《尾形修一の教員免許更新制反対日記から》
◆ 「学校群制度」を、今どう考えるか
中高一貫校問題の新書を読むと、東京都の高校入試制度だった「学校群制度」に付いての話がよく出てくる。そこで今回の最後に、この制度に付いて、今どう考えるべきかを書いておきたい。自分が高校を受けるときは、ちょうどこの制度だった。時間が経って、もうこの制度を直接知る人も少なくなっていく。今の制度に慣れてしまうと、ちょっと信じがたい部分もある制度で、今は大体「都立高凋落の原因」と非難されていることが多い。
都教委は、ちょうど1月23日に、「東京都立高等学校入学者選抜検討委員会報告書」というものを発表した。入学者選抜のあり方について、多少の見直しを行うということである。それは細かくなるので、今は紹介しない。
この報告書についてはリンク先を見て欲しいが、そこに東京都の高校入試制度の変遷が書かれている。(16頁~)大きく言うと、以下の5つの時期に分かれるのである。
①新制高等学校発足から学区合同選抜制度まで(1947~1951)
②学区合同選抜制度(1952~1966)
③学校群制度(1967~1981)
④グループ選抜制度(1982~1993)
⑤単独選抜制度(1994~)
なお、2003年度からは「学区制度」も撤廃されている。
詳細は省略するので、詳しく知りたい人は前記報告書などを見て欲しい。
こうして見ると、学校群制度以前も、単独選抜ではなかったことが判る。
②の「学区合同選抜」と④の「グループ選抜」は、かなり似ていると言える。
「単独選抜」になったのは、1994年からだから鈴木俊一知事時代。「単独選抜」が「石原教育行政」の「競争政策」で始まったわけではない。
「学区撤廃」は賛否があるが、都内でも特に23区内は地下鉄等の公共交通機関が多く、昔に比べて通学範囲は大きく変わっている。そういう事情を考えると、ある種の合理性はあると思われる。(ただし、島しょ部の普通高校をそれ以外の地区から受けることはできない。)
また、職業科高校はずっと学区と関係なしにどこでも受けられる。60年代後半以後にたくさん作られた新設普通科高校も、学校群と無関係に単独で受けられた。
さて、岩波新書「中学受験」では、以前の都立高校がうまく行っていたと奥武則(法政大学教授)という人の主張を引用し、「この都立高校のシステムを崩壊させたのが、当時の東京都教育委員長だった小尾乕雄(1907~2003年没)だった。」(38頁)と書かれている。小尾乕雄(おび・とらお)は後に文教大学を開設する著名な人物だが、「教育委員長」ではない。もちろん「教育長」である。(岩波新書は「教育委員会」という本も出したばかりなのに、こういう間違いがあるのは驚く。教育委員長が教育行政を主導できると思っているということ自体、教育行政に不案内であるということか。)
河合敦氏の本では、「世にも奇妙な学校群制度」と題した章があり、「前代未聞の愚策」とされている。さらに「まさに人権の無視だといえる」とまで書かれている。
では学校群とはどういう制度か。河合氏の説明を引用すると、「ナンバースクールを含めた複数の周辺校を群(グループ)としてくくり、中学生にはその群を受験させることにしたのである。そして合格者はアトランダムに群内の学校に振り分けられる。つまり、自分が入りたい学校を受験生が個人の意思で選べないのだ。」(15頁)
ナンバースクールというのは、旧制の東京府立中学および高等女学校から続く都立高校のことで、特に明治、大正時代に作られたひとケタ台の学校は、長い伝統を誇る「名門校」とされている。
簡単に紹介すれば、府立一中が日比谷、以下順番に立川、両国、戸山、小石川、新宿、墨田川、小山台となる。昭和に入って設立された九中が北園、十中が西(以下は省略)。
一方、高女では府立第一高女が白鴎、以下竹早、駒場、南多摩、富士、三田、小松川、八潮の第八高女までが大正までの設置である。
