《子どもと教科書全国ネット21ニュース》
◆ 「心」の押しつけでなく科学が解き明かす世界を
学習指導要領「小学校理科」を読む
◆ 「葉のつき方にびっくりした」
6年生の子どもたちと、植物の学習をした時のこと。「葉はどんなつき方をしているだろう」と校庭で観察をした後、ひとりの子どもは次のようにノートに書いた。
「植物は葉で光合成して生きているのだから、ぼくは日光が葉によく当たるようについているのではないかと思った。実際に、花壇に生えているホウセンカを真上から見ると、全部の葉が重ならないように互い違いについていた。サクラの木を下から見上げると、葉がすき間なくついていて、その内側の日光が届かない所には葉がなかった。メタセコイヤの葉はクリスマスツリーのように下から上にいくにしたがって少なくなっていて、どの葉にも日光がよく当たるようなつき方をしていた。
今まで何となく見てきたけれど、植物の葉のつき方にもちゃんときまりがあるなんて、びっくりした」。
◆ 「自然に親しみ」と言うけれど
現在の学習指導要領では、理科を教える目標は次のようになっている。
「自然に親しみ、見通しをもって観察、実験などを行い、問題解決の能力と自然を愛する心情を育てるとともに、自然の事物・現象についての実感を伴った理解を図り、科学的な見方や考え方を養う」。
このわかりにくい文章を読んで思うのは、自然科学を学ぶ理科の目標は、ここでいう「自然の事物・現象についての理解を図る」ことが中心ではないかということである。
ところがその肝心の言葉は「自然に親しむ」とか「自然を愛する心情」「問題解決の能力」「科学的な見方や考え方」といった心情的あるいは抽象的方法論の言葉の間に埋もれてしまい、自然科学を獲得するという目標がはっきりしなくなっているのがこの文章である。
例えば、「自然を愛する心情」にしても身のまわりの自然がどんな様子かつぶさに観察し、そうした事実を具体的に知ってゆくなかで育つのだろうし、そうしたことなしに「自然を大切にしよう」「科学的に考えよう」といった言葉を繰り返しても、それは観念的な理解でしかない。
「生きものを大切に」と借りものの言葉を口にするのではなく、「植物の葉のつき方にもちゃんときまりがあるなんて、びっくりした」ととらえられる理科にしたいと思う。
◆ 学習指導要領の性格を一変させた今回の改訂
学習指導要領は、これまでほぼ10年ごとに改訂されてきた。
理科の内容を見ると、1977年告示の学習指導要領では「植物の成長と養分及び日光との関係を理解させる」というように「…を理解させる」という文末表現で統一されていた。
それが、改訂の度に「…を調べることができるようにする」(1989年版)、「…についての考えをもつようにする」(1998年版)、「…についての考えをもつことができるようにする」(2008年版・現行)と、初めの頃は一定の知識内容を「理解させる」ものだ。
たが、だんだん「調べられれば良い」「考えを持てればよい」と態度的な表現になり、それに応じて学習する内容よりも学習方法に重きをおく理科に変わっていった。
それでもこれまでは学習主体である子どもが学習する内容だったものが、今回の改訂では「次の事項を身に付けることができるよう指導する」と初めて教師の側からの記述に変わった。
そして、すべての内容に「…を追究する中で問題を見いだし、表現する」とか「解決の方法を発想し、表現する」といった「育成すべき思考力・判断力・表現力等」がくっつくようになった。
かくして、子どもが学ぶ中身は限りなく薄められ、学習のしかたや教師の教え方を規定するという、学習指導要領の性格そのものを変質させる改訂になった。
◆ 科学的でない理科
4年に「金属、水及び空気は、温めたり冷やしたりすると、その体積が変わること」という学習がある。物が温度によって膨張・収縮することを学ぶのである。ところが、肝心の「体積とは何か」を学ぶ内容は、どこにもない。
小学校5年の算数でわずかに「タテ×ヨコ×高さ」が出てくるだけだから、「金属、水及び空気」といった不定形の物の体積など理解できるはずもない。
また、「金属、水及び空気」といっても、子どもたちは空気を金属や水と同じような「物」と考えていない。空気は、目で見ることも手に取ることもできない、とらえどころのないものだからである。
「どんな物も体積がある」「空気も重さと体積がある」というもっとも基本となる内容を盛り込むことを私たちは要求してきた。
ところが、そうしたことには耳も傾けず、「空気、水、金属はあたためると体積が大きくなり、冷やすと小さくなる」という言葉を子どもたちに覚えさせるだけの理科になっている。
「科学的な言葉や概念を使用して考えたり説明したりする学習活動」を強調しているわりには、科学的でないのが学習指導要領である。
◆ 「歯止め規定」では
