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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

アベを倒そう!(97)<戸坂潤の『道徳の観念』第四章から>

2016年04月15日 | 日の丸・君が代関連ニュース
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戸坂潤の『道徳の観念』第四章は、 ▲ 「道徳に関する文学的観念」です。
 戸坂はまず、次のようなことを述べます。
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 ・・何より知られているのは、芸術作品における、特に直接には文芸作品における、道徳というものだろう。
 それが仮に芸術のための芸術であり、また純文学であるにしても、それだけそれが表すモラルは、かえって純粋だとも言えるのだ。
 いわゆる道徳なるものを目ざしていなければいないほど、そのモラルは純粋になりリアリティをもったものとなる。道徳の否定そのものが、また優れた道徳だ(・・)。
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 そうしてその少し後で、次のように述べます。
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 文学(広く芸術における精神)がモラル(この文学的道徳の観念)を追及するものだという事実は、文学が常に常識に対する反逆を企てるものだというところに、一等よく見て取れるだろう。・・
 ・・要するに通俗道徳に対してその批判者として立ち現れるのがモラルだということにほかならぬ。・・
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 そのうえで、戸坂は次のように問題を立てます。
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 でわれわれにとってまず第一に必要なのは、モラルという文学的観念を、どうやったならば科学的な道徳(モラル)観念にまで、洗練できるかに答えることだ。
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 そうして次のように述べます。
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 社会科学的道徳観念の科学的高さをなす所以(ゆえん)の一つは、道徳が社会と個人との関係において初めて成り立つものであって、単に個人自身の内で成り立ちうるものではないという、いわれて見れば初めから当然しごくなこの関係を、ハッキリ組織的に解明したことにあった。
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 そして次のように続けます。
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 往々世間では、史的唯物論が客観的な社会機構だけしか問題にしえないもので、個人にぞくする諸問題はこれを忘れかけるか避けるかするのだ、というふうに誤解しているが、この誤解は少なくとも史的唯物論による道徳理論を見るならば、氷解することだろうと思う。
 元来社会科学は個人を問題にしないどころではない。
 実はたとえば、いかなる個人はいかなる社会条件の所産であるかを問題にすることこそ、社会科学の具体的な現実的な解明なのだ。・・・
 ・・・公式はいつも特殊化されうるものだしまた特殊化されねばならぬところのものだ。
 したがって社会機構の一般的諸関係を言い表す社会科学的公式は、当然個々それぞれの特殊事情に相当するところの各個人の場合々々について、特殊化されうるしまた特殊化されねばならぬ。
 社会科学が個人を問題にできないという説は、何かの誤解だと言わねばなるまい。
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 戸坂はその後、「個人」と「自分」、「存在」と「意識」「意味」などについて具体的な例を出しながら史的唯物論的に説明していきます。
 簡単に言えば、「(社会的)存在が(社会的)意識を決定する」ということです。
 そのうえで、次のように述べます。
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 真に文学的なモラルは、科学的概念による認識から、特に社会科学的認識から、まず第一に出発しなければならない。
 この認識を自分の一身上の問題にまで飛躍させえたならば、その時はモラルが見出された時だ。
 逆に文学的モラルから出発するなら、ついになんらの科学的認識へもいきつくべき方法を見出すことはできまい。そのモラルは自慰的なものとならざるをえない。
 ・・・――「自分」を発見するということは、そんなに素手で方法なしにできるものではない。
 そしてその方法は社会科学的認識の淵をばモラルにまで飛躍するという機構であり手続きであるのだ。
 これを抜きにして見出された自己などは、誠に賤しいものだ。
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 そうして最後に次のように述べています。
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 最後に科学と文学とを図式的に対比させることによって、文学的観念による道徳なるものの、一つの総括的な意味を、言い表しておきたい。
 ――科学はいうまでもなく事物の探求だ。
 文学もまたこの科学的探究を踏み渡ったあげく、課題を新たにした事物の探求である。
 ところで科学の探求の対象は真理と呼ばれる。
 これに対して、文学の探求の対象が道徳・モラルなのである。
 この人間的(実は「自分」の)真理はわれわれのムードやマナーの末にまで現れるのだ。
 かくて道徳・モラルとは、一身上の真理のことだ
 (素晴らしい人間観察である!:渡部感想)

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 だから道徳とは、ちょうど科学的真理がそうであるように、常に探求されるところのものなのだ。
 その点から見れば、道徳は与えられた道徳律や善悪のことや一定の限定された領域などのことではない。
 特に、科学が決して、真理と虚偽との対立を決めるというような妙な形の興味をもつものではないと同じに、何が善で何が悪かというような設問の内を堂々巡りしていることは、道徳の探求の道ではなく、したがってまた道徳の本義ではないのである。
 道徳が自分一身上の鏡に反映された科学的真理であるという意味において、道徳はわれわれの生活意識そのものでもなければならぬ
 そういう生活意識こを偉大な真の常識というものだろう。
 そしてこの道徳を探求するものこそ、本当のそしていわば含蓄的な意味における文学の仕事なのだ。
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 ここに見られるのも素晴らしい結論です。
 とくに、科学と道徳を、いずれも固定したものではなく「常に探求されるところのもの」として結びつけ、また、いずれも<「真理と虚偽」の対立>や<「善と悪」の対立>のような単純なものではないと言っているところは、とりわけ優れたとらえ方だと思います。(これこそ弁証法です)
 以上で、戸坂潤の『道徳の観念』の紹介を終わりますが、今から80年前、戸坂潤は「道徳」に関しいかにしっかりした論文を書いていたか、しかもそれは現代でも十分通用する、ということがおわかりいただけのではないでしょうか。
 次には、戦前の「修身科」の大きな柱になっていた儒教(特に朱子学=宋儒)、を批判した江戸時代の哲学者を紹介します。
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 ★ 『卒業式ビラまき報告集会』(実行委員会主催)のお知らせ
 <日時>2016年4月30日(土)18:30~21:00
 <場所>阿佐ヶ谷地域区民センター、第五集会室
 <内容>・卒業式ビラまきの特徴と教訓について
      ・今後の運動の発展について
 <資料代>300円

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