《再雇用拒否二次訴訟第7回原告意見陳述》<3>
◎ 押しつけや教え込みではなく、複数の見解を示して生徒に考えさせる
「報告集会」 《撮影:平田 泉》
1.教職志望まで
私は、母が再婚したので養父に養育されました。養父は国語・漢文の教師で、剣道4段。戦前・戦中の教育をそのまま正しいと信じ込んでいる人でした。
「武道によって日本精神を養う」、ということで、小学校5年から3年間剣道場に通わされました。そこは東京中野の修道館という道場で、稽古の前に神棚に向かって礼拝し、「高天原に云々」という祝詞を唱えさせ、「君が代」は歌いませんでしたが、月に一度詩吟の先生の指導で「敷島の大和心を磨かずば、剣帯ぶとも甲斐なからまじ」などの明治天皇御製という和歌を朗詠させられました。
私の剣道2段の免状は名誉館長だった荒木貞夫元陸軍大将からもらいました。
高校で歴史を学んで、荒木貞夫が1936年の二・二六事件の黒幕であり、その後も文部大臣として武道や軍事教練必修化など、軍国主義教育を推進し、戦後東京裁判でA級戦犯として終身刑の判決を受けたことを知って驚きました。
養父は戦前、荒木文部大臣のもとで「現人神である天皇のために死ね」と教えていたのでしょう。
なぜそういう教育が行われたのか、無謀な侵略戦争に突き進んだのはなぜか、敗戦によって軍国主義は一掃され、戦争犯罪者は裁かれ、民主主義社会になったはずなのに、荒木貞夫のような人が釈放され、大きな顔をしているのはなぜなのか、養父のように戦前・戦中からの意識を引きずっている人が大勢いるのはなぜなのか、という問題意識から日本近現代史を学ぼうと思いました。
学ぶ中で戦前・戦中の軍国主義教育の実態を知り、しかも日本国憲法の下でもその残滓がはびこっていることを感じ、再びこのような偽りに満ちた、人権無視の教育が行われてはならないという問題意識から、日本史の教員になろうと思いました。
2.私の教育信条
教員になって、日本史を中心に社会科を教えてきました。養父や剣道場の影響で、子どもの頃は国粋主義的な考えを持っていましたが、それは様々な考え方の中から自分で選んだのではなく、ただ結論だけを従順に鵜呑みにしていたのでした。
学問に裏付けられた歴史を学ぶことにより、それが偽りであることはすぐに分かりました。その経験から、授業では私の考えの押しつけや教え込みでなく、学問の成果に基づき、自分の頭で真実を見出していけるような生徒を育てよう、と言う立場で教育活動をしてきたつもりです。
鎌倉幕府の成立時期、日露戦争の評価、アジア太平洋戦争の性格など、学会や国民の間に見解の相違があるテーマについては、複数の見解を示して生徒に考えさせるようにしました。以前の通説が新しい事実や研究によって乗り越えられた例を紹介し、多様な見解の自由な交流が、学問の進歩に不可欠であることを教えてきました。
学級担任をした時には必ず学級通信を出しましたが、生徒の感想文などで担任に批判的な意見があると真っ先に載せました。行事の取り組みなどでも、積極的な意見ばかりでなく「文化祭なんかやらなくても良いじゃないか」といった意見も載せて、多様な考えがあることを知らせてきました。
私が最初に担任した生徒達が、私の定年退職を記念してクラス会を開いてくれましたが、30数年前の学級通信のすべての号が入ったCDをプレゼントしてくれました。
3.「君が代」について
戦時中の国民学校教科書には「君が代」について「この歌は『天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年も続いてお栄えになりますように』という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と書いてあります。
朝鮮・台湾などの植民地でも皇民化教育の一環として「君が代」が強制されました。国民学校の国語教科書には、大地震で重傷を負った植艮地台湾の少年が「君が代」を歌いながら死んだという「君が代少年」の話が載っています。
「徳坤が心を込めて歌う声は、同じ病室にいる人たちの心にしみこむように聞こえました。…終わりに近くなると声はだんだん細くなりました。でも最後まで立派に歌い通しました。君が代を歌い終わった徳坤は、その朝父と母と、人々の涙に見守られながらやすらかに永い眠りにつきました。」
台湾の少年でさえ「君が代」をこのように思っている、というこの教科書を使って、国内はもとより台湾や朝鮮でも「国語教育」が行われました。
日本史の授業で、1945年まで、国内と植民地の学校の儀式で、御真影、教育勅語、天皇陛下万歳の唱和とセットで「君が代」を歌わせたことを、史料に基づいて教えてきました。
アジア諸国出身の生徒もいる中で、生徒には、そういう歴史があるから、「日の丸・君が代」については国民の間に意見の違いがある。国歌だから歌うのが当然という人もいるが、国民主権の現在の日本にふさわしくないという人もいる。アジアの人々にもさまざまな思いがある。だから国旗国歌法制定の時、政府も「国旗国歌の歴史を教える必要がある、強制はしない」と答弁したことなどを話してきました。
4.不起立の理由
