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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

ニューヨークタイムズ:日本では展示されたことのないボストン美術館3.11写真展

2015年07月09日 | フクシマ原発震災
  =ボストン美術館=
 ◆ 福島第一原子力発電所事故 - 人間が生きていた世界を壊滅させた記録
(星の金貨プロジェクト)
ヴッキー・ゴールドバーグ / ニューヨークタイムズ 6月19日


荒木経惟氏

 巨大な自然災害が発生した後に、それらについて『芸術』写真を想像する行為には、どのような価値があるのでしょうか?
 報道写真は災害の恐怖を生々しく伝えました。
 それは『芸術』写真といえど、同じことでしょうか?
 『岩手にて : 3.11東日本大震災への反応』( http://www.mfa.org/exhibitions/in-the-wake
 ボストン美術館で開催中の17人の日本の写真芸術家による作品展は、もはや一連の報道が終わってしまった後、あえて開催されたものです。
 2011年3月11日に発生した巨大地震、残酷この上ないものとなった巨大津波の襲来、そしてそれを上回る惨禍をもたらした福島第一原発の事故発生と放射性物質の拡散について記録した彼らの作品は、こうした疑問について改めて考えさせると同時に、『報道終了後』というタイミングにあえて挑戦したものです。
 ここに集まったカメラマンの中にはすでに有名な人もいますが、他はこれから、あるいは今まさに注目を集め始めた人々です。
 ここに紹介された作品の中にはすでに様々な形で紹介されたものも含まれますが、日本国内では一同に展示されたことはありません
 その理由についてははっきりしたことは解りませんが、原子爆弾の犠牲者の記憶、あるいは福島第一原発事故の記憶が未だに生々しいということがあるのかもしれません。
 19世紀に写真というものが誕生して以来、人々は天災と人災、その両方の大災害に関する記録を残し続けて来ました。
 近いところでは9.11同時多発テロ、ハリケーン・カトリーナの被害を題材とした大規模な写真展がボストン博物館で開催されました。
 しかし見えない恐怖-放射線の恐怖=シュール、シンボリズム、比喩的表現を中心に据えた写真展はボストン博物館としても初めての試みになります。
 表向きこの写真展のテーマは2011年3月11日です。
 しかし、もっと深い場所に秘められた主題は恐怖、そして不安です。

 壁に掲げられた紹介文にはこう記されています。
 ここに展示されている100点近い作品は「3.11の記憶を永遠のものとするためのものである」
 荒井たかし氏の銀板写真法による作品は自身、『災害についてのミクロの記念碑』だと考えています。
 しかしそれぞれの人々にとって『3.11の記憶』は改めて展示された写真見るまでもなく、強烈であるに違いありません。
 なぜ今回展示された作品が『3.11の記憶』にとって重要な意義を持つのでしょうか?
 そのこんせぷとについて問題提起をしているのが、この展示会を企画したボストン美術館の写真部門の責任者であるアン・E・ハビンガ、そして日本の芸術作品部門の責任者を務めるアン・ニシムラ・モースです。
 7月12日まで開催されるこの展示会は多くの問題をはらんでいます。
 見た目にも美しい作品も数多くありますが、美学はこの際第一に考えるべきテーマではありません。
 展示場に入り最初に目に入るのは、記憶と記録を保管するという写真の役割の再確認とも言うべきものです。
 展示されているのは3.11の発生以前に撮影された、アマチュアたちが撮影した家族の写真です。
 これらの写真はすべて、3.11の被災地となった場所でがれきの中から拾い集められたものです。
 子供たち、カップル、イベント、風景写真…
 ひどく損傷し、中には写っていたものがほとんど消されてしまっているようなものもあります。
 3.11の犠牲者、そして被災地そのもののように…
 ここに写っていた人々は3.11の犠牲者となり、さらには写真まで失われてしまったのでしょうか?
 展示場をさらに入ると、3.11当日、日本のテレビ局が撮影したビデオを見ることが出来ます。
 そこに映し出される津波は村や町を丸ごとのみ込み、恐ろしい音を立てながら一瞬のうちにがれきと残骸に変えてしまいます。
 この展示会の災害のの写真が、専門家による演出とすばらしい現像技術に頼る芸術作品というだけなら、そこに見えるのは不条理な出来ごとを芸術的に表現した『混沌の世界』ということになるでしょう。
 説得力のある芸術作品というまとまった感想を持つことも出来るかもしれません。

 しかしここでのカメラマンたちはひとりひとり、まるで異なるイメージを展開しています。
 三好耕三氏の完全に破壊された村を撮影した白黒写真は意識的に客観的表現を指向し、あたかも人間の感情など入り込む余地のない程巨大なできごとが、避けることの出来ない形で襲ってくるかのようです。
 しかしそれほどの出来ごとであれば、人間の心は当然強く揺さぶられます。