こうして見ると、現在の進学重点校、都立中高一貫校にはナンバースクールが多いことが判る。東京以外の人には、煩雑な説明だったかもしれないが、日本全国どこにも歴史的に作られた「名門校」があり、その地域の人には大きな意味を持っている。
この中でも、特に日比谷高校は1964年の東大合格者数で193名と圧倒的にトップを誇っていた。(岩波新書「中学受験」)2位が都立西高で156名、続いて戸山101名、新宿96名、国立の教育大附属をはさみ、6位に小石川80名、私立麻布をはさみ、9位に両国64名と、10位以内に都立高校が6校が入っていた。
それが1977年のランキングでは、10位に西高が52名、13位に青山が41名、15位に富士が40名、17位に戸山が35名と、20位以内まで見ても4校になった。まあ、激減には違いない。それでも西、戸山などは健闘しているが、日比谷はランク外になってしまった。これが「都立高凋落」と言われるものの実態である。
以上のうち、戸山高と青山高は22群、西高と富士高は32群と、同じ学校群に所属していた。このように高い進学実績を誇る高校が2校組んだ場合は、それほど「東大合格者数」が落ちなかったのである。
今の数字で、十番台の数字は、学区を示す。日比谷高校は第一学区なので、「11群」となり「日比谷、三田、九段」と一緒だった。三つもの高校が同じ学校群になれば、当然(それまでと同じ学力レベルの中学生が受験したとしても)合格レベルが下がることになる。
第一学区は千代田、港、品川、大田区で構成されているので、地域的には比較的豊かな階層が多いと考えられる。そこで、かなりの生徒は私立高校に進学するという選択をした可能性が高い。その結果、東大合格者数で見る限り、日比谷高校は激減したわけである。
ところで、これだけみれば、学校群制度は確かに「大愚策」とも言えるように思えるが、もちろんそういう制度をつくるには、それなりの事情があったわけである。
ここまで日比谷高校が東大合格に近いとなれば、競って日比谷高校に入れたい親が多数出てくるのも当然だ。当時は学区制があるから、先の4区に居住していないと日比谷高校を受けられない。だから、日比谷高校に行くには、まず「転居」する必要がある。日比谷にもっとも合格者を出す中学は、千代田区立麹町中学校とされていた。そこへ入るには、千代田区立番町小学校から行くことになる。こうして小学生から子どもを「越境通学」させる風潮が蔓延したわけである。先の報告書でも以下のように書かれている。
「いわゆる有名都立高等学校への過度の集中など、都立高等学校相互間の格差が固定するという課題が生じた。このため、中学校における過度の入試準備教育が行われ、中学校教育に弊害が生じることとなった。また、特定の高等学校に進学するために、小学校段階より越境入学が蔓まん延するなど、小学校教育にも弊害が生じていた。」
学校群制度を非難する言説では、これらの事情が全く触れられない。それは何故だろうか。僕はやはり60年代半ばの東京の公教育の実情は改革が必要だったと思う。それが「日比谷高校」の「凋落」を伴うのも仕方ないのではないだろうか。大きな目で見れば、日本の高度成長に伴い、「豊かな階層」が子どもを私立名門校や有名私立大学附属高(附属中)に進学させる風潮は、学校群がなくても生じただろうと判断できる。だから進学実績が都立から私立に移ったのは、本質的な問題とは言えないのではないか。
だから、問題は「学校群では進学する高校を自分で選べない」ということをどう考えるかである。僕もこれに関しては、自分の受験当時から完全に納得できるものではない。
でも、自分が52群を受験するとき、「上野高校、白鴎高校」のどちらかになるという時に、何の希望も聞かれないことに不満はあった。(自分は、「高校紛争」で定期テスト廃止、自主ゼミ創設など全国的に画期的な改革を打ち出した上野高校に行きたかったのである。友だちが上野高校に振り分けられたこともあり、上野高校の文化祭は3年間行っている。)
ただ、それは友だちと違う学校になるということが問題なのであって、学校内容などではどっちになっても別に不満はなかった。同レベルの高校を組み合わせれば、どっちになってもそのこと自体は不満は起こらない。