国旗・国歌法制定後、都教委の校長に対する指導が強まり、杉並工業高校でも2000年3月の卒業式で初めて、「君が代」が流されました。矢沢校長は「日の丸・君が代をきちんとやらないと統廃合の対象にされる。学校を守るためにはやむを得ない。」と発言しました。
2003年に10.23通達が出されると、閏間校長は「都教委が学校に土足で入ってきてやれというのだから仕方がない。私も首がかかっている。」と発言しました。
私は卒業式の日付で発行された生徒会の新聞に、卒業生の担任のはなむけの言葉として、次のように書きました。
「社会に出ると、『これはおかしい』と思ってもやらなければならないこともあるでしょう。しかし『これはまちがっている』と思うことはやらない勇気が必要です。」
私にとって戦前・戦中の軍国主義教育の精神的支柱であった日の丸・君が代の強制に屈することは、自分の歴史認識、教員志望の原点を否定するほどの重みを持つものです。しかも3年間教えた生徒たちの前で、強制されて起立し、「君が代」を歌うということは、教師としての誇りや生き方を否定するほどの意味を持つことです。
卒業式直前に都教委から、服務事故があれば嘱託採用を取り消すことがある、という主旨の文書が出され、定年後5年間教える権利を奪われる危険を感じましたが、やはり脅しに屈することはできませんでした。卒業式で「君が代」斉唱時に起立せず、戒告処分を受け、3年後都立玉川高校で定年時に嘱託採用を拒否されました。
玉川高校の常勤教員全員の連名で、「東京都教育委員会に対して今回の再雇用拒否を撤回するよう具申することを学校長に強く要望します」という要望書が出されましたが、校長は都教委への具申をしませんでした。
戒告処分、再発防止研修に加えて、嘱託採用拒否という三重のペナルティーを課され、都立高校で引き続き教えたいという希望が砕かれました。
学校は、説明と納得・合意に基づく理性的対応が重んじられるべき場です。教員への問答無用の命令・脅し・処分の横行を許せば、生徒がのびのびと学び、考える教育が行えるはずもなく、多様な意見が許容され、自由に交流することによって進歩する民主的な社会を実現することはできません。
教育の場で、自分の思想・良心に従って黙って座っているという最小限の行動が処罰され、それを唯一の理由として、年金支給までの生活保障としての再雇用まで拒否されるのであれば、憲法の規定はどういう意味を持つのでしょうか。
裁判長、司法の良心にかけて、都教委による再雇用拒否が違憲・違法であることを認める判断を、是非お願い致します。
以上
◎ 押しつけや教え込みではなく、複数の見解を示して生徒に考えさせる
原告 田中行義
「報告集会」 《撮影:平田 泉》
1.教職志望まで
私は、母が再婚したので養父に養育されました。養父は国語・漢文の教師で、剣道4段。戦前・戦中の教育をそのまま正しいと信じ込んでいる人でした。
「武道によって日本精神を養う」、ということで、小学校5年から3年間剣道場に通わされました。そこは東京中野の修道館という道場で、稽古の前に神棚に向かって礼拝し、「高天原に云々」という祝詞を唱えさせ、「君が代」は歌いませんでしたが、月に一度詩吟の先生の指導で「敷島の大和心を磨かずば、剣帯ぶとも甲斐なからまじ」などの明治天皇御製という和歌を朗詠させられました。
私の剣道2段の免状は名誉館長だった荒木貞夫元陸軍大将からもらいました。
高校で歴史を学んで、荒木貞夫が1936年の二・二六事件の黒幕であり、その後も文部大臣として武道や軍事教練必修化など、軍国主義教育を推進し、戦後東京裁判でA級戦犯として終身刑の判決を受けたことを知って驚きました。
養父は戦前、荒木文部大臣のもとで「現人神である天皇のために死ね」と教えていたのでしょう。
なぜそういう教育が行われたのか、無謀な侵略戦争に突き進んだのはなぜか、敗戦によって軍国主義は一掃され、戦争犯罪者は裁かれ、民主主義社会になったはずなのに、荒木貞夫のような人が釈放され、大きな顔をしているのはなぜなのか、養父のように戦前・戦中からの意識を引きずっている人が大勢いるのはなぜなのか、という問題意識から日本近現代史を学ぼうと思いました。
学ぶ中で戦前・戦中の軍国主義教育の実態を知り、しかも日本国憲法の下でもその残滓がはびこっていることを感じ、再びこのような偽りに満ちた、人権無視の教育が行われてはならないという問題意識から、日本史の教員になろうと思いました。
2.私の教育信条
教員になって、日本史を中心に社会科を教えてきました。養父や剣道場の影響で、子どもの頃は国粋主義的な考えを持っていましたが、それは様々な考え方の中から自分で選んだのではなく、ただ結論だけを従順に鵜呑みにしていたのでした。
学問に裏付けられた歴史を学ぶことにより、それが偽りであることはすぐに分かりました。その経験から、授業では私の考えの押しつけや教え込みでなく、学問の成果に基づき、自分の頭で真実を見出していけるような生徒を育てよう、と言う立場で教育活動をしてきたつもりです。
鎌倉幕府の成立時期、日露戦争の評価、アジア太平洋戦争の性格など、学会や国民の間に見解の相違があるテーマについては、複数の見解を示して生徒に考えさせるようにしました。以前の通説が新しい事実や研究によって乗り越えられた例を紹介し、多様な見解の自由な交流が、学問の進歩に不可欠であることを教えてきました。
