◆ 「法」にではなく、内藤個人の価値観のみに基づいた判決!
2017年5月10日大阪地裁民事5部での内藤判決は、再任用合格(更新)取消については却下(門前払いで審理せず)、戒告処分や国家賠償請求についても棄却というひどいものでした。
内藤判決は、府教委の行政のあり方を審理の対象としたものではなく、原告3人の「不起立の思想」を裁いたものです。国家に対する敬意を表明せず、「不起立の思想」を捨てないものは、公務員としての存在を許さないという結論を導き出すための判決でした。
ですから、論理矛盾を起こそうが、また府教委でさえ主張しなかったことさえ、強引に原告各個人の内心に踏み込んで判断し、被告の主張を正当化するためだけの判決でした。
1.論理矛盾をしていても、平然と無視?
論理矛盾の一例は、山田さんが職員会議などで公然と不起立を宣言していたにもかかわらず、府教委は再任用合格決定をしていることに対して、
判決は「これまで不起立であったとしても『国旗国歌条例』が施行されたことから、それ以前の卒入学式と同一視できないし、職務命令が発出され不起立に及ばなければ非違行為にならないから、山田が不起立を明らかにした上で、再任用合格決定がなされていても、そのことは、裁量権の逸脱・濫用を基礎づける事情とはならない」としています。
つまり府教委の行政行為では、「口で何と言っていても、実際に不起立しないと非違行為に当たらないから府教委の再任用合格決定は正当である」と結論づけています。
一方で原告各人に対しては、実際にやってもいない将来の不起立の可能性に言及して、「反省や反省の態度が見えないから再任用の取消は当然」、「意向確認は、今後の職務命令遵守を問うたもので正当」としているのです。
府教委の再任用合格の決定が正当であるなら、原告らの「意向確認」の態様と、将来の起立斉唱の際の原告らの行動との間には一定の乖離があると考えるのが相当(つまり将来の起立斉唱の職務命令に対して、原告らは何の非違行為もない)ということになり、「意向確認」をもとに再任用合格を取り消すことは、裁量権の逸脱・濫用にあたるという結論が、導き出されるはずですし、まして「反省や反省の態度」などを問題にすることは論外です。
2.間違いや悪意を創作するための事実認定?
例えば、処分後の研修を「資質向上研修」と勝手に名前をつけています。
府教委は、処分後の研修を特定の名称をつけてはいませんし、職員基本条例でも単に「研修」とされています。
山田さんが研修を受講しなかったことや、私が、校長との面談で処分後の研修を、「いわゆる研修」と言ったことが、さもけしからんこととして印象づけようとしています。
これは、再任用希望者がほとんど合格している事実(98%以上の合格率)に対して、「再任用合格を取り消されたのは、原告らが他の合格している者より劣っているのだから当然」と断定して、合格取消を正当化する伏線を張ったものと思われます。
また菅さんが、卒業式当日は勤務日でないため、職務命令が出されていないことを、年次休暇を取得して来校し、ビラ撒きや卒業式で不起立におよんだと事実を捏造し、菅さんの悪意を強調して、菅さんが「意向確認書」を校長の助言を入れて書き改めた事実にっいては、不起立の意図を秘匿するための行為である断定し府教委の主張を追認しています。
更に私が、校長の事実確認で、不起立のことを問われて、「『こちらからは何も言うことはない』と回答を拒否した」、「顛末書を提出する意思がないと表明した」、「府教委の事情聴取で、(あなたの不起立を)管理職が現認したといわれて、『管理職とは誰ですか』と尋ねた」こと、「(職務命令の発出について、『職員会議で、職務命令が出されたかどうかはよく覚えていない』という野村の発言に、府教委が校長に職務命令を出したか確認をして、校長が『出しました』と答えことを受けて、「校長がそういっているが、どうか」という府教委の質問に対して)『校長が、そう言うのならそうだったんでしょう』と答えた」こと、極めつきは法廷の場で「(野村が)職務命令の合憲性について疑問を呈した」ことまで持ち出して、反省していない論拠にしています。
これでは、まるで子どもの喧嘩の言い分のようなもので、裁判と呼べるような内容の事実認定ではありません。
さらに裁判所に提訴すること自体が、反省していない証拠とあげつらうことは、裁判所自らが、国民の裁判を受ける権利を否定しているようなものです。
3.「広範な裁量権がある」は、「自由裁量権」があること?
府教委の主張通りの判断で、4月1日になって公務員希望者は辞令が手交され、初めてその地位を得られるのだから、まだ再任用教職員の地位を得ていない原告らは、「原告不適格」で却下ということでした。
しかし府や府教委との任用(雇用)関係が生まれ、それまでは全く関係がないのだとしたら、一体誰が採用選考について府や府教委を訴えることができる「原告適格者」なのか。
辞令をもらい公務員になった人物は提訴しないので、実際には「原告適格者」は存在しない。地方公務員法の13条や公正な任用のあり方を定めた規定は、一体何のためにあるのかということになります。
判決文では、再任用制度の持っ社会的意味や、再任用選考における「不起立」処分歴保有者に対する不利な扱い、思想調査である「意向確認(書)」を用いて合否の決定することなど、府教委の再任用選考の実態が、裁量権の逸脱・濫用に当たるのかどうかなど、内容に踏み込んだ検討は、全くしていません。
4.いつの間にか最高裁の「間接制約」すら無視?
