を天皇制延命のための方便でしかなかったことに貶めます。
あの戦禍に倒れた人々はどう受けとめるでしょうか。
◆ せめぎ合う国体と民主主義
加藤典洋は『戦後入門』で、なぜ、戦後の日本人は、先の戦争の死者を、うまく弔えなくなったのかと問いを立てています。
戦後、アメリカの価値観を受け入れて繁榮を謳歌してきた私達が、それと戦って戦前の価値観に殉じた人々をどう弔えばよいのかという問題です。
侵略した国々の死者とその国民にどう謝罪すればよいのか、なかなか国民的合意をえられないという問題にもつながっています。
日本は間違っていなかった、あれは聖戦だったといい募ることで死者達が追悼される訳がありません。歴史の現実から目をそらし、彼らをなお「国体護持」の楯とするものです。
反対に間違った戦争だったからといって死者達に目を向けないですむ訳もありません。今の私達につながる人達なのです。
私は、彼らを「侵略の先兵」にしてしまった社会のあり方を根本から改め、二度と戦争を繰り返さず、侵略した国々の犠牲者に対しても国内の犠牲者に対しても、謝罪と補償を尽くすことでしか誰も弔われないと考えます。
その改めるべき社会のあり方こそ、お国のためにと言って人々に命を差し出させた国体です。
第二次世界大戦末期に限ってみても、敗戦を必至(1945/2近衛上奏文)としつつも「国体護持」に拘って日本は戦争終結を長びかせました。
特攻作戦が続けられ、東京大空襲など都市空襲が本格化し、沖縄では住民を巻き込んで米軍を迎え撃つ戦いが始まりました。本土決戦準備の時間稼ぎのためです。さらにポツダム宣言受諾を躊躇ったために、原爆投下、ソ連の参戦をも招きました。
速かに降伏していれば、これらの被害も朝鮮半島の分断もなかったでしょう。
国体を守るために人々の命が捨て石にされ、戦後の東アジアに深刻な対立まで招いたのです。
戦争は人々の命を国家に捧げさせる究極の場面です。人を個人として尊重しないからこそ、殺し合いの中に投げ込めるのです。
いまウクライナの惨状に動揺する私達に、あの戦争で亡くなった人々は何と叫んでいるでしょうか。9条は、人々に二度と命を差し出させたりしないという宣言であり、どこまでも外交努力によって国家間の対立を解決するという覚悟を示すものです。
しかし、戦争自体はここまで反省する一方で、人々を熱狂させ日本史上かつてない大戦争に引き摺り込んだ国体の根本的な解体は避けられました。軍国主義や超国家主義が戦争を導いたとされ、封建制度の遺存をその温床として、「民主主義のてっ底」に問題がすり替えられたのです(文部省『新教育指針』1946)。
「天皇への尊崇の意識を再度目覚めさせることを意図」して全国巡幸も始まります(瀬畑源「象徴天皇制における行幸」『戦後史のなかの象徴天皇制』所収)。
銃後で戦争を支えた人々もまた、食糧難など日々の生活に喘ぐ中、自分達を戦争の被害者として「神聖天皇崇敬」を骨肉化して戦争に熱狂したことと向き合わなかったのではないでしょうか。
このように捉え直すと、戰後の日本社会で、国体が、その解体を免れるために装った民主主義とせめぎ合ってきたことが見えてきます。
先にあげた「万世一系」にしても、男系血筋による皇位継承は、「男性中心の家族理念の正当性を社会に印象づけ」「憲法の男女平等の原則と齟齬を来」たしています(島薗進『戦後日本と国家神道』)。
いま、ウクライナ戦争に便乗して勢いをます憲法改正?の動きは、民主主義を押し込め、国体の公然たる復活を狙うものです。それは人々の命を再び国に差し出させるものです。
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