《浦部法穂の憲法時評》
◎ 国旗・国歌強制のほんとうの問題
東京都教育委員会による入学式や卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の強制に対し、このような強制は教育の本質に反するとともに憲法の保障する思想・良心の自由を侵害するものだとして、こうした強制をやめさせようとする訴訟が、いくつも提起されている。
そのうちの一つ、都立学校の教職員が、卒業式等において「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する義務」がないことの確認などを求めた訴訟の控訴審判決(東京高裁)が、1月28日に出された。
この訴訟の第1審判決(東京地裁2006年9月21日)は、この問題に関する訴訟のなかでは唯一、教職員に対し「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」ことを強制するのは憲法19条の思想・良心の自由を侵害するものだ、と明確に述べた判決であった。そのうえで、第1審判決は、教職員に起立・斉唱義務やピアノ伴奏義務のないことなどを、はっきり認めたのであった。
しかし、控訴審判決はこれを全面的に否定し(そもそも訴えじたいが不適法だという)、国旗掲揚や国歌斉唱は一般に広く行われていることであって思想・良心の自由とは関係がない(「憲法19条の問題となることはない」と判決は言っている!)としたのである。
判決文は長ったらしいが、中身は要するに、都教委側の言い分をそのままなぞっただけの、お粗末きわまりないものである(ほとんど「コピペ」の世界?)。
行政の言い分や政治権力に、あるいは最高裁の言ったことに、盲従するしか能のない裁判官が、いかにはびこっていることか。あらためてそれを見せつけられた感がする。国旗・国歌強制のなにが問題なのかを、少しは自分の頭で考えられないのだろうか。司法権を担っている裁判官がそのレベルでは、恐ろしい。
では、その、国旗・国歌強制の本質的な問題とは何なのであろうか。強制が許されないというのは、国旗・国歌が「日の丸」・「君が代」だから、なのであろうか。
たしかに、「日の丸」・「君が代」は、かつての軍国主義日本のシンボルとして、文字どおり侵略の旗印としての役割を果たしてきた。だから、そういう旗や歌を、掲げたくない・歌いたくない、見たくも聞きたくもない、と思う人がいても不思議ではないし、現にいる。国旗・国歌強制は、そういう人たちのそういう思いを抹殺するものであるから許されるものではない、といえる。そういう意味で、「日の丸」・「君が代」だから、という側面は、たしかにある。
では、もしも国旗・国歌が「日の丸」・「君が代」でなかったならば、強制しても問題ないということになるのであろうか。そうではないはずである。国旗・国歌強制が許されないのは、「日の丸」・「君が代」だからというよりも、まさに国旗・国歌だから、なのである。国旗・国歌は、いかなる場面においても、決して権力が国民に対して強制してはならないものなのである。少なくとも民主主義国家においては。本質的な問題は、そこにある。
国旗・国歌は、国家の権力に服属する人々にその国の一員であるという意識を植え込み、人々を「国民」として国家のもとに統合するという機能をもつ。そのために、近代以降の「国民国家」(nation state)は、国旗・国歌というものを制定したのである。
私たちが、「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌うとき、程度の差はあっても、「自分は日本国民(日本人)だ」ということを意識しているであろう。日本という国の一員であるという意識、しかもそのことを肯定的にとらえる意識である。言いかえれば、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎(の一つ)とする意識である。
そういう意識をもつことが悪いというわけではない。しかし、そういう意識を持つべきだと、他から、ましてや国家公権力から、強制・干渉されるいわれはない。自己のアイデンティティの基礎をどこに求めるかは、まさに個人個人が自分で自律的に決めるべきことだからである。それは、憲法13条のいう「個人の尊重」の一番根源である。
国旗・国歌の強制は、国家の一員であることを肯定的にとらえる意識を持て、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎とせよ、と強制されるに等しく、「個人の尊重」のもっとも根源的な部分への侵害となるのである。
しかし、国家の権力にとっては、国家の一員であることを肯定的にとらえ、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎とする人々が増えてくれることは、好ましいこととなる。できれば国民すべてにそういう意識を持ってもらいたいと思うであろう。そういう意識を持った国民が多ければ多いほど、権力の求心力は高まり、国家の権力体制への深刻な批判や反対は少なくなるからである。
だからこそ、権力は、小さい子どものうちからそういう意識を植え付けようと、小・中・高等学校での国旗・国歌強制に躍起になっているのである。
しかし、そうして権力や支配体制への疑問をいっさい持たず批判能力をまったく失った国民ばかりになった国は、どんな国になるのであろう。そういう国を、私たちは、「全体主義国家」と呼んで、民主主義の「敵」とみなしてきたはずである。
東京都教育委員会などが異常な執念を燃やす国旗・国歌強制の行き着く先は、そういう全体主義への道にほかならない。そして、そのことに気付こうともしないお粗末な裁判所が、それをせっせと後押ししているのである。
『法学館憲法研究所』(2011/2/3)
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20110203.html
◎ 国旗・国歌強制のほんとうの問題
浦部法穂・法学館憲法研究所顧問 2011年2月3日
