東京「君が代」裁判第4次訴訟の第1回口頭弁論が6月11日(水)午後、東京地裁でおこなわれました。当日は、平松真二郎弁護士が意見陳述をおこないましたが、そこでは、4次訴訟にとりくむ弁護団としての基本的主張が述べられました。支援活動をすすめるためにも、この裁判の意義について知っていただきたいと思いますので、「意見陳述」の全文を再録します。(リベルテ編集部)
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1 2003(平成15)年10月23日のいわゆる10・23通達以来、東京都の公立学校において、卒業式等の儀式的行事において国歌の起立斉唱が義務付けられ、これに従わない教職員に対する懲戒処分が繰り返され、これまでに延べ463名の教職員が懲戒処分を受けています。
この10・23通達を巡っては、多数の訴訟が提起され、2011(平成23)年5月から2013(平成25)年9月までの間にいくつもの最高裁判決が出されました。これらの最高裁判決の結論は、国歌の起立斉唱の義務付けは思想良心の自由に対する間接的制約であるが、義務付けの必要性、合理性があれば憲法上許容されるというものでした。
2 もとより、原告らは、国歌の起立斉唱の義務付け、その義務違反に懲戒処分をもってのぞむこと自体違憲であり、戒告処分を含めたすべての懲戒処分が違法であると考えて本件訴訟の提訴に至りました。本件訴訟で問われている主要な論点は二つあります。
(1)一つは、教育という社会的文化的営みに、国家がどこまで介入することが許されるのかという問題です。
戦前の教育は、神である天皇が唱導する戦争に参加することこそが忠良なる臣民の道徳であると教え込むものでした。富国強兵、殖産興業、植民地支配といった国家主義的国策の正当性を児童生徒に刷り込む場として教育が利用されました。国家のイデオロギーそのものが教育の内容となり、民族的優越と忠君愛国が全国の学校で説かれたのです。
その結果が、無謀な戦争による惨禍となりました。歴史の審判は既に下っています。教育を公権力の僕にしてはならない。公権力が教育内容を支配し介入してはならない。公権力が特定のイデオロギーを国民に押し付けてはならない。
これらの普遍的な原理は、日本国憲法26条、23条、そして13条として結実しました。この憲法上の理念をゆるがせにしてはなりません。
10・23通達は、教育内容を教育行政機関が定めるものであって、公権力による教育への支配介入にほかなりません。しかしながら、この重大な問題について、最高裁の各判決が判断を示すことはありませんでした。
(2)本件訴訟におけるもう一つの論点が、個人の精神の内面に公権力がどこまで介入することが許されるのかという論点です。
既に述べたとおり、最高裁判決の結論は、国歌の起立斉唱の義務付けは、その必要性、合理性があれば憲法上許容されるというものでした。私たちは、この点に関する一連の最高裁判決には、国歌の起立斉唱を思想良心の自由に対する間接的制約とした判断枠組みについても、その間接的制約が一定の必要性、合理性という基準で許容されるという判断基準についても承服しがたいと考えています。私たちは、司法判断の変更を求めて、訴訟活動をおこなっていく所存です。
3 ところで、一連の最高裁判決には、数々の補足意見が付され、その多くが国歌の起立斉唱の「強制」に慎重な姿勢が示しています。しかるに、都教委は、これらの各補足意見を真摯に受けとめず、免罪符を得たとばかりに教職員に対する圧力を一層強めています。従前よりも処分内容が加重された懲戒処分を科すことにより教職員に対する強制を押し進めています。そこには、ただただ国歌の起立斉唱の義務付けを貫徹しようとする思惑だけが見て取れます。
各補足意見が、教育環境の改善を図るために寛容の精神及び相互の理解を求めたことについての配慮はみじんもみられません。不起立とそれに対する懲戒処分が繰り返される結果、教育現場の環境が悪化しようが、起立できない教職員に対して徹底的に不利益処分を科し、根絶やしにすることに固執する姿しか見られません。このような姿は、最高裁裁判官の各補足意見の真意に沿うものではないことが明らかです。
4 それを措いても、本件訴訟においては、これまでの最高裁判決の多数意見の判断、結論に漫然と従って判断されてはなりません。
一連の最高裁判決以降、都教委の再発防止研修の強化など、より精神的自由に対する制約が強められています。原告らに科された各懲戒処分の実質的内容は加重されています。これらの事実経過を正確に認識したうえで、憲法19条が保障する思想良心の自由が侵害されているか否かが判断されなければなりません。
また、都教委による教育内容介入が、教基法16条が禁ずる「不当な支配」に該当しないかが判断されなければなりません。
そして、なにより、懲戒処分を繰り返している都教委の真の意図を直視した判断がなされなければなりません。
最高裁判決の多数意見の結論のみに漫然と従い、硬直した判断を行うことは、裁判所の判断が、教育環境を悪化させる一端を担う結果となるのです。訴訟の冒頭に当たって、このことをくれぐれも強調し、教育の本質についての深い洞察に基づいた的確な訴訟指揮を求めるものであります。
