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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

アベを倒そう!(95)<戸坂潤の『道徳の観念』第三章から>

2016年04月12日 | 日の丸・君が代関連ニュース
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 ▲ 戸坂潤の『道徳の観念』第三章は、「道徳に関する社会科学的観念」です。
 ここで戸坂は、主に、
  ・ヘーゲルにおける道徳の取り扱い方を紹介・批判、
  ・社会科学(史的唯物論)に基づく道徳のとらえ方、
 を展開しています。
 戸坂は冒頭、次のように述べます。
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 すでに見たように、道徳というものが日常生活・日常常識にとってまず第一に意識される形は、一種の外部的な強制力としてであった。
 これは原始人について最もよく見られるところだ。・・この感じ自体がこの際の原始的な道徳観なのである。
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 そうして、
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 ・・ところが道徳についての観念がもう少し進歩すると(・・・)、道徳は
 単なる社会的強制ではなくて、さらに強制される自分の主観自身が
 その強制を是認する、という点にまで到着する。この時初めて、
 道徳についての本当の価値観が成り立つのである。・・・
 ・・こうして良心とか善性とかという主観的な道徳観念が発生する。
 いわゆる「倫理学」は、こうした主観的な道徳観念を建前とする段階の
 常識に応ずるとことの、道徳理論だったのだ。
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 しかし、彼は次のように述べています。
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 ・・道徳は主観の心情に求められるのではなくて、社会的強制そのもの
 のもつ神的または理性的な意義根拠の方向に求められる。・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・倫理学は社会理論と不可分に結びついているはずである。・・・
 ・・倫理学はもはや単なる倫理学ではなくて、実は同時に社会理論でも
 なければならなくなってくる。
 ・・・
 したがって道徳の倫理学的観念は道徳の社会学的観念にまで接触し、
 やがてこれへ移行する。・・・実はまたこれが、ホッブスから(カントを通って)
 ヘーゲルを経、さらにマルクス・エンゲルスに至る社会科学的道徳理論の発展をも物語っているのだ。
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 そうして、ヘーゲルによって道徳がどのように取り扱われたかが説明されます。
 ここには、戸坂潤の力量が発揮されていますが、少し煩雑になりますので、その中からいくつか紹介します。
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 市民社会はすなわちブルジョア社会のことにほかならぬ。
 これはいわばヘーゲルが発見した範疇であって、彼はこの内容の内に、
 需要・労働・財産・身分・司法・警察・等々のすべての重要観念を
 忘れてはいない。そして特にヘーゲルの炯眼(けいがん)は、
 これを国家から区別したことだ。
 かくて国家が第三の習俗性=人倫の段階となる。
 (渡部注:第一段階は家族、第二段階は市民社会)
 ヘーゲルは国家の規定として単に国法ないし憲法のみならず、
 最後に世界史を置くのであるが、世界史とは民族精神の統一的な 
 歴史にほかならない。国家は習慣風俗人情を共通にする民族を離れてはかんがえられないことになっている。
 だからそれが習俗性=人倫の最高段階だと考えられるのはもっともだろう。
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 ・・ヘーゲル体系の弱点は、その方法(弁証法)とそれの使用の客観的な
 必然性とにかかわらず、一つの封鎖された閉じた体系を与えようと欲する
 ところに存する。その一例はヘーゲルの国家の概念であって、
 当時の現実のプロイセン的国家の諸規定が、ほかならぬ国家のイデ―に
 されてしまっているのも、体系が現実に終りに到着できると考えた
 その有限的な弁証法(有機体説的全体説)の形式のおかげだが、
 こうした有機体説的弁証法を採用させたのはまた、
 彼の愛好した体系なるものの性質の欠点からだ。
 この観念論的体系が、その弁証法という方法をも、観念的なものたらしめた。
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 戸坂は、この後、次のようなことを述べています。
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 ヘーゲルの『法の哲学』を系統的に批判しようとした者は
 ほかならぬ初期のK・マルクスであった。・・・
 社会科学的な道徳理論の原則ないし方法である史的唯物論は、
 『ドイツイデオロギー』をもってその基本的な労作とする。
 ーーだが実は、社会科学ないしマルクス主義による道徳問題プロパー(固有)
 に関する文献は、きわめて乏しいことを告白せねばならぬ。
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 そうして以下、彼自身の見解を展開します。
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 さて道徳を社会の自然史の立場から科学的に説明しようとすると、
