《月刊救援から》
☆ 横浜の丘で考える
前田 朗(東京造形大学)
久しぶりに平楽の丘に登ってみた。石川町駅を歩き始め遊行坂を登る。丘の上の唐沢公園からみなとみらいがよく見える。
平和と発展を象徴するかのようなみなとみらいを眺めながら一〇〇年前のコリアン・ジェノサイドを想起した。
関東大震災の被災が最も激しかったのは横浜だと言われる。一九二三年九月一日、大地震の発生に伴い家屋が崩壊し、横浜駅、桜木町、日本大通り、関内、伊勢佐木町をはじめ大火災が横浜中心街をなめ尽くした。
燃え上がる炎に追われた人々は周囲に逃げるしかなかった。山手公園や港の見える丘など横浜港に面する地区にも火災は及んだ。
南へ逃げた人々は石川町、寿町を走り、中村川を渡り、平楽の丘を登った。丘の上から見下ろすと中村川の北側は激しく延焼していた。横浜中心を壊滅させた激しい炎に人々は震え上がっただろう。
地蔵坂、狸坂、蛇坂、山羊坂を競うように駆けのぼって避難した人々の間に朝鮮人暴動の噂が流れるや緊張の度が増した。
噂の出所については諸説あり、避難者から流れたのか、警察が触れ回ったのか。同時並行で噂が一気に広まったのかもしれない。
朝鮮人虐殺は横浜が一番激しかったと伝えられる。だが公的資料には虐殺が記録されていなかった。このため日本政府も横浜市も虐殺事実を確認できないと、否定してきた。
一○○年目の二〇二三年、二冊の著書が横浜の虐殺実態を明るみに出した。
後藤周『それは丘の上から始まった』(ころから)は平楽の丘に焦点を当てて丘の上に避難した人々、警察、自警団の動きをつぶさに追いかける。九月一日午後に早くも噂が流れ、朝鮮人迫害が始まる。夜になると朝鮮人の襲撃に身構える人々が武装し、興奮状態で攻撃的になっていく。惨劇の始まりである。
姜徳相・山本すみ子編『神奈川県関東大震災朝鮮人虐殺関係資料』(二二書房)は研究史を塗り替える数々の資料を一気に公開した。資料「朝鮮高秘収第ニニ号・震災に伴う朝鮮人並に支那人に関する犯罪及び保護状況其他調査の件」は神奈川県知事が内務省警保局長に提出した資料である。
九月二日以後の朝鮮人・支那人保護状況が詳細にまとめられている。資料には朝鮮人の犯罪事件も列挙されているが具体性のない噂に過ぎない。
資料「関東大震災時朝鮮人虐殺横浜証言集」には横浜南部・中部・北部各地の膨大な証言記録が収められている。公的資料と民間の証言を重ね合わせると、横浜における虐殺の実態が浮き上がってくる。
☆ 法務部調査
『神奈川県関東大霞災朝鮮人虐殺関係資料』にはもう一つ、瞠目すべき資料が収録されている。
資料「神奈川方面警備部隊法務部日誌」は戒厳令下、構浜において「朝鮮入犯罪」を調査するために派遣された陸軍法務官の日誌である。
九月二日、関東南部地区に戒厳令が発布された。翌三日、陸軍法務官鈴木忠純は関東戒厳神奈川警備隊司令部要員及び第一師団軍法会議検察官を拝命した。
鈴木はその日のうちに横浜に赴き、翌日から調査を開始し、連日、現地調査を実施した。ニカ月余りの調査において鈴木法務官は神奈川県知事、横浜市長、東京控訴院検事、横浜地裁裁判所長、関東戒厳司令官、陸軍省法務局長、秩父宮らと緊密に面会している。
「朝鮮人犯罪」の証拠は見つからず、判明したのは朝鮮人虐殺であった。
九月一九日、鈴木法務官は「犯罪容疑者処理報告置を陸軍法務局長、関菓戒厳司令部附湯原綱事務官、山田喬三郎第一師団軍法会議検察官に提出した。
これを受けて九月二日、侍従武官陸軍歩兵少佐大島陸太郎がわざわざ出向いて、鈴木法務官に面会し「聖旨ノ伝達」をした。
「午前九時侍従武官陸軍歩兵少佐大島陸太郎来着司令部ノ隣家高嶋邸二於テ聖旨ノ伝達アリタリ」「聖旨」とは摂政裕仁の指令を意味する。
大正天皇が病に倒れていたため、皇太子裕仁が摂政の地位にあった。摂政裕仁に情報を集約し、かつ摂政裕仁から指令が伝達されたことがわかる。
九月二二日、鈴木法務官は横浜地裁次席検事、東京控訴院検事、司令部附陸軍歩兵大尉、憲兵長らと「朝鮮人犯罪捜査二関スル件二付長時間打合ヲ為シタリ」と記録されている。
九月三〇日、鈴木法務官は「朝鮮人二対スル内地人迫害二干スル件及犯罪容疑者報告」を提出した。
一〇月四日、「横浜市青木町栗田谷岩崎山鮮人虐殺ノ跡ヲ視察シタリ」、一〇月五日、「陸軍法務官鈴木忠純ハ憲兵長植木鎮夫ト共二横浜市背木町栗田谷岩崎山二到リ再ヒ鮮人虐殺ノ跡ヲ視察シ憲兵長ト種々打合ヲ為シタリ」と記録されている。
鈴木法務官は「朝鮮人犯罪」調査のために横浜に赴いたが、「鮮人二対スル内地人迫害」「鮮人虐殺」の証拠を発見したのだ。
一〇月一○日には「摂政宮殿下横浜横須賀震災状況御視察ノ為来浜セラレ」、司令官から状況報告を聴取した。摂政裕仁が横浜を訪問したのである。
確認すべきは、公的資料に虐殺の文字が記されていたことである。しかも現地情報が摂政裕仁に報告され、わずか二日後に摂政から「聖旨」が伝達された極めて異例の事態である。資料をどのように読むべきか大いに議論が必要だ。
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