「本件職務命令は、君が代が国歌と規定され、一般に国旗国歌に対する敬意の表明が慣例上の儀礼的所作であるとして尊重させることなどを生徒らに感得させることを目的とするものであり、(中略)、一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を強制的に施すことを目的とするものではない」とし、「日の丸・君が代」条例に基づいた起立斉唱の職務命令は、「国旗や国歌に対する敬意の表明」の要素を含めて合憲と判断し、「これを強制することは違法ではない」とし、「国旗や国歌への敬意の表明」という個人の内心への介入も当然のこととして、容認していることです。
更に最高裁の旭川学テ判決を用いて、学習指導要領は教育内容の全国的基準を示したもであり、「日の丸・君が代」条例は、その目的も学習指導要領に沿っており、大阪の地方的特色であると判断できるので、条例は憲法94条にも抵触していないとしています。
5.個人的感情による判断でも、「再任用合格取消」の裁量権の範囲内?
全体に、悪ロレベルのことを、証拠物から断片的に取り出して、新たな「事実」を捏造して、さも非行があったかのような判決です。結論としては、私の場合、職務命令違反の非違行為を反省していず、「自分の意に沿わない条例、通達、職務命令に従わないという確固たる意志を持っているので、公務員としては許されるものとは言い難い」と断じています。
他の2人も、「反省の態度がない」や「信用できない」ので再任用合格取消は当然としています。
6.不起立者は、法の枠外で裁いて当然?
こうしてみると、不起立した者は、戒告処分や停職処分等の処分歴によって、合格取消や再任用拒否をされたのではないのです。
不起立した者は、原則として教育公務員としての地位を剥奪するのが相応しいという結論が最初にあるのです。
そこからの唯一の脱出方法は、府教委の眼鏡にかなうように、不起立の信念を捨て、恭順の意を示すために、府教委の要求通りに意向確認書を書き、不起立者の「恭順の意」に府教委の担当者が満足しない限り、公務員や再任用教職員として地位を認めないということを正当化したのです。
こうしたあからさまな思想転向の強要を認めた内藤判決を、絶対に許すことはできません。
私達原告団(山田・菅・野村)は、控訴して闘う決意で、弁護団の全面的なサポートを得て、控訴理由書の作成をすすめています。今後とも、みなさまのご支援をお願いいたします。
「君が代」不起立解雇撤回訴訟原告団 大阪府立高校元教員 野村 尚
2017年5月10日大阪地裁民事5部での内藤判決は、再任用合格(更新)取消については却下(門前払いで審理せず)、戒告処分や国家賠償請求についても棄却というひどいものでした。
内藤判決は、府教委の行政のあり方を審理の対象としたものではなく、原告3人の「不起立の思想」を裁いたものです。国家に対する敬意を表明せず、「不起立の思想」を捨てないものは、公務員としての存在を許さないという結論を導き出すための判決でした。
ですから、論理矛盾を起こそうが、また府教委でさえ主張しなかったことさえ、強引に原告各個人の内心に踏み込んで判断し、被告の主張を正当化するためだけの判決でした。
1.論理矛盾をしていても、平然と無視?
論理矛盾の一例は、山田さんが職員会議などで公然と不起立を宣言していたにもかかわらず、府教委は再任用合格決定をしていることに対して、
判決は「これまで不起立であったとしても『国旗国歌条例』が施行されたことから、それ以前の卒入学式と同一視できないし、職務命令が発出され不起立に及ばなければ非違行為にならないから、山田が不起立を明らかにした上で、再任用合格決定がなされていても、そのことは、裁量権の逸脱・濫用を基礎づける事情とはならない」としています。
つまり府教委の行政行為では、「口で何と言っていても、実際に不起立しないと非違行為に当たらないから府教委の再任用合格決定は正当である」と結論づけています。
一方で原告各人に対しては、実際にやってもいない将来の不起立の可能性に言及して、「反省や反省の態度が見えないから再任用の取消は当然」、「意向確認は、今後の職務命令遵守を問うたもので正当」としているのです。
府教委の再任用合格の決定が正当であるなら、原告らの「意向確認」の態様と、将来の起立斉唱の際の原告らの行動との間には一定の乖離があると考えるのが相当(つまり将来の起立斉唱の職務命令に対して、原告らは何の非違行為もない)ということになり、「意向確認」をもとに再任用合格を取り消すことは、裁量権の逸脱・濫用にあたるという結論が、導き出されるはずですし、まして「反省や反省の態度」などを問題にすることは論外です。
2.間違いや悪意を創作するための事実認定?
