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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

都立高校の今 混沌と矛盾

2010年09月16日 | 暴走する都教委
 【都立高校の今】(応援する会通信より)
 ◎ 混沌と矛盾
K・A

 都立高校の今を書いてほしいという。いずれ混沌と矛盾に満ちた文章になるには違いない。今の私の内面が混沌と矛盾以外の何物でもないのだから。こうして文章を綴ることが矛盾を解く緒になってくれればよいのだが…。しかし、どこからはじめようか。
 私はいわゆる被処分者である。それも一度ならず二度も処分を受けている。この通信を愛読しておられるような方なら、おそらくは共感し、拍手さえしてくださるだろう。実際、処分発令や再発防止研修の際、水道橋の研修センター前に詰め掛けた多くの「支援者」の方々から、盛大な拍手や励ましのシュプレヒコールをいただいた。私はといえば、有難いと思う反面、正直に言えば面映く、いたたまれない思いだった。…私は何もしていない。そう、文字通り何もしていないのに。
 最初の処分からもう6年以上が経つ。人事委員審理や裁判闘争も最初のうちは興味深く、単純に面白くもあった。今では、裁判や集会にも足は遠のき気味だ。怒りを持続させるのはエネルギーがいる。何より、特別なことをしたわけでもないのにいつのまにか闘う使命を負わされているのがどうにも納得いかない。
 弁護士は言う。「始めた以上は勝たなければならない。皆さんはフロンティアとして後進の為に道を開く義務がある。」……冗談じゃない。後半生すべてに匹敵するような長い時間と、膨大な労力と、少なからぬ費用をかけて、闘い続けなければならないというのか。弁護士の口吻は、そのくらいの覚悟がないならいっそ不起立などするなとでも言わんばかりなのである。これでは、組合執行部主流派を支持する連中が口々に言った、「自己責任論」とちっとも変わらない。これから不起立しようとする人(妙な言い方だが)にはとんでもなく高いハードルになってしまうのではないか。
 自分の「内心」を守るために、ただ座っていることが、こんなにおおごとになるとは6年前には思ってもいなかった。私は、誰でも気軽に自分の内心を表現できる、そういう職場環境を作りたかっただけだ。今となってはそれも夢なのだろうが。
 その職場は今、どうなっているか。この通信にもタイムズ関連の話題が毎号のように掲載されている。無論、コンピュータ端末は道具だし、それだけで職場のありようが一変することなどありえない。しかし、たとえば、昨年まで手書きのペン書きで、管理職から面接で何を指摘されても訂正しないという態度で臨んでいた自己申告書が、今年はタイムズを使ってサーバーに「登録」しなくてはならなくなった。まず仮登録し、それを見た校長の許可をもらってからはじめて正式に登録するというのだ。こうなると、もう何だか去年までのように突っ張るのも馬鹿らしくなってしまい、形式さえ整えれば文句は言われないということで、ささやかな抵抗もやめてしまった。
 こうしたことの背景には、職場の状況の変化もある。実際、「どこで何が決まっているのか、隣で何が起こっているのかもわからない」というのが、決して比喩でも誇張でもなくなってしまっているのだ。
 私の勤務校の特殊性もある。本校では、校長の、「大人の行事は減らす(会議で本当にそう言った)」という方針で今年から職員会議が月一回になった。もちろん私をはじめ多くが反対したが、採決を禁じられて以来の職員会議では、何を言ってもただ言いっぱなしで、校長の「決定」を覆すことはできず、そのまま決定となった。
 昨年着任したこの校長は、着任早々「私の方針に従えない人のためには、都立高校はここ以外にもたくさんあります」と言い放った。そして反対意見を述べる者には、「それならば、私を説得してください」と言う。実際には、1対40でも自分の意見を曲げることはなく(しかも副校長や主幹は、本音はともかく校長支持なので、『1』にはならない)、論理が破綻しても絶対に折れない。これでは、校長の空疎な演説を延々聞かされる職員会議など、いっそ少ないほうがいいという雰囲気の方がじわじわと広がっていったのも当然だろう。職員会議でまともな議論ができず、企画調整会議では話し合いがなされているかといえばそうでもなく、どこで決まったのかわからないような話に、驚かされることばかりで、もうほとんど学校の体をなしていない。ヴェテラン教員たちの良心で何とか持ちこたえている有様だ
 校長の専横に、(弱小とはいえ)分会が反撃できていないのが情けなく、歯がゆく、辛い。まして今年度の私は、分会長という立場でもある。昨年から職員会議や校長交渉で何度も校長と対峙してきたのだが、いくら論破しても(しているつもりだが)、説得はできない。最近では若手の私を見る目がちょっと冷たい気がする。「勝てない闘いなら、ハナからするな」という声が聞こえる(様な気がする)。
 その点、若手はしたたかだ。徹底して面従腹背なのだ。ちゃんと帳尻はあわせつつ、背後ではチラッと舌を出す。センスだって悪くない。初任研講師の役人の話を嗤い、あんなくだらない話より生徒と接する時間を大切にしたいという。生徒指導をめぐっては、現場の声を聞けと校長に食ってかかったツワモノだっている。
 彼らもこれから様々な矛盾にぶつかっていくだろう。その時、私の先輩たちが私に言ってくれたように、「気楽に構えて、けっして自分を曲げるな」と、言ってあげられるだろうか。もちろん「自己責任でやれ」などとは言いたくない。しかし私には、彼らの後半生に責任は持てない。
 二十代の頃、ストライキに参加して皆と職場復帰する道で、なんともいえないすがすがしさを感じた。それが私の組合活動の原点のように感じる。今の若手にもいつかあの感覚を味あわせてあげたいと思うのだ。夢だろうか。

『藤田先生を応援する会通信』(第43号 2010/9/9)
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