第31回現代を考える連続講座が5月26日、東京都内で開かれた。元教員の北村小夜さんが”戦争は「教育勅語」から始まった”と題して講演した。
◆ 戦争は「教育勅語」から始まった
勇気を持って反対の声を (週刊新社会)
私は1925年に生まれました。治安維持法が公布されたときです。それから91年を経て、こういう世の中になりまし忙。私が育った学校教育とほぼ同じ状況になっています。もしかするともっと悪くなっているかも知れません。
◆ 「勅語」をめぐる攻防
教育勅語は知っているようで、よくわかっていないかも知れません。今まで、それがどういう意味を持つかもあまり考えられていませんでした。
靖国神社や明治神宮は教育勅語に非常に熱心です。そこで出す口語訳というのは相当ひどいものです。
教育勅語は明治政府がどのようなな国民をつくるかということでつくられたものです。
教育勅語にいいことも書かれているという意見には、私たちは「一旦緩急あれば」とあると批判しますが、実はこの狙いは身をなげうって、皇道を貫くことを一番大事なこととしていることです。
身をなげうつのも天皇を中心にした日本の形を守ることが大事だとしていることです。そこにつながる道徳がいいはずがありません。
戦後の歴代内閣は、教育勅語の復活のためにいろいろ工作をしていた。私たちは教育基本法ができて、教育はこれでいくと決められたので教育勅語は廃止されたと思っています。
しかし、当時の天野貞祐文相発言の「教育基本法もあってもいいが、教育勅語もあってもいい」などには日教組も大いに反対しましたが、その後は運動も下火になりました。
教育勅語を廃するにはもっとしっかりした運動が必要でした。憲法や47年教育基本法ををきちんと守らせる、もっと定着させる運動が必要だったのではないかと思います。
◆ 「勅語」に囲まれた学校
私が子どものころの学校の授業風景です(写真)。
1938年の教室の前面右にはアジアの地図が掲出されています。それには赤色で台湾、樺太の南半分、北支を含む部分が國土とされています。
そして黒板の右上には伊勢神宮、左上には皇居の写真が飾られそれを繋ぐように神代の時から現代に至る先生の手作りの国史年表があります。
黒板には、「わが国民性の長所短所、長所素質忠孝の美風、国土島国挙国一致、熱烈な愛国心、風景・気候穏健やさしい性情」と板書されている国語の授業でわかるように、教育勅語そのものに囲まれて授業が行われていました。こんな中では真理の探究はできませんでした。
今の教室では、姿勢についてうるさく言われているようです。その証拠に去年ぐらいから子ども(小・中学生)の健康診断の中身が少し変わってきました。文科省の指示で四肢の状況が検査されています。
健康増進法も重要な問題です。総則〈目的〉として国民の健康の増進を図る、2項で〈責務〉とあり、これでは健康でないものは非国民という扱いになります。
健康でない人は戦争中はどんなにひどい目に遭ったか、戦争と健康というのは密接な関係にあります。
1928(昭和3)年に昭和天皇の御大典の記念行事にラジオ体操が披露されました。
そして30年からは健康優良児が選ばれだしました。朝日新聞主催でしたが、実際は国が主導しました。全国の小学6年生男女から心身共に優秀な子どもが一人選ばれました。そして1938年に厚生省(当時)ができ、「産めよ増やせよ国のため」という標語が叫ばれました。人ロ政策は国の大きな政策です。
1940年に国民体力法ができて体力測定が始まり、優生保護法と続いていきます。
人権問題が起きても、差別解消法ができても、優生思想というのは続いています。
◆ 「勅語」と「修身」と「唱歌」
私が習った修身の教科書は国定教科書第三期(1918~1933年)の最後で、「ハナ ハト マメ マス」でした。
1年生が50音がほぼ読めるようになった2学期のはじめ、最初に修身の教科書で読む文章が第16課「テンノウヘイカバンザイ」でした。
来年からの道徳教育の徳目との比較検討をお願いします。同じようなことが起きています。
すべての教科が道徳的なわけですが、特別に音楽は修身の手段でした。残念ながら注目度は少ないです。
戦前は音楽の教科名は唱歌でした。言葉が重要という意味です。
1958年、学習指導要領が告示され、音楽で共通教材を指定しました。教材を指定したのは音楽だけです。
それらの曲を見ると、天皇制が確立した1911~12年頃、国定教科書に載って、それから、延々歌い継がれているのです。
1932年から踏された「まきばの朝」「スキーの歌」などの曲がありますが、それは、上海事変、満州建国の時です。
国民の体位向上のために牧畜が重要な産業ということの反映でした。スキーも軍隊から始まっています。
私が小学校就学直前(1932年)に第一次上海事件で爆弾三勇士の戦死があり、街を上げての「日の丸」の小旗を持っての行進がありました。その光景に私は魅了されたのです。他愛ないこどで取り込まれます。
戦争は脅かしから始まります。
豊かな知識を持っている人が勇気を持って言うことが大切です。国会前でコールできるが、家ではできないということはないでしょうか。
※【プロフィール】
きたむら。さよ 1925年、福岡県生まれ。1950年から86年まで、都内の小・中学校で教員(うち、21年間特殊学級担任)。著書”『一緒がいいならなぜ分けた』、『能力主義と教育基本法「改正」』(現代書館)、ほかに共著、編著多数。
『週刊新社会』(2017年6月13日)