 津波に襲われる前、畠山直哉氏は公開するつもりなどまったくないまま母が暮らしていた村の写真を撮影しました。
 東日本大震災によって母の命は奪われ、村は破壊されてしまいました。
 母が住んでいた家の上に虹がかかっている写真を始めとするこれらの写真は、今は別の意義を担って展示されています。
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 被災地の写真家、志賀れいこ氏は付近一帯すべてをのみこんだ津波からかろうじて逃れることが出来ました。
 彼女が展開するイメージと写真の技術は卓越したものです。
 ほとんどの作品は東日本大震災の発生以前に撮影されたものですが、その表現にはこの世の終わりを予感させるもの、あるいは想像させるものがあり、そして災害に対する思いが秘められているのを感じることが出来ます。
 一枚の写真の中で高齢の夫婦が逆さまになった、裸にされた木の幹と一緒に写っています。
 天地が逆になった木の根は、必死に手を振っているようにも見えます。
 木の幹は男性の体を突き通しているようにも見え、木も高齢の夫婦も不吉な赤い色をしています。
 目には見えないものの写真、それはいったいどうすれば撮影できるでしょうか?
 超現実主義的表現を用いて、全く異なるふたつのものを比較または関連付ける修辞技法によれば可能になるでしょうか?
 82歳の川田喜久治氏の作品は、血塗られたような部分皆既月食の月を背景に、不気味な暗い暁闇の中に福島第一原子力発電所を浮かびあがらせています。
 荒木経惟(のぶよし)氏は、傘をさして歩いている人々の様子を縦長の写真の中で表現しています。
 これは井伏鱒二の作品『黒い雨(原爆投下後に降った強い放射能を帯びた雨)』を暗示した世界です。
 武田慎平氏のパズルのような抽象的な写真は、よりはっきりと問題に答えに近づいたものです。
 黒い宇宙の中に巨大な星団と銀河が広がっているように見える写真は、福島の汚染された土を材料にして実際に作られたものです。
 この土の上に感光紙を一カ月間置いたままにして作られたのがこの写真です。
 汚染された土から発せられる放射線が、この宇宙のような造形を描き出したのです。

 この人間の目には見えないものの写真を撮る方法は、同じ1896年に、2人の物理学者によって発見され、両名共にノーベル賞を受賞しました。
 ウィルヘルム・レントゲンはこの年X線を偶然に発見しました。
 そして、アンリ・ベクレルはウラン塩から放射能を発見しました。

 ボストン美術館の今回の展示に関するカタログには、アーティストや科学者の中には、自分たちが感じているイメージを表現するために、手袋やキノコ、あるいは子供たちの靴を題材として使ったことを強調しています。
 武田氏の作品は、展示会における他の写真にも共通する疑問を投げかけています。
 すなわち、写真は世界共通の言葉で語りかけて来るものなのか?
 それとも固有の言語を理解する必要があるのか?

 博物館では誰もが理解できる共通の言語に対する、強い欲求があります。
 そのためには壁に掲示してある解説文、そしてカタログに掲載されている様々な情報が役立ちます。
 太田康介(やすすけ)氏の誰もいない町の中で、1羽のダチョウが困惑したように辺りを眺める姿をとらえた写真が、福島第一原発の事故で遺棄されたペットたちを救済するキャンペーンのための写真の内の一枚であることを解説しています。

 2人の写真家の作品は、原発事故の破壊の後の政治的状況、経済的状況がどういうものであるかを、写真を通して改めて認識させてくれます。
 展示されている中に川田氏の『地図』と題された不吉な感じの小さい写真本があります。
 これは1965年、高度成長期の日本において日々の生活が向上していくテレビの映像と、原爆によって廃墟にされた原爆ドームとを対比させたものです。
 潘逸舟(はんいしゅう)氏の作品は、破壊された福島第一原発の施設をぼかし、それを一円玉のグリッドで囲い込むことにより、原子力発電に国家経済を依存させている日本の状況を表現しています。
 かつて一度、より高い精神力を持つことによって、自然災害に打ち勝つことができると考えられたことがありました。
 しかし現在、自然災害がどういうものであれ、いちばん明らかになったことは政治というものがいかに盲目であるか、そして貪欲なものであるかということです。
 福島第一原発の事故は、これから何年も何年も放射線の脅威と向き合う事を強要しました。
 ボストン博物館に展示中の日本人カメラマンたちの作品は、その巨大な不安を一枚の小さな写真の中に詰め込みました。
 私たちはすでに数多くの福島第一原発事故や東日本大震災の写真を見てきました。
 今回展示されている写真は人々の心の中にあるはずの声、いつの日現実になるのを願っていること、ある種の感情や事実から受けた衝撃を癒すこと、そして大破壊を体験したその意味について再認識させてくれます。
 ここに展示されている写真は、3.11を体験したその意味について、もう一度考えることを私たちに求めているのです。
〈 完 〉
http://www.nytimes.com/2015/06/20/arts/design/review-japanese-photographers-reflect-on-the-fukushima-catastrophe.html?_r=0
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目の前に広がった3.11の惨状に突き動かされるようにして始めた【星の金貨】だったはずですが、その自分の中でも風化が進んでいることに複雑な思いをかかえています。
ひとつには3.11の後から現在まで、日本の政治のあまりの劣化ぶりに焦りにも似た感情に駆り立てられ、その危機感の方が大きくなっているから、ということがあるかもしれません。
民主主義が「蹂躙」されているとしか言いようの無い2015年の政治について、記事中にある通り、盲目の政治家たちが貪欲な政権運営をしていることに、3.11以上の危機を感じざるを得ません。
『星の金貨プロジェクト 前篇』(2015/7/4)
http://kobajun.chips.jp/?p=23756
『星の金貨プロジェクト 後編』(2015/7/6)
http://kobajun.chips.jp/?p=23884
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