東京都教育委員会による入学式や卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の強制に対し、このような強制は教育の本質に反するとともに憲法の保障する思想・良心の自由を侵害するものだとして、こうした強制をやめさせようとする訴訟が、いくつも提起されている。
そのうちの一つ、都立学校の教職員が、卒業式等において「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する義務」がないことの確認などを求めた訴訟の控訴審判決(東京高裁)が、1月28日に出された。
この訴訟の第1審判決(東京地裁2006年9月21日)は、この問題に関する訴訟のなかでは唯一、教職員に対し「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」ことを強制するのは憲法19条の思想・良心の自由を侵害するものだ、と明確に述べた判決であった。そのうえで、第1審判決は、教職員に起立・斉唱義務やピアノ伴奏義務のないことなどを、はっきり認めたのであった。
しかし、控訴審判決はこれを全面的に否定し(そもそも訴えじたいが不適法だという)、国旗掲揚や国歌斉唱は一般に広く行われていることであって思想・良心の自由とは関係がない(「憲法19条の問題となることはない」と判決は言っている!)としたのである。
判決文は長ったらしいが、中身は要するに、都教委側の言い分をそのままなぞっただけの、お粗末きわまりないものである(ほとんど「コピペ」の世界?)。
行政の言い分や政治権力に、あるいは最高裁の言ったことに、盲従するしか能のない裁判官が、いかにはびこっていることか。あらためてそれを見せつけられた感がする。国旗・国歌強制のなにが問題なのかを、少しは自分の頭で考えられないのだろうか。司法権を担っている裁判官がそのレベルでは、恐ろしい。
では、その、国旗・国歌強制の本質的な問題とは何なのであろうか。強制が許されないというのは、国旗・国歌が「日の丸」・「君が代」だから、なのであろうか。
たしかに、「日の丸」・「君が代」は、かつての軍国主義日本のシンボルとして、文字どおり侵略の旗印としての役割を果たしてきた。だから、そういう旗や歌を、掲げたくない・歌いたくない、見たくも聞きたくもない、と思う人がいても不思議ではないし、現にいる。国旗・国歌強制は、そういう人たちのそういう思いを抹殺するものであるから許されるものではない、といえる。そういう意味で、「日の丸」・「君が代」だから、という側面は、たしかにある。
では、もしも国旗・国歌が「日の丸」・「君が代」でなかったならば、強制しても問題ないということになるのであろうか。そうではないはずである。国旗・国歌強制が許されないのは、「日の丸」・「君が代」だからというよりも、まさに国旗・国歌だから、なのである。国旗・国歌は、いかなる場面においても、決して権力が国民に対して強制してはならないものなのである。少なくとも民主主義国家においては。本質的な問題は、そこにある。
国旗・国歌は、国家の権力に服属する人々にその国の一員であるという意識を植え込み、人々を「国民」として国家のもとに統合するという機能をもつ。そのために、近代以降の「国民国家」(nation state)は、国旗・国歌というものを制定したのである。
私たちが、「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌うとき、程度の差はあっても、「自分は日本国民(日本人)だ」ということを意識しているであろう。日本という国の一員であるという意識、しかもそのことを肯定的にとらえる意識である。言いかえれば、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎(の一つ)とする意識である。
そういう意識をもつことが悪いというわけではない。しかし、そういう意識を持つべきだと、他から、ましてや国家公権力から、強制・干渉されるいわれはない。自己のアイデンティティの基礎をどこに求めるかは、まさに個人個人が自分で自律的に決めるべきことだからである。それは、憲法13条のいう「個人の尊重」の一番根源である。
国旗・国歌の強制は、国家の一員であることを肯定的にとらえる意識を持て、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎とせよ、と強制されるに等しく、「個人の尊重」のもっとも根源的な部分への侵害となるのである。
しかし、国家の権力にとっては、国家の一員であることを肯定的にとらえ、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎とする人々が増えてくれることは、好ましいこととなる。できれば国民すべてにそういう意識を持ってもらいたいと思うであろう。そういう意識を持った国民が多ければ多いほど、権力の求心力は高まり、国家の権力体制への深刻な批判や反対は少なくなるからである。
だからこそ、権力は、小さい子どものうちからそういう意識を植え付けようと、小・中・高等学校での国旗・国歌強制に躍起になっているのである。
しかし、そうして権力や支配体制への疑問をいっさい持たず批判能力をまったく失った国民ばかりになった国は、どんな国になるのであろう。そういう国を、私たちは、「全体主義国家」と呼んで、民主主義の「敵」とみなしてきたはずである。
東京都教育委員会などが異常な執念を燃やす国旗・国歌強制の行き着く先は、そういう全体主義への道にほかならない。そして、そのことに気付こうともしないお粗末な裁判所が、それをせっせと後押ししているのである。
『法学館憲法研究所』(2011/2/3)
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20110203.html
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