=学ぶ会だより「ようこそ教科書の舞台裏へ」アジア太平洋戦争への思い その11=
★ 日本軍と戦時国際法
高嶋 道(元中学高校教員)
★ 病院への襲撃
シンガポールのアレクサンドラ病院は、イギリスが1938年に陸軍病院として設立しました。この庭園に円柱型の記念碑があります。そこには、1942年2月14日、日本軍が病院を襲撃し、多くの人が犠牲になったと刻まれています。
日本軍は攻撃理由を、病院の敷地内からインド兵が発砲したからとしています。
日本軍に対し、白旗をあげて中尉が降伏を告げようとしたのですが、即座に殺害されたと伝えられています。
日本軍は、病棟と手術室などに押し入り、銃剣で刺したり小銃で撃ったりして、殺害を翌日まで続けました。職員、軍医、看護士、傷病兵ら200人が犠牲になりました。
運良く逃げて命拾いした人たちがこの惨劇を証言したことで、日本軍の蛮行が知られ、怒りと恐怖がたちまち広がりました。
翌15日、この日は中国暦の正月でした。日本軍は、シンガポールを陥落させ勝利に酔いしれました。
16日、牟田口廉也師団長が病院に出向き、謝罪をしたとのことですが、記録がなく、詳細はわかりません。
その意図は何だったのでしょうか。「病院襲撃」をした日本軍への怒りと不信と不安が一挙に広まり、今後の統治に不都合だと考えたからでしょうか。
また、ジェネラルホスピタルでも、赤十字の標章を掲げているにも関わらず、日本軍の襲撃を受けて100人ほどが殺害されました。いずれも戦時国際法違反です。
★ 偽装した病院船
アジア太平洋戦争の初期、明らかに戦時国際法を無視した日本軍ですが、「病院船は保護される」というルールを悪用したため、歩兵一聯隊全員が捕虜になった大事件があります。
戦争末期の橘丸事件です。
橘丸は、本来は東京と伊豆諸島を結ぶ東海汽船の民間船でしたが、戦時中に日本軍に徴用され、病院船として登録されていました。
制海権も制空権も失っていた日本軍は、当時オーストラリアの北方の島々に分散していた部隊の兵士をシンガポールに集結させ、体制を整えるための命令を出しました。
多くの部隊が小舟で夜の闇に紛れて島づたいに移動しましたが、効率が悪い方法でした。その結果、航海可能な大型の病院船橘丸を悪用することになったのです。
7月28日に昭南港(シンガポール港)を出航した橘丸は、ケイ諸島で広島歩兵第11聯隊の兵士1562人を乗船させ、8月1日に出港しました。
兵士には白衣を着せて傷病兵を装わせ、それぞれ偽のカルテをあてがいました。
兵士はカルテの人物を演ずるよう指示されました。武器や弾薬は船底に隠し、薬箱とみせかける梱包がされていました。
わずか2日後の8月3日、アンポン島付近でアメリカ軍駆逐艦の検査を受け、偽装した部隊であることが露見したのです。国際法違反のため拿捕され、全員が捕虜となりました。
実は、日本軍の一連の動向を、アメリカ軍は、暗号を解読し、すでに察知していたのです。
橘丸はマニラに曳航され、数日後の15日には敗戦となりました。
1500人を超える大人数が一度に捕虜になったのは大失態で、陸軍史上最大の汚点として語り継がれていますが、国際法違反についてはそれほど恥じていません。
船中に積んでいた書類は没収され、敗戦時に全軍に命じられた焼却処分を免れました。やがて1958年に日本に返還されたそれらの中にあった公式文書『陣中日誌』によって、マレー半島での住民虐殺という国際法違反行為がまた確認されることになりました。
日本軍の国際法違反行為は、底なしだったのです。
子どもと学ぶ歴史教科書の会『つどいの樹 第14号』(2023年12月1日)
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