総会講演 要旨 (リベルテ54号から)
◆ 教育・保育の現場で「日の丸・君が代」強制が意味するもの
◆ 君が代・日の丸が当たり前の若者へ
私は、青少年の文化や就職、若い人たちの問題を中心に扱っています。それと関わって保育現場のことで話をする機会があり、その中で新保育指針に突然「君が代日の丸」が入ることになり、急遽小冊子を作りました。
その対象は、小さい時から君が代も日の丸も当たり前に感じている若い世代が多い。その人たちを主たる対象に、君が代と日の丸はどういう役割、意味をもっているのかを伝えるのが趣旨でした。
現在保育指針に見られる教育や保育の場での、日の丸・君が代の強要という政策がどういう段階・どういう意味があるのかが一つです。
もう一つは、明治政権以降、君が代・日の丸を大日本帝国の象徴として定着させるという、非常に大きな社会文化的な働きかけがどういう形で進んでいったのかを確かめ、その中で君が代・日の丸がどういう役割を果たしたのかを考えてみたい。
最後に君が代・日の丸を強制していく動きに対してどうやってみんなでそれを、おかしいと考え、その考えを広げていくのかについてお話をいたします。
◆ 新保育指針は環境型ハラスメント
新保育指針に日の丸・君が代が書いてありますが、文科省は幼稚園の指導要領にはすでに入っているので、保育園もそれに合わせただけと言います。
新しい指導要領には特徴的な記述があります。カリキュラムマネジメントです。
PDCAサイクルという企業での管理手法で、学校の教育カリキュラム全体をそのサイクルに則って進めるというのがカリキュラムマネジメントの意味です。
幼稚園、保育園にこれが入るのは想像しがたいです。
目標を決めてちゃんとできたかどうか、保育ではそういうことはできないというのは実践の常識ですが、新しく小学校に上がる前までに育ってほしい姿というのが保育指針の中に初めて入りました。
小学校1年生の時にもう学校生活が送れるように、保育園や幼稚園でここまでやらせるということが出てきている。
単に強制するというだけでは、日の丸を掲げ、君が代を斉唱するだけでは足りない、自分から進んで自発的に、君が代・日の丸はいいなと思える存在にならないとダメだとはっきりうたっている。
主体性・主体的という言葉もたくさん出てくる。幼児からそういう状態に主体的になれるようにしていこうということが一つの特徴です。
その中で、新保育指針に書き込まれた国旗国歌の記述については、近隣の生活に興味や関心を持ち保育所内外の行事などに喜んで参加するという項目の中に国歌に親しむことが入る。
行事でやるのは楽しくていい。その中に君が代・日の丸を入れようということになります。
君が代・日の丸についての教育をしなさいとは書いてない。環境を、行事の中で親しめという要求をしているわけです。
日の丸・君が代に親しみたい人は親しめぱいいけど、それは子どもの自由です。その自由を一つにまとめていくやり方は、環境型ハラスメントと同じです。
◆ 安倍政権は単なる復古主義ではない
安倍政権は非常に保守的な政権で、日の丸・君が代もそういう異常な政権が行っていることという印象を持ちがちですが、その背景には単なる安倍政権の異常だけには尽きない問題もあります。
安倍政権は、自民党保守政権というよりは右派政権といったほうが正確ですし、右派政権がなんで長期にわたって続いているのかと考えると、グローバリゼーシヨンの中で、日本、あるいは日本の企業の地位・力を維持して、そのために必要な枠組み、社会を作るという要求と実は合致している。単純に復古主義ではなく、異常さが通ってしまうにはそれだけの社会的な土壌というのがある。
私は「仕事と人生」という授業をもっていて、学生のコメントを見ていて愕然としたのは、職場で雇っている人の言うことを聞かなくていいと初めて聞きましたと。つまりどんなことがあっても言うこと聞かなければいけないと思っていたらしいです。
自分の友達が、アルバイトやめたいけど、どうしたら辞められますかという相談もあります。転職の自由すらないという感覚の中で、毎日を生きているということが現実にある。
これは結局、安倍首相のいう世界で一番企業が自由に活動しやすい社会を作るための秩序と考えられますから、君が代・日の丸を強要するという問題も、今の社会をどういう形で考えていくのかということと密接に結ぴついています。
◆ 天皇を主権者とする国民国家・国体のシンポルとしての君が代・日の丸
君が代日の丸を使って国民を統合していくというやり方がどういう形で明治期以降展開していって現在のような君が代・日の丸強要に結びついているのかを次に見ます。
例えば、一方では軍隊を魅力的に見せるために、「萌えミリ」というジャンルがあり、それを広告に使っている。「萌えよ陸自、萌えよ陸上自衛隊学校」というやつです。
だけど、陸上自衛隊は本当は恐ろしい軍事力が背後にある世界です。実は、矛盾というか、どっちなのかというジレンマがある。これは君が代日の丸の問題も同じです。
君が代日の丸を国民統合の手段として使おうというときにこのジレンマは深刻な問題になります。そもそも国旗や国歌がシンボルとして扱われるのは国民国家、いわゆる近代国家の一つの特徴です。
