◆ 予防訴訟8年に渡る闘いの意義と今後の取り組み
◆ 予防訴訟最高裁判決の内容とその意義
さる2月9日、最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)は、予防訴訟(国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟)に対し、弁論を開くことなく上告棄却の判決を言い渡しました。
判決は、10・23通達とそれに基づく校長の職務命令の違憲・違法性を否定しており、この点で不当判決といわざるを得ません。
が、現在、東京都が行っている累積加重システムが違法であることを前提に、控訴審の訴訟要件の判断を取り消し、「処分差止訴訟」「公法上の当事者訴訟として起立斉唱義務の不存在確認訴訟」を提起することが可能であることを明らかにしました。
このことは、予防訴訟のような訴訟提起の仕方が、政治や教育行政の暴走に歯止めを掛ける役割を果たし得ることを示しており、今、大阪などで起こっていることに対しても歯止めを掛ける役割を果たし得ることを示唆したものとして、大きな意義があると考えます。
また、今回の判決は、宮川裁判官の説得力ある反対意見が付されるとともに、多数意見の裁判官の内、3名が補足意見を書いており、その中で、現在の累積処分が繰り返される事態を速やかに解消することを求めている点でも、異例ともいえる内容をもっております。
◆ 多数意見の内容と問題点
次に、判決内容の憲法論について、具体的にみてみますと、多数意見は、さる平成23年6月6日付け最高裁第一小法廷判決判決等を引用し、起立斉唱行為は、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含み、思想・良心の自由の間接的な制約となるが、制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるとの判断を示しております。
これは、起立斉唱行為は、思想、良心の自由の保障の範疇に入るものでないとしたピアノ伴奏拒否事件最高裁判決の多数意見の内容を若干変えるものですが、なお、思想、良心の自由を憲法で保障する意義についての認識が弱く、なお、克服すべき課題がここにあることを示しています。
また、多数意見は、教育の自由侵害となるか、また、教育基本法で禁止される「不当な支配」に当たるかについても、上告理由、上告受理申立理由に当たらないとして、真正面から判断しておりません。この点も、本件の高裁判決が教育の自由違反の有無について具体的に判断していることからしても極めて問題があると言わざるをえません。
◆ 宮川裁判官の少数意見の持つ意義
この点に関し、宮川裁判官は、本事件の特質と捉えた上、以下のように述べております。
(1)思想・良心の自由侵害となるかについて
・本件は少数者の思想及び良心の自由に深くかかわる問題である。
・その行為は、第一審原告らの思想及び良心の核心の表出であるか、少なくともこれを密接に関係しているとみることができる。したがって、その行為は第一審原告らの精神的自由にかかわるものとして、憲法上保護されなければならない。第一審原告らとの関係では、いわゆる厳格な審査基準の対象となり、その結果、憲法19条に違反する可能性がある。
・学習指導要領の国旗国歌条項は、起立斉唱行為を職務命令として強制することの根拠とするのは無理であろう(学テ判決)
・内心の自由告知を行い、式典は一部の教職員に不起立不斉唱行為があっても支障なく進行していた。こうした事態を、本件通達は一変させた。本件通達は、式典の円滑な進行を図るという価値中立的意図で発せられたものではなく、その意図は、前記歴史観等を有する教職員を念頭に置き、その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにある。
(2)教育の自由について
第一審原告らは、地方公務員であるが、教育公務員であり、一般行政とは異なり、教育の目標に照らし、特別の自由が保障されている。
すなわち、教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重ししつ、幅広い知識と教養を身につけること、真理を求める態度を養うこと、個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自立の精神を養うこと等の目標を達成するよう行われるものであり(教育基本法2条)、教育をつかさどる教員には、こうした目標を達成するために、教育の専門性を懸けた責任があるとともに、教育の自由が保障されているというべきである。
もっとも、普通教育においては完全な教育の自由を認めることはできないが、公権力によって特別の意見のみ教授することを強要されることがあってはならないのであり、他方、教授の具体的方法及び内容についてある程度自由な裁量が認められることについては自明のことであると思われる(旭川学テ大法廷判決)。