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース 第36号』(2014年7月26日)
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◎ 意見陳述要旨
原告ら訴訟代理人弁護士 平松真二郎
1 2003(平成15)年10月23日のいわゆる10・23通達以来、東京都の公立学校において、卒業式等の儀式的行事において国歌の起立斉唱が義務付けられ、これに従わない教職員に対する懲戒処分が繰り返され、これまでに延べ463名の教職員が懲戒処分を受けています。
この10・23通達を巡っては、多数の訴訟が提起され、2011(平成23)年5月から2013(平成25)年9月までの間にいくつもの最高裁判決が出されました。これらの最高裁判決の結論は、国歌の起立斉唱の義務付けは思想良心の自由に対する間接的制約であるが、義務付けの必要性、合理性があれば憲法上許容されるというものでした。
2 もとより、原告らは、国歌の起立斉唱の義務付け、その義務違反に懲戒処分をもってのぞむこと自体違憲であり、戒告処分を含めたすべての懲戒処分が違法であると考えて本件訴訟の提訴に至りました。本件訴訟で問われている主要な論点は二つあります。
(1)一つは、教育という社会的文化的営みに、国家がどこまで介入することが許されるのかという問題です。
戦前の教育は、神である天皇が唱導する戦争に参加することこそが忠良なる臣民の道徳であると教え込むものでした。富国強兵、殖産興業、植民地支配といった国家主義的国策の正当性を児童生徒に刷り込む場として教育が利用されました。国家のイデオロギーそのものが教育の内容となり、民族的優越と忠君愛国が全国の学校で説かれたのです。
その結果が、無謀な戦争による惨禍となりました。歴史の審判は既に下っています。教育を公権力の僕にしてはならない。公権力が教育内容を支配し介入してはならない。公権力が特定のイデオロギーを国民に押し付けてはならない。
これらの普遍的な原理は、日本国憲法26条、23条、そして13条として結実しました。この憲法上の理念をゆるがせにしてはなりません。
10・23通達は、教育内容を教育行政機関が定めるものであって、公権力による教育への支配介入にほかなりません。しかしながら、この重大な問題について、最高裁の各判決が判断を示すことはありませんでした。
(2)本件訴訟におけるもう一つの論点が、個人の精神の内面に公権力がどこまで介入することが許されるのかという論点です。
既に述べたとおり、最高裁判決の結論は、国歌の起立斉唱の義務付けは、その必要性、合理性があれば憲法上許容されるというものでした。私たちは、この点に関する一連の最高裁判決には、国歌の起立斉唱を思想良心の自由に対する間接的制約とした判断枠組みについても、その間接的制約が一定の必要性、合理性という基準で許容されるという判断基準についても承服しがたいと考えています。私たちは、司法判断の変更を求めて、訴訟活動をおこなっていく所存です。
3 ところで、一連の最高裁判決には、数々の補足意見が付され、その多くが国歌の起立斉唱の「強制」に慎重な姿勢が示しています。しかるに、都教委は、これらの各補足意見を真摯に受けとめず、免罪符を得たとばかりに教職員に対する圧力を一層強めています。従前よりも処分内容が加重された懲戒処分を科すことにより教職員に対する強制を押し進めています。そこには、ただただ国歌の起立斉唱の義務付けを貫徹しようとする思惑だけが見て取れます。
各補足意見が、教育環境の改善を図るために寛容の精神及び相互の理解を求めたことについての配慮はみじんもみられません。不起立とそれに対する懲戒処分が繰り返される結果、教育現場の環境が悪化しようが、起立できない教職員に対して徹底的に不利益処分を科し、根絶やしにすることに固執する姿しか見られません。このような姿は、最高裁裁判官の各補足意見の真意に沿うものではないことが明らかです。
4 それを措いても、本件訴訟においては、これまでの最高裁判決の多数意見の判断、結論に漫然と従って判断されてはなりません。
一連の最高裁判決以降、都教委の再発防止研修の強化など、より精神的自由に対する制約が強められています。原告らに科された各懲戒処分の実質的内容は加重されています。これらの事実経過を正確に認識したうえで、憲法19条が保障する思想良心の自由が侵害されているか否かが判断されなければなりません。
また、都教委による教育内容介入が、教基法16条が禁ずる「不当な支配」に該当しないかが判断されなければなりません。
そして、なにより、懲戒処分を繰り返している都教委の真の意図を直視した判断がなされなければなりません。
最高裁判決の多数意見の結論のみに漫然と従い、硬直した判断を行うことは、裁判所の判断が、教育環境を悪化させる一端を担う結果となるのです。訴訟の冒頭に当たって、このことをくれぐれも強調し、教育の本質についての深い洞察に基づいた的確な訴訟指揮を求めるものであります。
以上
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース 第36号』(2014年7月26日)
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