この国民国家というのは、主権、領土・領空・領海という主権の及ぶ領域を持っていて、国家の一員に位置付けられる国民を持っている。
ところがこの国民国家は自然に出てきたものではない。ナショナリティを持つ存在を人為的に作り出していくということがあって、国民国家ができる。
明治政府は、国民国家を作ろうとしたけど、その主権は国民でも人民でもなく、天皇を主権者とするという枠組みが作られた。
天皇を主権者とする国民国家の一員ということをどのように住民たちに納得させるかが非常に大きな課題であり、そのために様々な文化的手段を用いた。主権という言い方はその当時は取らなかったので、国家の在り方を日本に独特の国の在り方、国体という言葉で表します。
その日本の国体、他国にない優れた卓越性を備えているという主張を日本主義とよんでいます。日本主義のシンボルとして君が代・日の丸が1930年代には定着してその後頂点に行くことになります。
◆ 強制は弱点の表れ、尊厳を守るたたかいを
今、復古主義者にとっては、1930年代に定着させられた日の丸・君が代のそうした扱い方をもう一度やりたい、ということが間違いなく目標になっている。
ただ戦後の日本社会では上からの押しつけなしでは自発的に日の丸君が代を用いる社会文化は育っていない。押し付けざるを得ない体制には弱さがある。
どうしても歌えと強制しなくてはいけないというのは君が代・日の丸を国民の文化として利用する上では、大変大きな弱点です。それから国民主権の国家にふさわしい国旗や国歌とは何かと問われる危険性も持っている。
日の丸・君が代の強要によって国民主権の土台を覆い崩して特異な国家体制を作るのは大変に難しい。強制することを考えること自体が今の政権や体制の弱さである。
そういう意味で戦後憲法の理念は死んでいないし、死んでいないからこそ君が代強制に抵抗する人、米軍基地の不法に抗議する人、平和主義の実践に立ち上がる人、そういう人たちに対して、圧迫や攻撃を繰り返していく。
その人たちが精神の自由、自分たちの自由を獲得してつながることを恐れています。そう考えると自分の思っていることや考えていることを主張して社会に訴えていく様々な動きを私たちが大事にしてその中で、自分と他者の尊厳を守るために頑張らないといけない。
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース(リベルテ) 54号』(2019年1月26日)
◆ 教育・保育の現場で「日の丸・君が代」強制が意味するもの
中西新太郎(関東学院大学)
◆ 君が代・日の丸が当たり前の若者へ
私は、青少年の文化や就職、若い人たちの問題を中心に扱っています。それと関わって保育現場のことで話をする機会があり、その中で新保育指針に突然「君が代日の丸」が入ることになり、急遽小冊子を作りました。
その対象は、小さい時から君が代も日の丸も当たり前に感じている若い世代が多い。その人たちを主たる対象に、君が代と日の丸はどういう役割、意味をもっているのかを伝えるのが趣旨でした。
現在保育指針に見られる教育や保育の場での、日の丸・君が代の強要という政策がどういう段階・どういう意味があるのかが一つです。
もう一つは、明治政権以降、君が代・日の丸を大日本帝国の象徴として定着させるという、非常に大きな社会文化的な働きかけがどういう形で進んでいったのかを確かめ、その中で君が代・日の丸がどういう役割を果たしたのかを考えてみたい。
最後に君が代・日の丸を強制していく動きに対してどうやってみんなでそれを、おかしいと考え、その考えを広げていくのかについてお話をいたします。
◆ 新保育指針は環境型ハラスメント
新保育指針に日の丸・君が代が書いてありますが、文科省は幼稚園の指導要領にはすでに入っているので、保育園もそれに合わせただけと言います。
新しい指導要領には特徴的な記述があります。カリキュラムマネジメントです。
PDCAサイクルという企業での管理手法で、学校の教育カリキュラム全体をそのサイクルに則って進めるというのがカリキュラムマネジメントの意味です。
幼稚園、保育園にこれが入るのは想像しがたいです。
目標を決めてちゃんとできたかどうか、保育ではそういうことはできないというのは実践の常識ですが、新しく小学校に上がる前までに育ってほしい姿というのが保育指針の中に初めて入りました。
小学校1年生の時にもう学校生活が送れるように、保育園や幼稚園でここまでやらせるということが出てきている。
単に強制するというだけでは、日の丸を掲げ、君が代を斉唱するだけでは足りない、自分から進んで自発的に、君が代・日の丸はいいなと思える存在にならないとダメだとはっきりうたっている。
主体性・主体的という言葉もたくさん出てくる。幼児からそういう状態に主体的になれるようにしていこうということが一つの特徴です。
その中で、新保育指針に書き込まれた国旗国歌の記述については、近隣の生活に興味や関心を持ち保育所内外の行事などに喜んで参加するという項目の中に国歌に親しむことが入る。
行事でやるのは楽しくていい。その中に君が代・日の丸を入れようということになります。