(3)本事件の解決にむけて
こうでなければならない、こうあるべきだという思い込みが、悲惨な事態をもたらすということを、歴史は教えている。国歌を斉唱することは、国を愛することや他国を尊重することには単純に繋がらない。国歌は、一般にそれぞれの国の過去の歴史と深い関わりを有しており、他の国からみるとその評価は様々でもある。また、世界的にみて、入学式や卒業式等の式典において、国歌を斉唱するということが広く行われているとは考えがたい。思想の多様性を尊重する精神こそ、民主国家の存立の基盤であり、良き国際社会の形成にも貢献するものと考えられる。
幸いにして、近年は式典の進行を積極的に妨害するという行為はみられなくなりつつある。そうした行為は許されるものではないが、自らの真摯な歴史観等に従った不起立行為等は、その行為が式典の円滑な進行を特段妨害することがない以上、少数者の思想の自由に属することとして、許容するという*寛容が求められていると思われる。関係する人々に慎重な配慮を心から望みたい。
◆ 今後の取り組みについて
上記のような少数意見を多数意見にしていくことが今後の課題ですが、上記のような少数意見を獲得したこと自体、予防訴訟の8年にわたる闘い意味を示しております。
予防訴訟は、今回の最高裁判決をもって8年余に渡る闘いに幕を閉じることになりますが、この8年余にわたる闘いは、都教委の暴走に歯止めをかけ、学校に自由を取り戻すため、403名(最高裁段階では375名)もの教職員が一人ひとりの判断で訴訟を提起することを決意し、思想・良心の自由、教育の自由を保障を求めて闘い、その間には、10・23通達とそれに基づく校長の職務命令が思想、良心の自由の侵害となるとともに、教育基本法10条で禁止される「不当な支配」に当たり違法であるとする画期的判決(難波判決)を勝ち取るなど貴重な成果もあげつつ、闘い続けたこと自体、この国に現行憲法と民主主義を根付かせるため、重要な役割を果たしたといえます。
残念ながら、今なお、10・23通達体制が続いていることを踏まえますと、今後の取り組みとしては、最高裁補足意見の趣旨に従い、10・23通達体制に風穴を開け、思想・良心から国歌を歌えないと考える人でも処分されることなく、安心して卒業式に参加できる仕組みを作っていくことが急務であると思われます。
ぜひ、今後の取り組みについて、いっしょに検討していきましょう。
『おしつけないで』(2012/2/25 64号)
弁護士 加藤文也
◆ 予防訴訟最高裁判決の内容とその意義
さる2月9日、最高裁第一小法廷(宮川光治裁判長)は、予防訴訟(国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟)に対し、弁論を開くことなく上告棄却の判決を言い渡しました。
判決は、10・23通達とそれに基づく校長の職務命令の違憲・違法性を否定しており、この点で不当判決といわざるを得ません。
が、現在、東京都が行っている累積加重システムが違法であることを前提に、控訴審の訴訟要件の判断を取り消し、「処分差止訴訟」「公法上の当事者訴訟として起立斉唱義務の不存在確認訴訟」を提起することが可能であることを明らかにしました。
このことは、予防訴訟のような訴訟提起の仕方が、政治や教育行政の暴走に歯止めを掛ける役割を果たし得ることを示しており、今、大阪などで起こっていることに対しても歯止めを掛ける役割を果たし得ることを示唆したものとして、大きな意義があると考えます。
また、今回の判決は、宮川裁判官の説得力ある反対意見が付されるとともに、多数意見の裁判官の内、3名が補足意見を書いており、その中で、現在の累積処分が繰り返される事態を速やかに解消することを求めている点でも、異例ともいえる内容をもっております。
◆ 多数意見の内容と問題点
次に、判決内容の憲法論について、具体的にみてみますと、多数意見は、さる平成23年6月6日付け最高裁第一小法廷判決判決等を引用し、起立斉唱行為は、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含み、思想・良心の自由の間接的な制約となるが、制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるとの判断を示しております。
これは、起立斉唱行為は、思想、良心の自由の保障の範疇に入るものでないとしたピアノ伴奏拒否事件最高裁判決の多数意見の内容を若干変えるものですが、なお、思想、良心の自由を憲法で保障する意義についての認識が弱く、なお、克服すべき課題がここにあることを示しています。
また、多数意見は、教育の自由侵害となるか、また、教育基本法で禁止される「不当な支配」に当たるかについても、上告理由、上告受理申立理由に当たらないとして、真正面から判断しておりません。この点も、本件の高裁判決が教育の自由違反の有無について具体的に判断していることからしても極めて問題があると言わざるをえません。