河合氏が「人権無視」だというのを読んで、そういう考えがあるかと思い、かなり考えさせられた。学校群制度が「人権無視」だとすれば、当時の生徒は「人権侵害を受けた被害者」である。
僕は白鴎高校の生徒会で制服廃止運動は多少行ったけれど、「学校群制度を廃止せよ」という運動は行わなかった。というか、当時誰も自分が「被害者」だとは思っていなかった。子どもは大人が決めた受験制度の中で高校に進学するしかない。それが不満があるものとしても、「そういうものだ」と思うのである。入れば入ったで、新たな友人ができるわけで、そこで楽しくやっていく。中学時代の友人は、同じ学校群で分けられるだけでなく、当然受ける学校群が違えば中学卒業で道が分かれる。職業高校を受けたり、私立高校へ行ったり、数は少ないが就職する生徒もいた時代で、中学を出たら様々な道に進むのは当然。学校群制度で友人が違う学校に振り分けられても、そういう「一般的な別れ」の一種だと理解していたわけである。
群よう子「都立桃耳高校」(新潮文庫)という小説がある。今は古本でしか入手できないようだが、これは学校群時代の高校の様子を伝える面白い本である。
そこにも書かれているが、同じ都立と言えど、地域性や伝統の違いである程度の気風の違いが出てくる。学校群では自分で希望したわけではなく、アトランダムに振り分けるので、そういう伝統は消えていくかと思うと、各校の気風はやがて「伝染」して行って、なんとなく学校群以前の伝統が残って行ったのである。
それが「学校」と「地域」の力と言うべきもので、結局大きな目で見れば、学校群制度は(一部有名校の進学実績を除けば)、都立高校の気風の大きな変化をもたらさなかったのではないだろうか。
ところで、学校群が廃止された後、グループ選抜という制度になった。自分が中学教員になった時(1983年)には、制度が変わっていたので、最初は戸惑うことになった。
これは同じ学区を2つのグループに分け、そのグループの中で希望校を受けるが、グループ全体で合否判断を行うというものである。だから、グループの最難関校を受けて不合格になっても、グループ全体としては合格するということがある。その場合、上位校はすべて希望者多数でふさがっていて、学区の端の方にある通学に時間がかかる高校に空きがあれば、そこに合格となるわけである。
この制度は果たして学校群制度よりいいのだろうか。僕は教員としてみる限り、改善とは思えなかった。上位校でも合格者が私立高校に受かってそっちに行けば、空きが出ることもある。その場合、もっと下位校で不合格になった生徒がグループ合格していれば、難関校に合格してしまうことがかなりあった。そういう場合、生徒も教師も非常に苦労したということを聞いているが、この制度も矛盾が多かった。
一方、学校群時代は、進学校でも東大合格のしばりが薄まり、それなりに行事や部活、生徒会、あるいは自分の趣味などに時間がさけるので、結構生徒には楽しかったのではないか。最難関の日比谷では「生徒のレベルが落ちた」と不満だったというが。今、年長の都立校教員には学校群時代の都立出身者が多いが、大体は「昔の都立は良かった」と思ってるのではないか。その昔は学校群以前の時代ではなく、教員の実感としては、学校群時代も捨てたものではなかったと思っているように感じる。どんなもんだろうか。
最後に繰り返しになるが、もう一度言っておくと、「学校群制度」を全面的に肯定するものではない。だけど、中学時代の友人と別れるのも、中学卒業というものではないかと思っていたのである。さらに、職業高校や定時制に行くクラスメイトは初めから学校群には関係ない。「学校群=都立凋落」というのも、限定的にしか言えないのではないか。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2014年01月27日)
