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【佐々木論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<1>

2010年10月26日 | 人権
 【佐々木論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<1>
花輪紅一郎(第3次訴訟原告)

 佐々木論文は「人権」論と称しつつ、不可侵とされる「思想・良心の自由」を、公権力がどのようなやり方でどこまで侵害して良いか、の理論化を試みたものであって、「人権」論ではなく、「公権力」論である
 前回は、佐々木氏が「自由権」と「身勝手」の区別がついていない点、「公共の福祉」と「公権力」を同一視している点の、根本的な誤りを指摘した。引き続き、「人権相対論」、「外面的行為論」、「社会権としての教育の意味」の逆立ちした人権論を批判したい。
 1,人権は絶対的なものである
 (1)佐々木弘通氏は人権を相対的なものと言う

  <社会的利益との微調整を必要とする。その意味で、本稿のいう「人権」は、絶対的権利ではなく相対的権利である。>(p17)
  <既述のように、本稿のいう「人権」論が、現実生活のなかで具体的個人が実践しうる自由の領域を実き止めようとする思考である限り、基本的にはそれは絶対的な規範としては語りえず、常に社会秩序との調整に服すべきものだと考えられる。>(p33)

 これは常識的に間違いだろう。憲法で「不可侵」(11条、97条)と規定される、人類普遍の原理の「人権」を、どうしていとも簡単に「相対化」してしまえるのか。
 国際社会で人権を制約できる原理は「明文化された立法」のみである(ICCPR18条)。日本の憲法では明文化されていないので曖昧ではあるが「公共の福祉」概念だけである。それ以外にはない。
 佐々木氏が持ち出す「社会的利益」や「社会秩序」はそのいずれにも該当しない。俗に言う「迷惑論」らしいが、その程度では人権の制約原理にはなり得ない
 前稿での指摘の繰り返しになるが、「掃除当番をやらない自由」や「授業中の私語」は、学校現場では権利とは見なさない。ただの王様のわがままである。「権利=right」「身勝手」をごっちゃにする結果、佐々木氏は不可侵な「権利」をいともたやすく公権力の侵害にさらしてしまうのである。
 同時に、「迷惑」を規制する強制力は「公権力」であっても、「人権」を制限する資格は「公権力」ではない「公共の福祉」(他者の人権との衝突)にしかないことも、繰り返し指摘しておかなければならない。
 人権は、すべての人間に固有の「前国家的権利」であって、国家は「明文化された立法」による場合以外は、みだりに個人の自由を侵してはならない。ただし、他人の権利を侵害する行為や反社会的な迷惑行為は「自由権」とは呼ばないのである。
 (2)世界人権宣言第30条の読み方
 人権の誤用(勘違いやすり替え)は国際的・歴史的に珍しいことではない。だから、『世界人権宣言』では末尾第30条に「権利」についての留意事項が記されている。同趣旨の条文は、条約化された『国際人権A規約』の第4条、『同B規約』の第5条にも記されている。要約すれば、「他人の権利を侵害するような反社会的行為(犯罪や迷惑など)を『権利=right』とは呼ばない」ということである。
 なぜこの条項があるかと言えば、勘違いして際限なく「個人の自由」を主張する心得違いの人間がいつの時代にもどの社会にも必ず存在する。それどころか社会全体が勘違いして、「権利」の名において自由のない社会を登場させてしまったこともあるからである(ナチスの「全権委任法」などの例)。いかに人権が普遍的で固有のものであっても、無制限、身勝手であることは許されない。「君を殺す私の自由」「無免許で車を運転する自由」「1日12時間の労働契約に同意しなければ雇わない自由」・・・こんな自由は権利とは呼ばない。
 佐々木氏は、「権利とは呼ばない反社会的身勝手」を引っ張り出してきて、公権力が制約を加えないと秩序が乱れる(犯罪を警察が取り締まるように)と、問題をすり替えているだけであって、本物の権利は警察が取り締まることの出来ない不可侵なものなのである。
 人権は、絶対的なものである。ただし、「無制限」ではありえないというだけである。その場合誰がどこまで制限出来るかは、前稿で指摘した通り『A規約』18条に明文化されている範囲限りであって、公権力と言えども勝手に制約できるものではないのである。
 2,「外面的行為」とは何か
   ~公権力の介入を正当化する非学問的用語


 人権が相対的なら、公権力の介入がたやすくなる。その正当性を理論化するために持ち出されるのが、人権論には耳慣れない「外面的行為」という用語である。
 佐々木氏は、「思想・良心」を侵害する一つのパターンに<「内心に有るものに反する外部的行為の強制」(p22)>がある、とする。この言葉から、公権力の介入が以下のように正当化されていく。
 (1)公権力による内心に対する「強制」の類型