◆ 宮川裁判官の少数意見の持つ意義
この点に関し、宮川裁判官は、本事件の特質と捉えた上、以下のように述べております。
(1)思想・良心の自由侵害となるかについて
・本件は少数者の思想及び良心の自由に深くかかわる問題である。
・その行為は、第一審原告らの思想及び良心の核心の表出であるか、少なくともこれを密接に関係しているとみることができる。したがって、その行為は第一審原告らの精神的自由にかかわるものとして、憲法上保護されなければならない。第一審原告らとの関係では、いわゆる厳格な審査基準の対象となり、その結果、憲法19条に違反する可能性がある。
・学習指導要領の国旗国歌条項は、起立斉唱行為を職務命令として強制することの根拠とするのは無理であろう(学テ判決)
・内心の自由告知を行い、式典は一部の教職員に不起立不斉唱行為があっても支障なく進行していた。こうした事態を、本件通達は一変させた。本件通達は、式典の円滑な進行を図るという価値中立的意図で発せられたものではなく、その意図は、前記歴史観等を有する教職員を念頭に置き、その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにある。
(2)教育の自由について
第一審原告らは、地方公務員であるが、教育公務員であり、一般行政とは異なり、教育の目標に照らし、特別の自由が保障されている。
すなわち、教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重ししつ、幅広い知識と教養を身につけること、真理を求める態度を養うこと、個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自立の精神を養うこと等の目標を達成するよう行われるものであり(教育基本法2条)、教育をつかさどる教員には、こうした目標を達成するために、教育の専門性を懸けた責任があるとともに、教育の自由が保障されているというべきである。
もっとも、普通教育においては完全な教育の自由を認めることはできないが、公権力によって特別の意見のみ教授することを強要されることがあってはならないのであり、他方、教授の具体的方法及び内容についてある程度自由な裁量が認められることについては自明のことであると思われる(旭川学テ大法廷判決)。
(3)本事件の解決にむけて
こうでなければならない、こうあるべきだという思い込みが、悲惨な事態をもたらすということを、歴史は教えている。国歌を斉唱することは、国を愛することや他国を尊重することには単純に繋がらない。国歌は、一般にそれぞれの国の過去の歴史と深い関わりを有しており、他の国からみるとその評価は様々でもある。また、世界的にみて、入学式や卒業式等の式典において、国歌を斉唱するということが広く行われているとは考えがたい。思想の多様性を尊重する精神こそ、民主国家の存立の基盤であり、良き国際社会の形成にも貢献するものと考えられる。
幸いにして、近年は式典の進行を積極的に妨害するという行為はみられなくなりつつある。そうした行為は許されるものではないが、自らの真摯な歴史観等に従った不起立行為等は、その行為が式典の円滑な進行を特段妨害することがない以上、少数者の思想の自由に属することとして、許容するという*寛容が求められていると思われる。関係する人々に慎重な配慮を心から望みたい。
◆ 今後の取り組みについて
上記のような少数意見を多数意見にしていくことが今後の課題ですが、上記のような少数意見を獲得したこと自体、予防訴訟の8年にわたる闘い意味を示しております。
予防訴訟は、今回の最高裁判決をもって8年余に渡る闘いに幕を閉じることになりますが、この8年余にわたる闘いは、都教委の暴走に歯止めをかけ、学校に自由を取り戻すため、403名(最高裁段階では375名)もの教職員が一人ひとりの判断で訴訟を提起することを決意し、思想・良心の自由、教育の自由を保障を求めて闘い、その間には、10・23通達とそれに基づく校長の職務命令が思想、良心の自由の侵害となるとともに、教育基本法10条で禁止される「不当な支配」に当たり違法であるとする画期的判決(難波判決)を勝ち取るなど貴重な成果もあげつつ、闘い続けたこと自体、この国に現行憲法と民主主義を根付かせるため、重要な役割を果たしたといえます。
残念ながら、今なお、10・23通達体制が続いていることを踏まえますと、今後の取り組みとしては、最高裁補足意見の趣旨に従い、10・23通達体制に風穴を開け、思想・良心から国歌を歌えないと考える人でも処分されることなく、安心して卒業式に参加できる仕組みを作っていくことが急務であると思われます。
ぜひ、今後の取り組みについて、いっしょに検討していきましょう。
『おしつけないで』(2012/2/25 64号)
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