君が代・日の丸についての教育をしなさいとは書いてない。環境を、行事の中で親しめという要求をしているわけです。
日の丸・君が代に親しみたい人は親しめぱいいけど、それは子どもの自由です。その自由を一つにまとめていくやり方は、環境型ハラスメントと同じです。
◆ 安倍政権は単なる復古主義ではない
安倍政権は非常に保守的な政権で、日の丸・君が代もそういう異常な政権が行っていることという印象を持ちがちですが、その背景には単なる安倍政権の異常だけには尽きない問題もあります。
安倍政権は、自民党保守政権というよりは右派政権といったほうが正確ですし、右派政権がなんで長期にわたって続いているのかと考えると、グローバリゼーシヨンの中で、日本、あるいは日本の企業の地位・力を維持して、そのために必要な枠組み、社会を作るという要求と実は合致している。単純に復古主義ではなく、異常さが通ってしまうにはそれだけの社会的な土壌というのがある。
私は「仕事と人生」という授業をもっていて、学生のコメントを見ていて愕然としたのは、職場で雇っている人の言うことを聞かなくていいと初めて聞きましたと。つまりどんなことがあっても言うこと聞かなければいけないと思っていたらしいです。
自分の友達が、アルバイトやめたいけど、どうしたら辞められますかという相談もあります。転職の自由すらないという感覚の中で、毎日を生きているということが現実にある。
これは結局、安倍首相のいう世界で一番企業が自由に活動しやすい社会を作るための秩序と考えられますから、君が代・日の丸を強要するという問題も、今の社会をどういう形で考えていくのかということと密接に結ぴついています。
◆ 天皇を主権者とする国民国家・国体のシンポルとしての君が代・日の丸
君が代日の丸を使って国民を統合していくというやり方がどういう形で明治期以降展開していって現在のような君が代・日の丸強要に結びついているのかを次に見ます。
例えば、一方では軍隊を魅力的に見せるために、「萌えミリ」というジャンルがあり、それを広告に使っている。「萌えよ陸自、萌えよ陸上自衛隊学校」というやつです。
だけど、陸上自衛隊は本当は恐ろしい軍事力が背後にある世界です。実は、矛盾というか、どっちなのかというジレンマがある。これは君が代日の丸の問題も同じです。
君が代日の丸を国民統合の手段として使おうというときにこのジレンマは深刻な問題になります。そもそも国旗や国歌がシンボルとして扱われるのは国民国家、いわゆる近代国家の一つの特徴です。
この国民国家というのは、主権、領土・領空・領海という主権の及ぶ領域を持っていて、国家の一員に位置付けられる国民を持っている。
ところがこの国民国家は自然に出てきたものではない。ナショナリティを持つ存在を人為的に作り出していくということがあって、国民国家ができる。
明治政府は、国民国家を作ろうとしたけど、その主権は国民でも人民でもなく、天皇を主権者とするという枠組みが作られた。
天皇を主権者とする国民国家の一員ということをどのように住民たちに納得させるかが非常に大きな課題であり、そのために様々な文化的手段を用いた。主権という言い方はその当時は取らなかったので、国家の在り方を日本に独特の国の在り方、国体という言葉で表します。
その日本の国体、他国にない優れた卓越性を備えているという主張を日本主義とよんでいます。日本主義のシンボルとして君が代・日の丸が1930年代には定着してその後頂点に行くことになります。
◆ 強制は弱点の表れ、尊厳を守るたたかいを
今、復古主義者にとっては、1930年代に定着させられた日の丸・君が代のそうした扱い方をもう一度やりたい、ということが間違いなく目標になっている。
ただ戦後の日本社会では上からの押しつけなしでは自発的に日の丸君が代を用いる社会文化は育っていない。押し付けざるを得ない体制には弱さがある。
どうしても歌えと強制しなくてはいけないというのは君が代・日の丸を国民の文化として利用する上では、大変大きな弱点です。それから国民主権の国家にふさわしい国旗や国歌とは何かと問われる危険性も持っている。
日の丸・君が代の強要によって国民主権の土台を覆い崩して特異な国家体制を作るのは大変に難しい。強制することを考えること自体が今の政権や体制の弱さである。
そういう意味で戦後憲法の理念は死んでいないし、死んでいないからこそ君が代強制に抵抗する人、米軍基地の不法に抗議する人、平和主義の実践に立ち上がる人、そういう人たちに対して、圧迫や攻撃を繰り返していく。
その人たちが精神の自由、自分たちの自由を獲得してつながることを恐れています。そう考えると自分の思っていることや考えていることを主張して社会に訴えていく様々な動きを私たちが大事にしてその中で、自分と他者の尊厳を守るために頑張らないといけない。
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース(リベルテ) 54号』(2019年1月26日)
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