http://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/224e14152a8cccb83ca47a804fdf42f1
◆ 「学校群制度」を、今どう考えるか
中高一貫校問題の新書を読むと、東京都の高校入試制度だった「学校群制度」に付いての話がよく出てくる。そこで今回の最後に、この制度に付いて、今どう考えるべきかを書いておきたい。自分が高校を受けるときは、ちょうどこの制度だった。時間が経って、もうこの制度を直接知る人も少なくなっていく。今の制度に慣れてしまうと、ちょっと信じがたい部分もある制度で、今は大体「都立高凋落の原因」と非難されていることが多い。
都教委は、ちょうど1月23日に、「東京都立高等学校入学者選抜検討委員会報告書」というものを発表した。入学者選抜のあり方について、多少の見直しを行うということである。それは細かくなるので、今は紹介しない。
この報告書についてはリンク先を見て欲しいが、そこに東京都の高校入試制度の変遷が書かれている。(16頁~)大きく言うと、以下の5つの時期に分かれるのである。
①新制高等学校発足から学区合同選抜制度まで(1947~1951)
②学区合同選抜制度(1952~1966)
③学校群制度(1967~1981)
④グループ選抜制度(1982~1993)
⑤単独選抜制度(1994~)
なお、2003年度からは「学区制度」も撤廃されている。
詳細は省略するので、詳しく知りたい人は前記報告書などを見て欲しい。
こうして見ると、学校群制度以前も、単独選抜ではなかったことが判る。
②の「学区合同選抜」と④の「グループ選抜」は、かなり似ていると言える。
「単独選抜」になったのは、1994年からだから鈴木俊一知事時代。「単独選抜」が「石原教育行政」の「競争政策」で始まったわけではない。
「学区撤廃」は賛否があるが、都内でも特に23区内は地下鉄等の公共交通機関が多く、昔に比べて通学範囲は大きく変わっている。そういう事情を考えると、ある種の合理性はあると思われる。(ただし、島しょ部の普通高校をそれ以外の地区から受けることはできない。)
また、職業科高校はずっと学区と関係なしにどこでも受けられる。60年代後半以後にたくさん作られた新設普通科高校も、学校群と無関係に単独で受けられた。
さて、岩波新書「中学受験」では、以前の都立高校がうまく行っていたと奥武則(法政大学教授)という人の主張を引用し、「この都立高校のシステムを崩壊させたのが、当時の東京都教育委員長だった小尾乕雄(1907~2003年没)だった。」(38頁)と書かれている。小尾乕雄(おび・とらお)は後に文教大学を開設する著名な人物だが、「教育委員長」ではない。もちろん「教育長」である。(岩波新書は「教育委員会」という本も出したばかりなのに、こういう間違いがあるのは驚く。教育委員長が教育行政を主導できると思っているということ自体、教育行政に不案内であるということか。)
河合敦氏の本では、「世にも奇妙な学校群制度」と題した章があり、「前代未聞の愚策」とされている。さらに「まさに人権の無視だといえる」とまで書かれている。
では学校群とはどういう制度か。河合氏の説明を引用すると、「ナンバースクールを含めた複数の周辺校を群(グループ)としてくくり、中学生にはその群を受験させることにしたのである。そして合格者はアトランダムに群内の学校に振り分けられる。つまり、自分が入りたい学校を受験生が個人の意思で選べないのだ。」(15頁)
ナンバースクールというのは、旧制の東京府立中学および高等女学校から続く都立高校のことで、特に明治、大正時代に作られたひとケタ台の学校は、長い伝統を誇る「名門校」とされている。
簡単に紹介すれば、府立一中が日比谷、以下順番に立川、両国、戸山、小石川、新宿、墨田川、小山台となる。昭和に入って設立された九中が北園、十中が西(以下は省略)。
一方、高女では府立第一高女が白鴎、以下竹早、駒場、南多摩、富士、三田、小松川、八潮の第八高女までが大正までの設置である。