学級担任をした時には必ず学級通信を出しましたが、生徒の感想文などで担任に批判的な意見があると真っ先に載せました。行事の取り組みなどでも、積極的な意見ばかりでなく「文化祭なんかやらなくても良いじゃないか」といった意見も載せて、多様な考えがあることを知らせてきました。
私が最初に担任した生徒達が、私の定年退職を記念してクラス会を開いてくれましたが、30数年前の学級通信のすべての号が入ったCDをプレゼントしてくれました。
3.「君が代」について
戦時中の国民学校教科書には「君が代」について「この歌は『天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年も続いてお栄えになりますように』という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と書いてあります。
朝鮮・台湾などの植民地でも皇民化教育の一環として「君が代」が強制されました。国民学校の国語教科書には、大地震で重傷を負った植艮地台湾の少年が「君が代」を歌いながら死んだという「君が代少年」の話が載っています。
「徳坤が心を込めて歌う声は、同じ病室にいる人たちの心にしみこむように聞こえました。…終わりに近くなると声はだんだん細くなりました。でも最後まで立派に歌い通しました。君が代を歌い終わった徳坤は、その朝父と母と、人々の涙に見守られながらやすらかに永い眠りにつきました。」
台湾の少年でさえ「君が代」をこのように思っている、というこの教科書を使って、国内はもとより台湾や朝鮮でも「国語教育」が行われました。
日本史の授業で、1945年まで、国内と植民地の学校の儀式で、御真影、教育勅語、天皇陛下万歳の唱和とセットで「君が代」を歌わせたことを、史料に基づいて教えてきました。
アジア諸国出身の生徒もいる中で、生徒には、そういう歴史があるから、「日の丸・君が代」については国民の間に意見の違いがある。国歌だから歌うのが当然という人もいるが、国民主権の現在の日本にふさわしくないという人もいる。アジアの人々にもさまざまな思いがある。だから国旗国歌法制定の時、政府も「国旗国歌の歴史を教える必要がある、強制はしない」と答弁したことなどを話してきました。
4.不起立の理由
国旗・国歌法制定後、都教委の校長に対する指導が強まり、杉並工業高校でも2000年3月の卒業式で初めて、「君が代」が流されました。矢沢校長は「日の丸・君が代をきちんとやらないと統廃合の対象にされる。学校を守るためにはやむを得ない。」と発言しました。
2003年に10.23通達が出されると、閏間校長は「都教委が学校に土足で入ってきてやれというのだから仕方がない。私も首がかかっている。」と発言しました。
私は卒業式の日付で発行された生徒会の新聞に、卒業生の担任のはなむけの言葉として、次のように書きました。
「社会に出ると、『これはおかしい』と思ってもやらなければならないこともあるでしょう。しかし『これはまちがっている』と思うことはやらない勇気が必要です。」
私にとって戦前・戦中の軍国主義教育の精神的支柱であった日の丸・君が代の強制に屈することは、自分の歴史認識、教員志望の原点を否定するほどの重みを持つものです。しかも3年間教えた生徒たちの前で、強制されて起立し、「君が代」を歌うということは、教師としての誇りや生き方を否定するほどの意味を持つことです。
卒業式直前に都教委から、服務事故があれば嘱託採用を取り消すことがある、という主旨の文書が出され、定年後5年間教える権利を奪われる危険を感じましたが、やはり脅しに屈することはできませんでした。卒業式で「君が代」斉唱時に起立せず、戒告処分を受け、3年後都立玉川高校で定年時に嘱託採用を拒否されました。
玉川高校の常勤教員全員の連名で、「東京都教育委員会に対して今回の再雇用拒否を撤回するよう具申することを学校長に強く要望します」という要望書が出されましたが、校長は都教委への具申をしませんでした。
戒告処分、再発防止研修に加えて、嘱託採用拒否という三重のペナルティーを課され、都立高校で引き続き教えたいという希望が砕かれました。
学校は、説明と納得・合意に基づく理性的対応が重んじられるべき場です。教員への問答無用の命令・脅し・処分の横行を許せば、生徒がのびのびと学び、考える教育が行えるはずもなく、多様な意見が許容され、自由に交流することによって進歩する民主的な社会を実現することはできません。
教育の場で、自分の思想・良心に従って黙って座っているという最小限の行動が処罰され、それを唯一の理由として、年金支給までの生活保障としての再雇用まで拒否されるのであれば、憲法の規定はどういう意味を持つのでしょうか。
裁判長、司法の良心にかけて、都教委による再雇用拒否が違憲・違法であることを認める判断を、是非お願い致します。
以上
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます