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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

「研修」成果!?8

2006年02月23日 | 増田の部屋
他人の言葉を歪曲して論難するやり方の研修!?

こんばんは。犯罪都教委&3悪都議と、断固、闘う増田です!
 本日の人権侵害センターに於ける「研修」成果!? をご紹介します。これを日誌として担当の○○指導主事に提出してやりました。

2006年2月21日(火)
「○○指導主事による、他人の言葉を捻じ曲げ、歪曲して論難するやり方研修」

 昨日(2月20日)提出した『06年2月17日付「研修のまとめ(5)」なる「課題作成者」に要求する』文書に関して、○○指導主事より、05年12月6日の△△指導主事との話の中で、『侵略』のビデオについて「(増田が)生徒に対して『見たくなければ見ずともよい』と言ったのを確かに聞いた」と言われた。

該当部分のテープ起こしを見ると、以下のようになっている。
増田「『ただ・・・どうしても・・・見られない人は、見なくても、言葉だけでも(聴くだけで)かまわない』っていうふうに」
△△「ふんふん」
増田「必ず言っております」
 このような○○指導主事のようなやり方は、他人の言葉を捻じ曲げる、歪曲する、ということの見本なのではなかろうかと思われる。○○指導主事には「テープ起こしなど、いくらでも細工できますよ」とのたまわれたが、「確かに私は聞いた」といって他人の言葉を捻じ曲げ、歪曲するのよりは、よっぽど信憑性が高いと、通常の判断力を持つ者なら判断できるはずなので、今後、テープ録音を禁ずる理由はなくなったことを、通常の良心があれば認められるはずである。

 さて、○○指導主事は、○○指導主事的に私の言葉を捻じ曲げ、歪曲した上で、「生徒に対して『見たくなければ見ずともよい』」と言ったということを前提として、こう言えば「一部の生徒が教室を出て」いく可能性があるから、「一部の生徒が教室を出て、授業に参加できないという授業構成でよいのか。」と論難された、いうことらしい。しかし、可能性を言うなら、誰の授業でも生じるわけである。たとえば○○指導主事が体育科の教諭として授業をしておられた時、その運動について「不注意にやれば危険性もある」と説明すれば「私は危ないから、いやです」という生徒も出る可能性があったといえる。その時「一部の生徒が体育館を出て、授業に参加できないという授業構成でよいのか。」と詰問されたら、どう答えられるだろうか?

 △△指導主事にしたところで、社会科教員だった頃、「アニメ」や「夏服の少女」を教材に使って原爆の授業をなさったらしいが、その場合も「私はツライから見たくありません」と「一部の生徒が教室を出て、授業に参加できない」という可能性は常にあったことを○○指導主事は否定できまい。私が「『生徒が教室を出た』などという事実はなかった」と言っても「生徒の心の中は分からないでしょう」とのたまわれるのだから、△△先生の授業だって、そう考えた生徒がいた可能性は当然あると○○指導主事は認められるだろう。さて、その場合、△△先生は「一部の生徒が教室を出て、授業に参加できないという授業構成でよいのか。」と詰問されて、どのように答えられただろうか?

 「程度の問題だ」と言われるだろうか? それこそが教師の「指導力!」の問題なのである。通常の判断力がある人が、私の生徒たちの『侵略』ビデオを見ての意見・感想を読めば、大日本帝国皇軍による身の毛もよだつ侵略の罪悪、赤ん坊まで殺し、レイプ殺人の上の陵辱、嘔吐をもよおすような残虐に対しても、生徒たちは事実に正対し、アジアの人々への謝罪の気持ちと未来の平和への志向及び「国際協調」の精神を、しっかりと育んでいることを見て取るのは容易である。このような授業をさせまいとして、『生徒に対して「見たくなければ見ずともよい」と説明しても、一部の生徒が教室を出て、授業に参加できないという授業構成でよいのか。』などと他人の言葉を捻じ曲げ、歪曲し、イチャモンを付けて恥じない本研修が、愚劣な「イヤガラセ懲罰研修」以外の何物でもないことも、見て取るのは容易である。

 ○○指導主事&△△指導主事&その他、本「イヤガラセ研修」担当者よ。平凡な一市民が、軍隊組識、神権天皇制国家権力のメカニズムに巻き込まれ、容易に凶悪な犯人になり得たことを、どう考えられるか? このような組識に、自発的に参加させた教育と教育行政の恐るべき威力について、どう考えられるか? 組識の内部において人権を奪われた兵隊たちが外部で人権侵害の加害者になったことを、どう考えられるか? 平和を守るためには、何よりも組識の中の基本的人権を守るための不断の闘いが要求されるということを考えられたことはないか? 嘔吐をもよおすような虐殺の歴史から、何を考えられるか?

 ま、このような問いを「加害者側、被害者側という認識で戦争にかかわる歴史的事象をとらえることだけで、果たして多面的・多角的考察ができたと考えているのか。」などと恥かしげもなく書ける者達に投げかけたところで「木によって魚を求める」類であろうが・・・
 さて、最後に、扶桑社歴史教科書が初めて「文部科学省検定合格」して、アジアの人々にショックを与えた01年の『世界1月号』に掲載されていた鄭在貞・ソウル市立大学文理大学国史科教授(当時)の、きわめて控えめな言葉を紹介しておこう。

「『従軍慰安婦』や『南京虐殺』などは、日本政府も事実として認定した国際的な常識である」
「国家に否定的なイメージを与える歴史的事実でも、これを正確に率直に記述することは、歴史の基本である。そしてこのような事実を教科書に記述して学校で教えることは正しい歴史認識を育むのに必要なことである。さらに国家と民族の壁を越えて、国際化・世界化が進行する21世紀においては、国際的に共感を得られる歴史感覚が必要である。したがって自分の国を極端に美化したり、周辺国家と関連する歴史的事実をすべて自分の国に有利なように解釈したり、間違ったことはすべて他国のせいにすることは望ましい歴史認識の態度ではない。」
「日本の歪曲された歴史認識、すなわち皇国史観が、東アジア諸国を侵略し支配する精神的基盤になったという歴史事実を、東アジアの人間は未だに鮮明に記憶しているというのに」

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