こうして見ると、現在の進学重点校、都立中高一貫校にはナンバースクールが多いことが判る。東京以外の人には、煩雑な説明だったかもしれないが、日本全国どこにも歴史的に作られた「名門校」があり、その地域の人には大きな意味を持っている。
この中でも、特に日比谷高校は1964年の東大合格者数で193名と圧倒的にトップを誇っていた。(岩波新書「中学受験」)2位が都立西高で156名、続いて戸山101名、新宿96名、国立の教育大附属をはさみ、6位に小石川80名、私立麻布をはさみ、9位に両国64名と、10位以内に都立高校が6校が入っていた。
それが1977年のランキングでは、10位に西高が52名、13位に青山が41名、15位に富士が40名、17位に戸山が35名と、20位以内まで見ても4校になった。まあ、激減には違いない。それでも西、戸山などは健闘しているが、日比谷はランク外になってしまった。これが「都立高凋落」と言われるものの実態である。
以上のうち、戸山高と青山高は22群、西高と富士高は32群と、同じ学校群に所属していた。このように高い進学実績を誇る高校が2校組んだ場合は、それほど「東大合格者数」が落ちなかったのである。
今の数字で、十番台の数字は、学区を示す。日比谷高校は第一学区なので、「11群」となり「日比谷、三田、九段」と一緒だった。三つもの高校が同じ学校群になれば、当然(それまでと同じ学力レベルの中学生が受験したとしても)合格レベルが下がることになる。
第一学区は千代田、港、品川、大田区で構成されているので、地域的には比較的豊かな階層が多いと考えられる。そこで、かなりの生徒は私立高校に進学するという選択をした可能性が高い。その結果、東大合格者数で見る限り、日比谷高校は激減したわけである。
ところで、これだけみれば、学校群制度は確かに「大愚策」とも言えるように思えるが、もちろんそういう制度をつくるには、それなりの事情があったわけである。
ここまで日比谷高校が東大合格に近いとなれば、競って日比谷高校に入れたい親が多数出てくるのも当然だ。当時は学区制があるから、先の4区に居住していないと日比谷高校を受けられない。だから、日比谷高校に行くには、まず「転居」する必要がある。日比谷にもっとも合格者を出す中学は、千代田区立麹町中学校とされていた。そこへ入るには、千代田区立番町小学校から行くことになる。こうして小学生から子どもを「越境通学」させる風潮が蔓延したわけである。先の報告書でも以下のように書かれている。
「いわゆる有名都立高等学校への過度の集中など、都立高等学校相互間の格差が固定するという課題が生じた。このため、中学校における過度の入試準備教育が行われ、中学校教育に弊害が生じることとなった。また、特定の高等学校に進学するために、小学校段階より越境入学が蔓まん延するなど、小学校教育にも弊害が生じていた。」
学校群制度を非難する言説では、これらの事情が全く触れられない。それは何故だろうか。僕はやはり60年代半ばの東京の公教育の実情は改革が必要だったと思う。それが「日比谷高校」の「凋落」を伴うのも仕方ないのではないだろうか。大きな目で見れば、日本の高度成長に伴い、「豊かな階層」が子どもを私立名門校や有名私立大学附属高(附属中)に進学させる風潮は、学校群がなくても生じただろうと判断できる。だから進学実績が都立から私立に移ったのは、本質的な問題とは言えないのではないか。
だから、問題は「学校群では進学する高校を自分で選べない」ということをどう考えるかである。僕もこれに関しては、自分の受験当時から完全に納得できるものではない。
でも、自分が52群を受験するとき、「上野高校、白鴎高校」のどちらかになるという時に、何の希望も聞かれないことに不満はあった。(自分は、「高校紛争」で定期テスト廃止、自主ゼミ創設など全国的に画期的な改革を打ち出した上野高校に行きたかったのである。友だちが上野高校に振り分けられたこともあり、上野高校の文化祭は3年間行っている。)