例えば、処分後の研修を「資質向上研修」と勝手に名前をつけています。
府教委は、処分後の研修を特定の名称をつけてはいませんし、職員基本条例でも単に「研修」とされています。
山田さんが研修を受講しなかったことや、私が、校長との面談で処分後の研修を、「いわゆる研修」と言ったことが、さもけしからんこととして印象づけようとしています。
これは、再任用希望者がほとんど合格している事実(98%以上の合格率)に対して、「再任用合格を取り消されたのは、原告らが他の合格している者より劣っているのだから当然」と断定して、合格取消を正当化する伏線を張ったものと思われます。
また菅さんが、卒業式当日は勤務日でないため、職務命令が出されていないことを、年次休暇を取得して来校し、ビラ撒きや卒業式で不起立におよんだと事実を捏造し、菅さんの悪意を強調して、菅さんが「意向確認書」を校長の助言を入れて書き改めた事実にっいては、不起立の意図を秘匿するための行為である断定し府教委の主張を追認しています。
更に私が、校長の事実確認で、不起立のことを問われて、「『こちらからは何も言うことはない』と回答を拒否した」、「顛末書を提出する意思がないと表明した」、「府教委の事情聴取で、(あなたの不起立を)管理職が現認したといわれて、『管理職とは誰ですか』と尋ねた」こと、「(職務命令の発出について、『職員会議で、職務命令が出されたかどうかはよく覚えていない』という野村の発言に、府教委が校長に職務命令を出したか確認をして、校長が『出しました』と答えことを受けて、「校長がそういっているが、どうか」という府教委の質問に対して)『校長が、そう言うのならそうだったんでしょう』と答えた」こと、極めつきは法廷の場で「(野村が)職務命令の合憲性について疑問を呈した」ことまで持ち出して、反省していない論拠にしています。
これでは、まるで子どもの喧嘩の言い分のようなもので、裁判と呼べるような内容の事実認定ではありません。
さらに裁判所に提訴すること自体が、反省していない証拠とあげつらうことは、裁判所自らが、国民の裁判を受ける権利を否定しているようなものです。
3.「広範な裁量権がある」は、「自由裁量権」があること?
府教委の主張通りの判断で、4月1日になって公務員希望者は辞令が手交され、初めてその地位を得られるのだから、まだ再任用教職員の地位を得ていない原告らは、「原告不適格」で却下ということでした。
しかし府や府教委との任用(雇用)関係が生まれ、それまでは全く関係がないのだとしたら、一体誰が採用選考について府や府教委を訴えることができる「原告適格者」なのか。
辞令をもらい公務員になった人物は提訴しないので、実際には「原告適格者」は存在しない。地方公務員法の13条や公正な任用のあり方を定めた規定は、一体何のためにあるのかということになります。
判決文では、再任用制度の持っ社会的意味や、再任用選考における「不起立」処分歴保有者に対する不利な扱い、思想調査である「意向確認(書)」を用いて合否の決定することなど、府教委の再任用選考の実態が、裁量権の逸脱・濫用に当たるのかどうかなど、内容に踏み込んだ検討は、全くしていません。
4.いつの間にか最高裁の「間接制約」すら無視?
「本件職務命令は、君が代が国歌と規定され、一般に国旗国歌に対する敬意の表明が慣例上の儀礼的所作であるとして尊重させることなどを生徒らに感得させることを目的とするものであり、(中略)、一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を強制的に施すことを目的とするものではない」とし、「日の丸・君が代」条例に基づいた起立斉唱の職務命令は、「国旗や国歌に対する敬意の表明」の要素を含めて合憲と判断し、「これを強制することは違法ではない」とし、「国旗や国歌への敬意の表明」という個人の内心への介入も当然のこととして、容認していることです。
更に最高裁の旭川学テ判決を用いて、学習指導要領は教育内容の全国的基準を示したもであり、「日の丸・君が代」条例は、その目的も学習指導要領に沿っており、大阪の地方的特色であると判断できるので、条例は憲法94条にも抵触していないとしています。
5.個人的感情による判断でも、「再任用合格取消」の裁量権の範囲内?
全体に、悪ロレベルのことを、証拠物から断片的に取り出して、新たな「事実」を捏造して、さも非行があったかのような判決です。結論としては、私の場合、職務命令違反の非違行為を反省していず、「自分の意に沿わない条例、通達、職務命令に従わないという確固たる意志を持っているので、公務員としては許されるものとは言い難い」と断じています。
他の2人も、「反省の態度がない」や「信用できない」ので再任用合格取消は当然としています。
6.不起立者は、法の枠外で裁いて当然?
こうしてみると、不起立した者は、戒告処分や停職処分等の処分歴によって、合格取消や再任用拒否をされたのではないのです。
不起立した者は、原則として教育公務員としての地位を剥奪するのが相応しいという結論が最初にあるのです。
そこからの唯一の脱出方法は、府教委の眼鏡にかなうように、不起立の信念を捨て、恭順の意を示すために、府教委の要求通りに意向確認書を書き、不起立者の「恭順の意」に府教委の担当者が満足しない限り、公務員や再任用教職員として地位を認めないということを正当化したのです。
こうしたあからさまな思想転向の強要を認めた内藤判決を、絶対に許すことはできません。
私達原告団(山田・菅・野村)は、控訴して闘う決意で、弁護団の全面的なサポートを得て、控訴理由書の作成をすすめています。今後とも、みなさまのご支援をお願いいたします。
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