「歯止め規定」という言葉を覚えているだろうか。「乾電池の数は2個までとする」「食物連鎖などは取り扱わないものとする」と、教える内容や教材について細かく制限する規定である。
理科ではこれが濫用されたことが批判を浴び、多くが廃止されてきた。
ところが、小学校でいまだに残っている「歯止め規定」が「受精に至る過程は取り扱わないものとする」というものである。
かつて教科書検定で、メダカのおす、めすが重なっている写真を載せようとしたところ、「受精を連想させるからふさわしくない」という検定意見によって、わざわざおす、めすを離した写真に差し替えた例さえあった。
今回の改訂では、この規定が「人の受精に至る過程は取り扱わないものとする」と変更された。
なぜこの歯止め規定だけが廃止されず、なぜ「人の」という言葉が加えられるようになったのか、その学問的な根拠について何の説明もないから、何を意図しているかわからない。
ただ、受精のしくみを扱わないこと自体論外にしても、「人の受精」に限定した今回の変更は、改めて「性教育バッシング」につながる偏った内容を理科教育に押しつけようとする意図をにおわせる。
以前の学習指導要領では「人は、男女によって体のつくりに特徴があると」(1989年度学習指導要領)と男女の生殖器も扱っていたが、今の教科書は「人は、母体内で成長して生まれること」と唐突に子宮内の受精卵の話から始まり、男がいなくても受精する不思議な内容になっている。
◆ 学問の成果から教育を切り離す
もともと日本の教科教育は、それぞれの教科の土台にある学問的な成果のうえに成立してきた。
それが今回の改訂で、科学的真理に裏打ちされた内容からますますかけ離れ、学ぶ意味もわからない断片を覚えさせられ、それを学力テストの名による「学力」として押しつけられ、いっそう“理科嫌い”を加速させるのではないかと危惧する。
学校現場で日々子どもたちと向い合っている教師は、子どもたちがどんな経験や知識をもちどこでつまずいているか、自然科学にとって何がもっとも基礎で何が枝葉のことかを明らかにする努力を続けている。
学習指導要領を作成する側がもっと現場の実践から学ばない限り、この国の科学教育は貧しくなる一方である。(こさのまさき)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース』113号(2017.4)
◆ 「心」の押しつけでなく科学が解き明かす世界を
学習指導要領「小学校理科」を読む
小佐野正樹(科学教育研究協議会、元小学校教員)
◆ 「葉のつき方にびっくりした」
6年生の子どもたちと、植物の学習をした時のこと。「葉はどんなつき方をしているだろう」と校庭で観察をした後、ひとりの子どもは次のようにノートに書いた。
「植物は葉で光合成して生きているのだから、ぼくは日光が葉によく当たるようについているのではないかと思った。実際に、花壇に生えているホウセンカを真上から見ると、全部の葉が重ならないように互い違いについていた。サクラの木を下から見上げると、葉がすき間なくついていて、その内側の日光が届かない所には葉がなかった。メタセコイヤの葉はクリスマスツリーのように下から上にいくにしたがって少なくなっていて、どの葉にも日光がよく当たるようなつき方をしていた。
今まで何となく見てきたけれど、植物の葉のつき方にもちゃんときまりがあるなんて、びっくりした」。
◆ 「自然に親しみ」と言うけれど
現在の学習指導要領では、理科を教える目標は次のようになっている。
「自然に親しみ、見通しをもって観察、実験などを行い、問題解決の能力と自然を愛する心情を育てるとともに、自然の事物・現象についての実感を伴った理解を図り、科学的な見方や考え方を養う」。
このわかりにくい文章を読んで思うのは、自然科学を学ぶ理科の目標は、ここでいう「自然の事物・現象についての理解を図る」ことが中心ではないかということである。
ところがその肝心の言葉は「自然に親しむ」とか「自然を愛する心情」「問題解決の能力」「科学的な見方や考え方」といった心情的あるいは抽象的方法論の言葉の間に埋もれてしまい、自然科学を獲得するという目標がはっきりしなくなっているのがこの文章である。
例えば、「自然を愛する心情」にしても身のまわりの自然がどんな様子かつぶさに観察し、そうした事実を具体的に知ってゆくなかで育つのだろうし、そうしたことなしに「自然を大切にしよう」「科学的に考えよう」といった言葉を繰り返しても、それは観念的な理解でしかない。
「生きものを大切に」と借りものの言葉を口にするのではなく、「植物の葉のつき方にもちゃんときまりがあるなんて、びっくりした」ととらえられる理科にしたいと思う。
◆ 学習指導要領の性格を一変させた今回の改訂
学習指導要領は、これまでほぼ10年ごとに改訂されてきた。
