☆ 埼玉超勤裁判控訴審第2回弁論 5月26日(木)10時~東京高裁101号法廷
=予防訴訟をひきつぐ会【高橋哲さん(埼玉大学准教授)講演の概略】=
◆ 埼玉超勤裁判から教員の超勤問題を考える
~昨年10月1日の埼玉地裁判決(石垣裁判長)の解説と当裁判の意義
1.埼玉地裁判決:前半戦での勝利『この判決は、前半戦で勝利したものの、後半戦では反則負けだった』と高橋氏は評価しました。
前半戦の勝利とは、これまで文科省も、この件に関する他裁判でも、認めなかった「超勤4項目」以外の業務を「労基法上の労働時間」と認定したことです。
これまでは、「超勤4項目」以外の勤務時間外労働は、本人の自主的行為であり、労基法32条が規定する労働時間には当たらないとされてきたものを、当判決では、給特法の下でも労基法32条の上限規制が適用され、時間外勤務を計377時間23分と認めました。
2.後半戦での反則負け
しかし、労基法違反に伴う国賠法上の違法行為は認めませんでした。この点が、後半戦でルールを勝手に変更した反則なのです。
校長の該当教員の超勤に対する注意義務違反については、校長が故意に怠った訳ではないというような「故意の要件」をもち出し、当初認めた374時間23分を、授業の空き時間などを理由に少しずつ削り、32時間47分のみの法定時間外労働として算出して軽微であるとしたのです。(細かな計算については、埼玉超勤裁判控訴審の準備書面(2)で反論しています)
つまり、素人には、何を言っているのか、理解不能な埼玉地裁(石垣)判決です。
3.この訴訟を教育法的視点でとらえる
一方、この講演の中で、私たちにとって、最も注目されることは、当訴訟の「教育法的視点」からの説明でした。
それは、学校教員の給与や勤務条件は、「教師の人間としての生活条件であることに加えて、子どもたちが良い教育を受けるために必要な『教育条件』でもある」(兼子仁)という基本的原理で捉えるという視点です。
そして、ここでも、1976年旭川学テ最高裁判決から解釈します。
「教師が公権力によって特定の意見のみを享受することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、………一定の範囲における教授の自由が保障される」
つまり、旭川学テ最高裁判決の焦点は国家の「不作為義務」(「~してはならない」)を示しているが、一方で、教師の多忙化の放置は、「教師と子どもとの間の人格的接触」を不能とするものであり、「教育の自由」を抑圧状態にする。長時間労働を改善する条件整備義務は国家の「作為義務」(~しなければならない)も示しているという論理です。
この視点は、私たちにとって『目から鱗』でした。旭川学テ最高裁判決を裏側から見るという視点です。
4.「公共訴訟」という視点
また、最後に、「公共訴訟」としての意義という解説がありました。
この訴訟は原告個人の個人的「不払い請求」に留まらず、すべての教員の労働環境を刷新するインパクトを持つ「教育政策形成訴訟」(アメリカではよく行われているらしい)の意義を持ち、また訴訟運動としては、従来の教員組合を主体とする「当事者」訴訟ではなく、「未来の教師」(教育学部の学生・院生)たち、市民、組合加入の有無にかかわりない当事者の支援で成り立っているオープンで、パブリックで、コモンな公共訴訟運動となっているとの解説でした。(まとめ=片山)
◆ 埼玉超勤訴訟第一回控訴審報告
2022年3月10日(木)10時から東京高裁101法廷で第1回目の控訴審の口頭弁論が開かれました。
意見陳述で原告は、「小学校における児童の在校時間はほぼ8時間です。それに対して教員の勤務時間は7時間45分です。このことだけを考えても無理があります。クラスの児童の管理責任は担任教員が担っています」と勤務時間が足りず時間外勤務が発生していることを指摘。
また「私たち教員には時間外勤務に対して選択の自由がない。それにもかかわらず、教員に自主的労働を求めることは『強制労働』に当たる」と話しました。(片山)
☆ 埼玉超勤裁判の控訴審第2回弁論のお知らせ
5月26日(木)10時~11時、東京高裁101号法廷であります。
控訴審は東京高裁で行われるため、地元での埼玉地裁時よりも傍聴者が減っています。大事な裁判です。皆さま、傍聴をぜひ、お願いいたします。
『いまこそ no.25』(2022年4月27日)
