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石原慎太郎「天罰」発言 澤藤弁護士怒りの第17弾

2011年04月01日 | 暴走する都教委
 ▼ 死者に寄り添う気持の尊さ
弁護士 澤藤統一郎 (2011年3月30日)

 「方丈記」は災害文学である。取りあげられた「災害」は、大火・旋風・遷都・ひでり・大風・洪水・飢饉・疫病、そして大地震に及ぶ。
 養和年間(1181~82)の飢饉による夥しい都の餓死者について次の一節がある。
 「仁和寺に隆曉法印といふ人、かずもしらず死ぬることをかなしみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。その人數を知らむとて、四五兩月を数へたりければ、…道のほとりにある頭、四萬二千三百余りなむありける」
 行路に捨てられた遺体を哀れとし、その成仏を願って額に梵語の「阿」という字を書いてまわった僧のいたことが、鴨長明には書き留めて置くべきことであった。
 よく似た話が、昨日の「毎日」夕刊に。「葬儀が出せない被災遺族のために、僧侶の兄弟が火葬の度に駆け付け、ボランティアで読経している」のだという。
 山田町の龍泉寺は遺体の仮安置所になった。30代の住職は、幼児の遺体を見て涙が止まらず、弟と相談して「檀家であろうとなかろうと供養を」と思い立った。以来、「隣接する斎場での火入れにほぼ毎回交代で立ち会い、遺族を前に、袈裟姿で読経している」「喪服もなく、着の身着のまま参列した遺族が『手を合わせくれるだけでもありがたい』と涙を流して感謝する場面もある」と報じられている。
 「(葬式など)何もできないと思っていたので、ありがたいお経だった」という遺族の感謝のことばが痛いほどよく分かる。常は無神論者をもって任じている私も、そのような僧侶の行為に尊敬の念を抱かずにはおられない。
 宗教者が死者に寄り添う行為は、生者への真摯な慰めでもある。宗教とは本来竜泉寺の若い僧が体現したように、死者と生者をともにいつくしむ営みなのだと思う。
 宗教者に限らず、生を至高のものとし、その故に死を厳粛なものとして、死者に敬虔な姿勢で寄り添うことが社会の良識である。
 死者へも遺族にも何の配慮もなく、軽々に「災害は天罰」と無分別な放言をする輩には、人生や社会を語る資格はない。政治に携わることなどもってのほか。
『NPJ 石原慎太郎「震災は天罰」発言』
http://www.news-pj.net/npj/sawafuji/index.html

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