 これは一つのイデオロギーにほかならなぬものとなる。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・イデオロギーとは、社会における物的根底の歴史的発展を原因として
 生じた歴史的結果であり歴史的一所産にすぎないわけだから、
 通俗常識が道徳という観念で何より頼みにしていた道徳のあの絶対性は、
 道徳が一つのイデオロギーだというただ一つの言葉で、
 根底から揺らぎ出すのである。
 社会科学的道徳観念が最初から通俗常識ないしブルジョア倫理学による
 道徳観念を超克している点は、いうまでもなくここにあるのだ。
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 ・・社会規範は社会の生産機構ないし生産関係からの、
 いわば物質的な歴史的所産にほかならない。
 一切の生産様式は、社会規範となることによって初めて、
 人間の社会生活を、人間の社会における生産生活を観念的に統制しうる。
 社会規範は生産様式の反映だ。ーーたとえば殺人行為について考え見てもよい。
 古代奴隷制以前の社会では、捕虜は皆殺されることになっていたらしい。
 ところが奴隷労働力が社会の生産力として充用されるような生産様式すなわち
 (奴隷制)になると、捕虜を奴隷にする代わりに殺してしまうことは、禁じられる。
 殉死は往々最高の道義的殉情の発露だと説明されるが、
 これは家臣という奴隷が一つの私有財産であったという所有関係
 (生産関係の直接の表現)を示すにほなならぬ。
 姥捨山は不生産的な労働力を維持するだけの労働営養(食物)の
 過剰のない生産組織のある時期に起きる。
 それから、帝国主義戦争における敵の殺戮は倫理的命法にぞくするだろう、等々。
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 自由意志や価値感情という事実を証明しようとしたいかなる観念論者も
 理想主義者も私は知らない。
 と同時に彼らはこうしたものを説明しようともしないのが特徴である。
 彼らは単にこれを事実として認めることを人に求める。
 しかもそうすることを何かその証明か説明かと思い違いをしているので、
 唯物論者に向かっても、できるものならこの事実を証明して見たらどうか、
 と試みてくる。
 だが史的唯物論は事実の証明などを必要とはしない、
 事実は認定されさえすればよい
 必要なのはこの事実の成立の「説明」なのだ。
 ・・・史的唯物論は価値の発生を事実から説明するのである、
 これに反して観念論や倫理学は、価値によって事実を説明するか、
 それとも単に価値と事実とを区別して見るだけだ。
 ――で道徳は、社会規範として説明される。
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 ・・一定の社会規範の物質的原因であった社会における生産関係は、
 その内に含まれている矛盾の関係に推されて、変化せざるをえない。
 したがってその結果、道徳もまた必然的に変化せざるをえないのである。
 ただ、原因の変化に較べて結果の変化のほうは、大体時間的におくれるもので、
 道徳と現実とはその意味でいつもある種の矛盾撞着を免れない。
 そういう意味でまた、道徳はそれ独自の運動法則をもっているかのような
 現象を呈するのである(イデオロギーはすべてそうだ)。
 道徳の世界の絶対的な自立独立を認めようとするのも、
 この関係を誇張する結果からだ。
 だから道徳(道徳律・善悪・その他等々)は決して絶対真理ではない
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 そうして戸坂は次のように述べています。
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 だが道徳が、その実質であるイデオロギー・社会規範、としてではなく、
 絶対的真理として持ち出されるのを常とすることには、一つの事情があるのである。
 社会の支配者がその社会の規範をあくまで保持しようとするところに、
 道徳という言葉の御利益が必要なのである。
 つまり道徳が現実にそうした階級規範(もはや単なる社会規範ではない)
 として機能していればいるほど、ますます社会規範は単に社会規範として
 ではなくてまさに道徳として神聖化され絶対化される必要があるわけで、
 ただの社会規範ならば、道徳がそういう社会規範だという説明を、
 そんなに恐れる必要はなかっただろう。
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 それでこういう結論になる。
 社会が階級社会である限り、道徳とは階級規範にほかならない
 これが階級道徳ないし道徳の階級性ということである。
 そして社会の階級的変動(社会のすべての根本的変動は階級的変動に
原因する)は、この階級規範たる道徳の変革を必然的に結果する、という結論だ。
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 かくて社会科学的観念によれば、道徳なるものは、
 この通俗常識が好んで仮定している道徳なるものは、
 ついに批判克服されて無に帰する
 (ブルジョア)常識的観念ないし(ブルジョア)倫理学的観念としての道徳は、
 科学的でなかった。「道徳」は消滅する。「道徳」は終焉する。
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次回は、<第四章 道徳に関する文学的観念>です。

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 ★ 『卒業式ビラまき報告集会』(実行委員会主催)のお知らせ
 <日時>2016年4月30日(土)18:30~21:00
 <場所>阿佐ヶ谷地域区民センター、第五集会室
 <内容>・卒業式ビラまきの特徴と教訓について
      ・今後の運動の発展について
 <資料代>300円

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