●強制されるのは、良心の教師への暴力である
東京地裁判決を受けて、共同代表のお一人である野田正彰さん(精神科医)からメッセージを寄せていただきました。
九月二一日、東京都教育委員会による「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱するよう義務づける通達について、憲法十九条の思想・良心の自由に違反し、教育基本法十条一項の「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負う」にも違反すると、東京地裁は判断した。
その上で、通達違反を理由にした処分の禁止と、強制による精神的損害に対し、一人当り三万円の賠償を都教委と東京都に命じた。
ほとんどの新聞はこの判決を一面トップで報じ、後日、社説で解説している。
ただし違憲料決の意義を述べるのみで、精神的損害についての賠償命令が出たことの意味に気付いている記事、解説は皆無だった。
通達による強制が始まって時間があまり過ぎていなければ、憲法・教育基本法違反の判断で十分であった。だが通達の以前から強制は始まっており、その後の永い月日にわたって教育委員会は教職員を精神的にも、身体的にも苦しめ続けてきた。
私は強制の経過と、抑圧について「精神医学的意見書」を提出し、身体化された症状(消化器の症状、頭痛、肩の痛み、全身塀息、持病の悪化、不眠、悪夢、夜驚など)および、感情の不安定、抑うつ、自己像の変化について詳しく述べた。絶対にしてはいけないと考えていることを強制されるのは、良心の教師への暴力である。
判決は「精神的損害を被ったことが認められる」と明確に述べ、東京都と都教委による加害を認めたのである。
これほども長時間にわたって精神的抑圧、教育委員会による教師いじめが行われてきたにもかかわらず、緊急避難も認めず、この執勘な加害を容認してきた罪は多くの市民にあり、十分に抗議してこなかった責任はマスコミにある。
私は、思想・良心の自由を踏みにじる強制力が教師の精神をいかに破壊しているか、指摘してすでに七年になる。この判決をもとに、権力による精神的加害に鈍感な社会について、批判を鋭くしてほしい。
(関西学院大学・野田正彰)
●教育に自由の風を吹き込んだ
9・21東京地裁判決
共同代表 醍醐 聰(東京大学経済学研究科教授)
被告はショック、原告もびっくり。この光景が国旗・国歌強制予防訴訟に対する9・21東京地裁判決の衝撃の大きさを雄弁に物語っている。
9月29日、東京都と都教育委員会はこの判決を不服として東京高裁に控訴したため、裁判はなお続く。しかし、9・21東京地裁判決の画期的内容を教育現場はもとより市民社会にも根付かせていくことが裁判を支援する私たちの務めだと感じる。
東京地裁判決は、国旗に同かって起立し、国歌を斉唱することを強制した都教委通達とそれに基づく校長の職務命令は一方的に一定の理論や観念を生徒に教えることを強制するに等しく、教育基本法10条1項に定めた「不当な支配」に当たり違法、また、憲法19条が保障する思想・良心の自由を侵害するものと判示した。
判決のこのくだりを知って私は、一九四八年から一九五三年にかけて中学生および高校生の社会科教科書として使われた文部省著作『民主主義』の次の一節を思い起こし、戦後民主主義の原点を覚醒させられる思いがした。
「政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである。今までの日本では、忠君愛国というような『縦の道徳』だけが重んぜられ、あらゆる機会にそれが国民の心に吹き込まれてきた。そのために、日本人には、何よりもたいせつな公民道徳が著しく欠けていた。」「・・われわれは、日本人をこれまで支配してきた『縦の道徳』の代わりに、責任と信頼とによって人々を結ぶ『横の道徳』を確立していかなければならない、、」(渡辺豊・出倉純編集『文部省著作教科書民主主義』径書房、1995年、293~294ページ。)
いま、政府・与党が教育基本法を改悪して目論んでいる目標の一つは、半世紀以上前の文部省教科書が厳しく戒めた「縦の道徳」の注入にほかならない。
歴史を逆流させるこうした動きが急を告げるなか、教職員および生健の精神的自由権、個人の尊厳を守る価埴を明快に擁護したところに、9・21判決の歴史的価値があると私は思う。
そして、こうした判決の真価を礎にしてこそ〈信念も目的もなく、腹蔵がありながら、機械的に毎朝、宣誓を復調する市民の忠節は必ずしも賞賛すべきことではない。〉〈胸中にないことの表明を人に強要することは、米国〔民主主義〕の長年の基盤であった寛容と理解という規範に反する。〉(1972年11月14日、連邦第2巡回区控訴裁判所判決)という成熟した個人主義と民主主義を日本に根付かせることができるのである。
おかしいと思ったことには従わない、価値があると思ったことは果敢に実行する、異なる思考や体験と触れあい、動揺と自省を繰り返すなかで自立した個人が育まれていく--このような環境を整えることこそ、教育現場はもとより、市民社会が様々な可能性を秘めた児童・生徒に対して負う最高の責務であると思う。
この意味で、9・21東京地裁判決は、10・23通達以降、都教委が進めてきた「教育」という名の反教育、個人の尊厳に対する冒涜を厳しく断罪したものといえる。
東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会『リベルテ』第5号より
連絡先)東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会
http://kyouseihantai.cocolog-nifty.com/susumerukai/2005/09/post_ff17.html