=予防訴訟をひきつぐ会【高橋哲さん(埼玉大学准教授)講演の概略】=
◆ 埼玉超勤裁判から教員の超勤問題を考える
~昨年10月1日の埼玉地裁判決(石垣裁判長)の解説と当裁判の意義
1.埼玉地裁判決:前半戦での勝利『この判決は、前半戦で勝利したものの、後半戦では反則負けだった』と高橋氏は評価しました。
前半戦の勝利とは、これまで文科省も、この件に関する他裁判でも、認めなかった「超勤4項目」以外の業務を「労基法上の労働時間」と認定したことです。
これまでは、「超勤4項目」以外の勤務時間外労働は、本人の自主的行為であり、労基法32条が規定する労働時間には当たらないとされてきたものを、当判決では、給特法の下でも労基法32条の上限規制が適用され、時間外勤務を計377時間23分と認めました。
2.後半戦での反則負け
しかし、労基法違反に伴う国賠法上の違法行為は認めませんでした。この点が、後半戦でルールを勝手に変更した反則なのです。
校長の該当教員の超勤に対する注意義務違反については、校長が故意に怠った訳ではないというような「故意の要件」をもち出し、当初認めた374時間23分を、授業の空き時間などを理由に少しずつ削り、32時間47分のみの法定時間外労働として算出して軽微であるとしたのです。(細かな計算については、埼玉超勤裁判控訴審の準備書面(2)で反論しています)
つまり、素人には、何を言っているのか、理解不能な埼玉地裁(石垣)判決です。
3.この訴訟を教育法的視点でとらえる
一方、この講演の中で、私たちにとって、最も注目されることは、当訴訟の「教育法的視点」からの説明でした。
それは、学校教員の給与や勤務条件は、「教師の人間としての生活条件であることに加えて、子どもたちが良い教育を受けるために必要な『教育条件』でもある」(兼子仁)という基本的原理で捉えるという視点です。
そして、ここでも、1976年旭川学テ最高裁判決から解釈します。
「教師が公権力によって特定の意見のみを享受することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、………一定の範囲における教授の自由が保障される」
つまり、旭川学テ最高裁判決の焦点は国家の「不作為義務」(「~してはならない」)を示しているが、一方で、教師の多忙化の放置は、「教師と子どもとの間の人格的接触」を不能とするものであり、「教育の自由」を抑圧状態にする。長時間労働を改善する条件整備義務は国家の「作為義務」(~しなければならない)も示しているという論理です。
この視点は、私たちにとって『目から鱗』でした。旭川学テ最高裁判決を裏側から見るという視点です。
4.「公共訴訟」という視点
また、最後に、「公共訴訟」としての意義という解説がありました。
この訴訟は原告個人の個人的「不払い請求」に留まらず、すべての教員の労働環境を刷新するインパクトを持つ「教育政策形成訴訟」(アメリカではよく行われているらしい)の意義を持ち、また訴訟運動としては、従来の教員組合を主体とする「当事者」訴訟ではなく、「未来の教師」(教育学部の学生・院生)たち、市民、組合加入の有無にかかわりない当事者の支援で成り立っているオープンで、パブリックで、コモンな公共訴訟運動となっているとの解説でした。(まとめ=片山)
◆ 埼玉超勤訴訟第一回控訴審報告
2022年3月10日(木)10時から東京高裁101法廷で第1回目の控訴審の口頭弁論が開かれました。
意見陳述で原告は、「小学校における児童の在校時間はほぼ8時間です。それに対して教員の勤務時間は7時間45分です。このことだけを考えても無理があります。クラスの児童の管理責任は担任教員が担っています」と勤務時間が足りず時間外勤務が発生していることを指摘。
また「私たち教員には時間外勤務に対して選択の自由がない。それにもかかわらず、教員に自主的労働を求めることは『強制労働』に当たる」と話しました。(片山)
☆ 埼玉超勤裁判の控訴審第2回弁論のお知らせ
5月26日(木)10時~11時、東京高裁101号法廷であります。
控訴審は東京高裁で行われるため、地元での埼玉地裁時よりも傍聴者が減っています。大事な裁判です。皆さま、傍聴をぜひ、お願いいたします。
『いまこそ no.25』(2022年4月27日)
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