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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

◆ 大阪の「教育改革」を検証する新刊書

2024年10月27日 | 「日の丸・君が代」強制反対

  〔週刊 本の発見・第366回〕
 ◆ 『新自由主義と教育改革ー大阪から問う』(岩波新書、高田一宏)
   評者:志水博子

 ◆ 改革は成果を上げたのか?!

 こんな新書を心待ちにしていた。大阪では、この15年余り、政治による教育改革が叫ばれて来た。
 つい先日も、またもや大阪府立高校の入試制度改革のニュースが流れた。いつの時代も公教育のあり方に疑問を持つ人は多い。よって、公教育の「改革」と聞けば惹かれる人が多いのは当然だ。
 だが、問題はそれらの改革が実を結んだのかどうかである。

 本書の序の言葉がふるっている―「検証なき改革を検証するために」
 そう、教育改革の嵐が吹き荒れた大阪の10数年。問題は、その検証がまったくないことではないか。検証なき改革、大阪の“教育改革”をいうにこれほど的確な言葉はない。
 本来、検証は改革を叫んだ政治なり、またそれを担った教育行政の仕事であろうが、そもそも検証などやる気はなさそうだ。これでは子どもも教員もたまったものではない。
 著者の問題意識は、それらの“教育改革”が大阪の教育現場に何をもたらしたのか。果たして子どもたちの学びと育ちは保障されているのか、その検証にある。

 第1章では、新自由主義思想、新自由主義的教育の改革の先例としてイギリスとアメリカのの事例が簡潔に紹介されている。その後の、英米と比較して日本は社会的公正の観点が弱いという著者の指摘は重要だと思った。日本では、本来公教育に絶対備わっていなければならない公平公正性の観点が、新自由主義的教育改革によりいとも簡単に侵食されつつあることに私たちはもっと自覚的になる必要があるだろう。

 日本における新自由主義的教育改革については、1984年中曽根政権が設置した臨教審に始まり、小泉政権、安倍政権と丹念に追っている。改めて、現在の公教育の歪みを生み出したのは、教育基本法「改正」全国学力体制だと感じた。

 そうした全国的な動きの中で、なぜ、著者は大阪の“教育改革”を取り上げるのか。大阪では新自由主義的な教育改革が最も大規模かつ組織的に行われてきたこと、新自由主義的な改革に対抗しうる教育のあり方を教育の現場から考えたいと2つの理由を挙げている。後者については、子どもの貧困率が高いことと、大阪では歴史的に同和教育、在日外国人教育、障害児教育をはじめとする人権教育が盛んに取り組まれて来た地域であることに触れている。著者自身もそういった現場に何度も足を運び調査活動を行ったそうだ。

 第2章は、橋下徹知事の登場、政治が主導してきた大阪の教育の有り様が通観されているが、何より大阪の教育、特に同和教育の学校現場を知っている著者ならではの批判は的確であり頷くことが多かった。なぜ、大阪の教員が疲弊しているのか、教育現場から創意工夫の意欲が奪われ、結果、それが教育の質を劣化させる。大阪で起きつつあるのは、まさにこの事態であるとの指摘には危機感しかない。

 第3章では、大阪の教育改革の焦点である学力問題が取り上げられている。維新政治が登場する以前の大阪の教育が培ってきた公正の観点に立った施策が、卓越性の観点からの人材育成が重視される新自由主義的な教育改革に取って変わっていく。それでも大阪にはまだしも公平への配慮が消えずに残ったことも書かれている。これは希望につながる。

 また、私立高校授業料無償化措置の拡大について、そのねらいとして公立校と私立校の“切磋琢磨”すなわち競い合いがあることを指摘する。結果公立校は潰されていくことになる。

 第4章では大阪市の小中学校選択制が何を引き起こしたか。学校選択制のもとでは、特定の地域に対する予断と学力テストの成績公表とが結びついて行われる、住まい選びと学校選びという選択は、地域を衰退させたり学校の困難を助長したりするおそれがあると著者は説く。

 第5章は、これまであまりまとまって目にすることのなかった大阪府立高校の入試制度改革と再編整備についてだ。かつて大阪で大事にされてきた人権保障としての進路保障についても触れながら橋下府政以後の目まぐるしく変わる「改革」を検証する。特に学校対抗戦といってよい中学生統一テスト「チャレンジテスト」が生徒や教員に及ぼした影響は、ぜひとも多くの方に知ってほしい。それにしても、2022年度の大阪府の高校の不登校率が全国一高いという事実には驚くと同時にさもありなんとも思った。

 さて、第6章は、それらの新自由主義的教育改革の「成果」について書かれているが、データにより学力向上」がさしたる結果を挙げていないことのみならず、地域間にある学力格差は変化していず、むしろ固定化が進んでいるのではないかと著者は提起する。政治が主導した上意下達の“改革”は、何より子どもが欲しているであろう安心からは程遠い。その結果ではないだろうか。

 最終章である第7章は、では、私たちはどのような教育を目指すべきかについて書かれている。子どもを何かの手段とする教育から子どもの育ちのための教育へ。政治や経済の要請に応える人材養成から子どもの学ぶ権利の保障へ。著者は地域社会の教育力に目を向ける。市場における競争から地域における協働へ。子どもの育つ権利を軽んじ、子どもの成長・発達を手段化し、格差・不平等を拡大させ、それに自己責任で対応することを説いてきた新自由主義的教育改革に対するオルタナティブ(対案)は子どもの社会参加にあると著者は解く。社会のあり方を変え社会をつくり変える主体としての子どもを育てる教育は、市場ではなく地域の中でこそ実現できると。

 ならば、本書は、教育関係者ばかりではなく、地域に生きる市民にこそぜひ読んでほしい。新自由主義的教育改革によって“人材”とされた子どもたちを“社会の担い手”として育んでいくためには、地域こそが土壌としてあるのだから。

『レイバーネット日本』(2024-10-24)
http://www.labornetjp.org/news/2024/hon366


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