理科の内容を見ると、1977年告示の学習指導要領では「植物の成長と養分及び日光との関係を理解させる」というように「…を理解させる」という文末表現で統一されていた。
それが、改訂の度に「…を調べることができるようにする」(1989年版)、「…についての考えをもつようにする」(1998年版)、「…についての考えをもつことができるようにする」(2008年版・現行)と、初めの頃は一定の知識内容を「理解させる」ものだ。
たが、だんだん「調べられれば良い」「考えを持てればよい」と態度的な表現になり、それに応じて学習する内容よりも学習方法に重きをおく理科に変わっていった。
それでもこれまでは学習主体である子どもが学習する内容だったものが、今回の改訂では「次の事項を身に付けることができるよう指導する」と初めて教師の側からの記述に変わった。
そして、すべての内容に「…を追究する中で問題を見いだし、表現する」とか「解決の方法を発想し、表現する」といった「育成すべき思考力・判断力・表現力等」がくっつくようになった。
かくして、子どもが学ぶ中身は限りなく薄められ、学習のしかたや教師の教え方を規定するという、学習指導要領の性格そのものを変質させる改訂になった。
◆ 科学的でない理科
4年に「金属、水及び空気は、温めたり冷やしたりすると、その体積が変わること」という学習がある。物が温度によって膨張・収縮することを学ぶのである。ところが、肝心の「体積とは何か」を学ぶ内容は、どこにもない。
小学校5年の算数でわずかに「タテ×ヨコ×高さ」が出てくるだけだから、「金属、水及び空気」といった不定形の物の体積など理解できるはずもない。
また、「金属、水及び空気」といっても、子どもたちは空気を金属や水と同じような「物」と考えていない。空気は、目で見ることも手に取ることもできない、とらえどころのないものだからである。
「どんな物も体積がある」「空気も重さと体積がある」というもっとも基本となる内容を盛り込むことを私たちは要求してきた。
ところが、そうしたことには耳も傾けず、「空気、水、金属はあたためると体積が大きくなり、冷やすと小さくなる」という言葉を子どもたちに覚えさせるだけの理科になっている。
「科学的な言葉や概念を使用して考えたり説明したりする学習活動」を強調しているわりには、科学的でないのが学習指導要領である。
◆ 「歯止め規定」では
「歯止め規定」という言葉を覚えているだろうか。「乾電池の数は2個までとする」「食物連鎖などは取り扱わないものとする」と、教える内容や教材について細かく制限する規定である。
理科ではこれが濫用されたことが批判を浴び、多くが廃止されてきた。
ところが、小学校でいまだに残っている「歯止め規定」が「受精に至る過程は取り扱わないものとする」というものである。
かつて教科書検定で、メダカのおす、めすが重なっている写真を載せようとしたところ、「受精を連想させるからふさわしくない」という検定意見によって、わざわざおす、めすを離した写真に差し替えた例さえあった。
今回の改訂では、この規定が「人の受精に至る過程は取り扱わないものとする」と変更された。
なぜこの歯止め規定だけが廃止されず、なぜ「人の」という言葉が加えられるようになったのか、その学問的な根拠について何の説明もないから、何を意図しているかわからない。
ただ、受精のしくみを扱わないこと自体論外にしても、「人の受精」に限定した今回の変更は、改めて「性教育バッシング」につながる偏った内容を理科教育に押しつけようとする意図をにおわせる。
以前の学習指導要領では「人は、男女によって体のつくりに特徴があると」(1989年度学習指導要領)と男女の生殖器も扱っていたが、今の教科書は「人は、母体内で成長して生まれること」と唐突に子宮内の受精卵の話から始まり、男がいなくても受精する不思議な内容になっている。
◆ 学問の成果から教育を切り離す
もともと日本の教科教育は、それぞれの教科の土台にある学問的な成果のうえに成立してきた。
それが今回の改訂で、科学的真理に裏打ちされた内容からますますかけ離れ、学ぶ意味もわからない断片を覚えさせられ、それを学力テストの名による「学力」として押しつけられ、いっそう“理科嫌い”を加速させるのではないかと危惧する。
学校現場で日々子どもたちと向い合っている教師は、子どもたちがどんな経験や知識をもちどこでつまずいているか、自然科学にとって何がもっとも基礎で何が枝葉のことかを明らかにする努力を続けている。
学習指導要領を作成する側がもっと現場の実践から学ばない限り、この国の科学教育は貧しくなる一方である。(こさのまさき)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース』113号(2017.4)
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