 ①「意図型(X)」と「非意図型(x)」

 まず「外部的行為の強制」を、公権力が当初から人権侵害を意図したもの(X)か、別に意識していないもの(x)かの2つに分けて、後者は被害者が立証しない限り正当な統治行為とする。被害者が「身勝手」かも知れないからである。
 しかし侵害される側にとって、相手が意図的か非意図的かを問わず、結果として苦痛や不利益が生ずれば、それが差別である。「意図しなかったから」で免罪されれば、差別が野放しになるだろう。
 審査の基準は、被害者の主張が「人権なのか、身勝手なのか」でなければならないのに、佐々木氏は加害者に「意図があったか、無かったか」にすり替えてしまっている。
 この第一歩が大きな誤りである。佐々木氏は個人の権利主張は「身勝手」かもしれないと疑うのに、国家の「非意図型(x)」=正当な統治行為として、疑うことなく簡単に免罪してしまう。彼の思考は人権の側には立っていない。
 ②「自発的行為の強制(Y)」と「外面的行為の強制(y)」
 正当な統治行為として肯定される「非意図型(x)」は、次に強制される側に自発的行動(Y)を求めているか否か(y)で2つに線引きされる。彼は、19条で保障される「思想・良心」を自発的なものだけに限定してしまう。
 「外面的行為(y)」とは、<「自発的行為」ならざるそうした性格(注:当人の自発性に基づいていなくてもその行為が現実に行われること自体に価値がある)の外部的行為を「外面的行為」と呼び>(p46)、と定義づけられている。
 自発的でないという理由で、この「外面的行為の強制(y)」は、<非常に強い公共目的が存在する場合には、この限りではない>(p48)として、条件付きで「公権力の介入」が許される場合があるとする。
 それでは「公共目的」さえ存在すればどんな場合でも介入が許されるのか、また当該行為が「自発性」に基づくか否かは誰がどのようにして審査するのか。(y)はさらに細分化される。
 ③「内心の深いレベルでの衝突(Z)」と「それ以外(z)」
 「外面的行為の強制(y)」は、さらにZとzに分類される。そして「内心の深いレベルでの衝突(Z)」以外は、憲法19条の保障外だと結論づけられる。なぜなら、「身勝手」な主張が社会秩序を乱すかも知れないから、周りを納得させる「深さ」の証明が不可欠だとするのだ
 以上の分類から、公権力の介入が許されるのは、x-y-zが揃った時だけとなる。一見すると狭そうに見える。
 ところが現実には、思想良心の主体である個人の側から見ると、x-y-zを自らの責任で公に(裁判所に対して)証明しなければならないとなると、概念の曖昧さと労力の大きさから、思想良心の保障を主張することは極めて至難なことになってしまう。まして「自発的(Y)」か「外面的(y)」かは、当人の意志を離れて、裁判所等に「客観的」に判断されてしまうという。即ち、人権保障の門は極めて狭められててしまっている
 「思想・良心」は、自発的なもので、かつ深いものしか認めず、その適否は、明文化された立法によることもなく、裁判官の判断に委ねてしまう。まるで、公権力が許可した自由だけありがたく頂戴しなさい、のようなこんな傲慢な人権論があるだろうか。(くどいようだが、自由権とは、個人に固有の前国家的権利である。)
 ④「義務免除」という逆立ち表現
 佐々木氏は人権をまるで「反社会的」行為のようにみなす。
  <あまりに広く義務免除を承認していくと、国家の統治活動じたいが成り立たなくなる>(p48)
 世界中のすべての人間に固有で普遍的な権利である「思想・良心の自由」を、「例外的な特定個人の特権」に矮小化してしまう、逆立ちの「キーワード」が「義務免除」という言葉の使い方だ。
 佐々木氏は「権利の保障」「義務免除」と言い換えているに過ぎない。だがこの言い換えは全く別の意味になる。
 これだと、義務が先にあって、公権力が免除を認めた領域に後から権利が発生するという順番になる。しかし、不可侵なのは「義務」ではなく「基本的人権」ではなかったのか。権利とは、権力のお目こぼしのことではない。彼は人権の視点ではなく、権力の視点に立って考えている(要は「身勝手」と「権利」の区別ができていないだけだが)。
 「義務免除」のこのような使用は、学会では当たり前なのだろうか。まして、国際社会で通用する使い方なのだろうか。義務の方を不可侵とする立場からは、権利は国家のお目こぼしという逆立ちした法理論が生まれてしまう。
 (続)

【佐々木弘通論文は国際社会では通用しない半可通の人権論(続)】<2>
http://wind.ap.teacup.com/people/4569.html

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