◆ 戦争は「教育勅語」から始まった
勇気を持って反対の声を (週刊新社会)
北村小夜(元教員)
私は1925年に生まれました。治安維持法が公布されたときです。それから91年を経て、こういう世の中になりまし忙。私が育った学校教育とほぼ同じ状況になっています。もしかするともっと悪くなっているかも知れません。
◆ 「勅語」をめぐる攻防
教育勅語は知っているようで、よくわかっていないかも知れません。今まで、それがどういう意味を持つかもあまり考えられていませんでした。
靖国神社や明治神宮は教育勅語に非常に熱心です。そこで出す口語訳というのは相当ひどいものです。
教育勅語は明治政府がどのようなな国民をつくるかということでつくられたものです。
教育勅語にいいことも書かれているという意見には、私たちは「一旦緩急あれば」とあると批判しますが、実はこの狙いは身をなげうって、皇道を貫くことを一番大事なこととしていることです。
身をなげうつのも天皇を中心にした日本の形を守ることが大事だとしていることです。そこにつながる道徳がいいはずがありません。
戦後の歴代内閣は、教育勅語の復活のためにいろいろ工作をしていた。私たちは教育基本法ができて、教育はこれでいくと決められたので教育勅語は廃止されたと思っています。
しかし、当時の天野貞祐文相発言の「教育基本法もあってもいいが、教育勅語もあってもいい」などには日教組も大いに反対しましたが、その後は運動も下火になりました。
教育勅語を廃するにはもっとしっかりした運動が必要でした。憲法や47年教育基本法ををきちんと守らせる、もっと定着させる運動が必要だったのではないかと思います。
◆ 「勅語」に囲まれた学校
私が子どものころの学校の授業風景です(写真)。
1938年の教室の前面右にはアジアの地図が掲出されています。それには赤色で台湾、樺太の南半分、北支を含む部分が國土とされています。
そして黒板の右上には伊勢神宮、左上には皇居の写真が飾られそれを繋ぐように神代の時から現代に至る先生の手作りの国史年表があります。
黒板には、「わが国民性の長所短所、長所素質忠孝の美風、国土島国挙国一致、熱烈な愛国心、風景・気候穏健やさしい性情」と板書されている国語の授業でわかるように、教育勅語そのものに囲まれて授業が行われていました。こんな中では真理の探究はできませんでした。
今の教室では、姿勢についてうるさく言われているようです。その証拠に去年ぐらいから子ども(小・中学生)の健康診断の中身が少し変わってきました。文科省の指示で四肢の状況が検査されています。
健康増進法も重要な問題です。総則〈目的〉として国民の健康の増進を図る、2項で〈責務〉とあり、これでは健康でないものは非国民という扱いになります。
健康でない人は戦争中はどんなにひどい目に遭ったか、戦争と健康というのは密接な関係にあります。
1928(昭和3)年に昭和天皇の御大典の記念行事にラジオ体操が披露されました。
そして30年からは健康優良児が選ばれだしました。朝日新聞主催でしたが、実際は国が主導しました。全国の小学6年生男女から心身共に優秀な子どもが一人選ばれました。そして1938年に厚生省(当時)ができ、「産めよ増やせよ国のため」という標語が叫ばれました。人ロ政策は国の大きな政策です。
1940年に国民体力法ができて体力測定が始まり、優生保護法と続いていきます。
人権問題が起きても、差別解消法ができても、優生思想というのは続いています。
◆ 「勅語」と「修身」と「唱歌」
私が習った修身の教科書は国定教科書第三期(1918~1933年)の最後で、「ハナ ハト マメ マス」でした。
1年生が50音がほぼ読めるようになった2学期のはじめ、最初に修身の教科書で読む文章が第16課「テンノウヘイカバンザイ」でした。
来年からの道徳教育の徳目との比較検討をお願いします。同じようなことが起きています。
すべての教科が道徳的なわけですが、特別に音楽は修身の手段でした。残念ながら注目度は少ないです。
戦前は音楽の教科名は唱歌でした。言葉が重要という意味です。
1958年、学習指導要領が告示され、音楽で共通教材を指定しました。教材を指定したのは音楽だけです。
それらの曲を見ると、天皇制が確立した1911~12年頃、国定教科書に載って、それから、延々歌い継がれているのです。
1932年から踏された「まきばの朝」「スキーの歌」などの曲がありますが、それは、上海事変、満州建国の時です。
国民の体位向上のために牧畜が重要な産業ということの反映でした。スキーも軍隊から始まっています。
私が小学校就学直前(1932年)に第一次上海事件で爆弾三勇士の戦死があり、街を上げての「日の丸」の小旗を持っての行進がありました。その光景に私は魅了されたのです。他愛ないこどで取り込まれます。
戦争は脅かしから始まります。
豊かな知識を持っている人が勇気を持って言うことが大切です。国会前でコールできるが、家ではできないということはないでしょうか。
※【プロフィール】
きたむら。さよ 1925年、福岡県生まれ。1950年から86年まで、都内の小・中学校で教員(うち、21年間特殊学級担任)。著書”『一緒がいいならなぜ分けた』、『能力主義と教育基本法「改正」』(現代書館)、ほかに共著、編著多数。
『週刊新社会』(2017年6月13日)
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