東京地裁判決を受けて、共同代表のお一人である野田正彰さん(精神科医)からメッセージを寄せていただきました。
九月二一日、東京都教育委員会による「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱するよう義務づける通達について、憲法十九条の思想・良心の自由に違反し、教育基本法十条一項の「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負う」にも違反すると、東京地裁は判断した。
その上で、通達違反を理由にした処分の禁止と、強制による精神的損害に対し、一人当り三万円の賠償を都教委と東京都に命じた。
ほとんどの新聞はこの判決を一面トップで報じ、後日、社説で解説している。
ただし違憲料決の意義を述べるのみで、精神的損害についての賠償命令が出たことの意味に気付いている記事、解説は皆無だった。
通達による強制が始まって時間があまり過ぎていなければ、憲法・教育基本法違反の判断で十分であった。だが通達の以前から強制は始まっており、その後の永い月日にわたって教育委員会は教職員を精神的にも、身体的にも苦しめ続けてきた。
私は強制の経過と、抑圧について「精神医学的意見書」を提出し、身体化された症状(消化器の症状、頭痛、肩の痛み、全身塀息、持病の悪化、不眠、悪夢、夜驚など)および、感情の不安定、抑うつ、自己像の変化について詳しく述べた。絶対にしてはいけないと考えていることを強制されるのは、良心の教師への暴力である。
判決は「精神的損害を被ったことが認められる」と明確に述べ、東京都と都教委による加害を認めたのである。
これほども長時間にわたって精神的抑圧、教育委員会による教師いじめが行われてきたにもかかわらず、緊急避難も認めず、この執勘な加害を容認してきた罪は多くの市民にあり、十分に抗議してこなかった責任はマスコミにある。
私は、思想・良心の自由を踏みにじる強制力が教師の精神をいかに破壊しているか、指摘してすでに七年になる。この判決をもとに、権力による精神的加害に鈍感な社会について、批判を鋭くしてほしい。
(関西学院大学・野田正彰)
●教育に自由の風を吹き込んだ
9・21東京地裁判決
共同代表 醍醐 聰(東京大学経済学研究科教授)
被告はショック、原告もびっくり。この光景が国旗・国歌強制予防訴訟に対する9・21東京地裁判決の衝撃の大きさを雄弁に物語っている。
9月29日、東京都と都教育委員会はこの判決を不服として東京高裁に控訴したため、裁判はなお続く。しかし、9・21東京地裁判決の画期的内容を教育現場はもとより市民社会にも根付かせていくことが裁判を支援する私たちの務めだと感じる。
東京地裁判決は、国旗に同かって起立し、国歌を斉唱することを強制した都教委通達とそれに基づく校長の職務命令は一方的に一定の理論や観念を生徒に教えることを強制するに等しく、教育基本法10条1項に定めた「不当な支配」に当たり違法、また、憲法19条が保障する思想・良心の自由を侵害するものと判示した。
判決のこのくだりを知って私は、一九四八年から一九五三年にかけて中学生および高校生の社会科教科書として使われた文部省著作『民主主義』の次の一節を思い起こし、戦後民主主義の原点を覚醒させられる思いがした。
「政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである。今までの日本では、忠君愛国というような『縦の道徳』だけが重んぜられ、あらゆる機会にそれが国民の心に吹き込まれてきた。そのために、日本人には、何よりもたいせつな公民道徳が著しく欠けていた。」「・・われわれは、日本人をこれまで支配してきた『縦の道徳』の代わりに、責任と信頼とによって人々を結ぶ『横の道徳』を確立していかなければならない、、」(渡辺豊・出倉純編集『文部省著作教科書民主主義』径書房、1995年、293~294ページ。)
いま、政府・与党が教育基本法を改悪して目論んでいる目標の一つは、半世紀以上前の文部省教科書が厳しく戒めた「縦の道徳」の注入にほかならない。
歴史を逆流させるこうした動きが急を告げるなか、教職員および生健の精神的自由権、個人の尊厳を守る価埴を明快に擁護したところに、9・21判決の歴史的価値があると私は思う。
そして、こうした判決の真価を礎にしてこそ〈信念も目的もなく、腹蔵がありながら、機械的に毎朝、宣誓を復調する市民の忠節は必ずしも賞賛すべきことではない。〉〈胸中にないことの表明を人に強要することは、米国〔民主主義〕の長年の基盤であった寛容と理解という規範に反する。〉(1972年11月14日、連邦第2巡回区控訴裁判所判決)という成熟した個人主義と民主主義を日本に根付かせることができるのである。
おかしいと思ったことには従わない、価値があると思ったことは果敢に実行する、異なる思考や体験と触れあい、動揺と自省を繰り返すなかで自立した個人が育まれていく--このような環境を整えることこそ、教育現場はもとより、市民社会が様々な可能性を秘めた児童・生徒に対して負う最高の責務であると思う。
この意味で、9・21東京地裁判決は、10・23通達以降、都教委が進めてきた「教育」という名の反教育、個人の尊厳に対する冒涜を厳しく断罪したものといえる。
東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会『リベルテ』第5号より
連絡先)東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会
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