ただ、それは友だちと違う学校になるということが問題なのであって、学校内容などではどっちになっても別に不満はなかった。同レベルの高校を組み合わせれば、どっちになってもそのこと自体は不満は起こらない。
河合氏が「人権無視」だというのを読んで、そういう考えがあるかと思い、かなり考えさせられた。学校群制度が「人権無視」だとすれば、当時の生徒は「人権侵害を受けた被害者」である。
僕は白鴎高校の生徒会で制服廃止運動は多少行ったけれど、「学校群制度を廃止せよ」という運動は行わなかった。というか、当時誰も自分が「被害者」だとは思っていなかった。子どもは大人が決めた受験制度の中で高校に進学するしかない。それが不満があるものとしても、「そういうものだ」と思うのである。入れば入ったで、新たな友人ができるわけで、そこで楽しくやっていく。中学時代の友人は、同じ学校群で分けられるだけでなく、当然受ける学校群が違えば中学卒業で道が分かれる。職業高校を受けたり、私立高校へ行ったり、数は少ないが就職する生徒もいた時代で、中学を出たら様々な道に進むのは当然。学校群制度で友人が違う学校に振り分けられても、そういう「一般的な別れ」の一種だと理解していたわけである。
群よう子「都立桃耳高校」(新潮文庫)という小説がある。今は古本でしか入手できないようだが、これは学校群時代の高校の様子を伝える面白い本である。
そこにも書かれているが、同じ都立と言えど、地域性や伝統の違いである程度の気風の違いが出てくる。学校群では自分で希望したわけではなく、アトランダムに振り分けるので、そういう伝統は消えていくかと思うと、各校の気風はやがて「伝染」して行って、なんとなく学校群以前の伝統が残って行ったのである。
それが「学校」と「地域」の力と言うべきもので、結局大きな目で見れば、学校群制度は(一部有名校の進学実績を除けば)、都立高校の気風の大きな変化をもたらさなかったのではないだろうか。
ところで、学校群が廃止された後、グループ選抜という制度になった。自分が中学教員になった時(1983年)には、制度が変わっていたので、最初は戸惑うことになった。
これは同じ学区を2つのグループに分け、そのグループの中で希望校を受けるが、グループ全体で合否判断を行うというものである。だから、グループの最難関校を受けて不合格になっても、グループ全体としては合格するということがある。その場合、上位校はすべて希望者多数でふさがっていて、学区の端の方にある通学に時間がかかる高校に空きがあれば、そこに合格となるわけである。
この制度は果たして学校群制度よりいいのだろうか。僕は教員としてみる限り、改善とは思えなかった。上位校でも合格者が私立高校に受かってそっちに行けば、空きが出ることもある。その場合、もっと下位校で不合格になった生徒がグループ合格していれば、難関校に合格してしまうことがかなりあった。そういう場合、生徒も教師も非常に苦労したということを聞いているが、この制度も矛盾が多かった。
一方、学校群時代は、進学校でも東大合格のしばりが薄まり、それなりに行事や部活、生徒会、あるいは自分の趣味などに時間がさけるので、結構生徒には楽しかったのではないか。最難関の日比谷では「生徒のレベルが落ちた」と不満だったというが。今、年長の都立校教員には学校群時代の都立出身者が多いが、大体は「昔の都立は良かった」と思ってるのではないか。その昔は学校群以前の時代ではなく、教員の実感としては、学校群時代も捨てたものではなかったと思っているように感じる。どんなもんだろうか。
最後に繰り返しになるが、もう一度言っておくと、「学校群制度」を全面的に肯定するものではない。だけど、中学時代の友人と別れるのも、中学卒業というものではないかと思っていたのである。さらに、職業高校や定時制に行くクラスメイトは初めから学校群には関係ない。「学校群=都立凋落」というのも、限定的にしか言えないのではないか。
『尾形修一の教員免許更新制反対日記』(2014年01月27日)
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