ハロー 土曜日には自宅にもどるわけで例のネットカフェにくるのはもったいないとは思ったのですけれど、何たって三度の飯より大好きなおしゃべりじゃあありませんか~自宅じゃあ誰も私の話なんぞ聞いてくれませんしね。
日ごろのストレス発散にくるわけですよ。あとね自分の足跡を残すんです。ご存知の方はご存知だと思うのですけれどワタクシ整理がとても上手。大切なものどっかに行っちゃうんです。ですのでここに書いておけばなくなりませんでしょ?
今日は 父の命日です。
生きていれば何歳になったのだろうか?82歳くらいですかね?父は68歳でなくなった。すい臓の癌だった。発見したときにはすでに3箇所に転移していたから手の施しようがなかった。
当時は癌告知は一般的ではなかったから 母たちは癌告知をしないという選択をした。多分その選択は正しかったのだと思う。そういうことは一緒に暮らしているものや伴侶が決定することだと思う。
父は元陸軍の軍人だ。満州で戦ったと聞いている。百人の部下を従えた軍曹だった。自宅のリビングには
「将校適任のものとす。」と書かれた証明書のようなものが汚い額に入ってはりがねでぶら下げられていたのをおもいだす。
私は戦後の民主主義の教育を受けたから父の軍国主義の色合いの濃い教育のいちいちが気にいらなかった。
母を泣かすところ、自分の価値観を押し付けるところ、外面のいいところ、などなど・・・。
黒のものでも父が白といえば白と認めなくてはならなかった。自分の意見をのべることができなかったことが一番嫌だった。
父がすごいと思うところは、足が二倍にふくれていても、腹水がたまっていてもそれを抜きながら働いたところ、尤もそのころには働けなくなりはしたけれど・・・。
病院内 口中 口内炎になりながらも何とか体力を取り戻すんだ、という気持ちで病院で出されたご飯を、咀嚼はできないから、白湯を注いで流し込んでいた父のことを想う。
治ったら お四国をまわるんだ。 父はそんな夢を持っていた。
口内炎はできたことのない人には分からない思うけれどちょっと患部に何かがあたっただけで飛び上がるほど痛いんだ。
私は占いを習っている。父の星を知ったときから父に対する想いは大きく変わった。父も母も平和な世の中で輝けるきれいな星だった。
大将の星を持っているから家族みんなに囲まれて「 おとうちゃん!」と慕われていれば 父の人生ももっと変わっていたかも知れない。( まあ それはわからないけれど・・・)
小さいころから不思議なことがあった。父方のおばあさまは
「 にいさまが・・・、にいさまが・・・。」というような上品な言葉使いの人なのに、なんでこんな人が育ったのだろうか?ということだった。
今なら 間違いなく戦時中の教育のせいだということがわかるけれど、父が一生懸命働いたのは紛れもなく母とともに私たち姉妹を育てるためだったと思う。
何もないところから身を立てた。大阪に商売のノウハウを学びに出たときが一番貧しかったのではないかと思う。母はお腹の中に私、そして二歳年上の姉の手を引いて一円でも安い大根を買いに市場のはしごをしたと聞く。
住まいも二階を間借りしていたから姉のトイレの度に階段を上がったり降りたりした。栄養不足から母の乳は出ず、私はどうやらほんの少しの粉ミルクと、米のとぎ汁で育ったらしい。
私はこの世に生を受けたときに死にかけていたらしい?目は奇形だ。どんなのかというと、目の真ん中の瞳が分裂しているのだ。日本人だからわからないと思うけれど これがブルーの目だったりしたら、瞳の形がわかるから、きっと気持ち悪いと思う。
でもちゃんとものが見える目をいただいたことはありがたいことだ。ちなみに視力はずっと1.5だった。( 勉強しなかったからね。)
貧しさの故に( だと思うけれど)私のほかに兄弟が少なくとも一人はいた。どうやら流れてしまったらしい。貧しいとはそういうことなのだろう。
話はそれてしまうが、今の世の中でブランドのバックやお洋服を手にするために(それだけじゃあないかもだけど)男女の交わりをする、そして生まれた命を勝手にあの世に送り返す。なんていう話を聞いたりすると本当にむかつくんだ。
いわんや そういうことを子供にさせて、そのお金でぬくぬく暮らす親がいるなんていう話をきくと・・・それこそ
「 おんどりゃあ !」(= あんたねぇ~)と言ってむなぐら掴まえるかもしれない私がいる。( 最近は大丈夫よ。人様のことにかかわらない自分いるんでね。)
わたしは戦争によって父の星が全部ひっくり返って行った印象をもっている。骨の髄までしみこんだ軍事教育と民主主義の教育を受けて育った私たちの世代とのギャップは大きいのだろうと想像する。
今 私はうどんやでパートのおばちゃんをしているが、お金をいただくということは本当に大変なことだ。なんの職業についてもそれは一緒なのだろう。
お金のことだけを考えたならば、とっくにやめているだろう仕事だと思う。
何よりきついのは みなさんが私のことを育てようとしてくれているのだけれど、その気持ちに応えられない自分の能力。ふがいなさ。
50以上のメニューの暗号はとてつもない変化をとげ、何とか注文をとる、とかレジうちをする仕事までたどりついたような錯覚の中にいたのだけれど、デシャップ?とかいう仕事に入った途端、その仕事の煩雑さにすっかり怖気づいてしまった。
> たとえばこんな感じ・・・
○○定食というメニューがあったとしよう。
その定食につくおうどんにはねぎとおかかと昆布がのっかる。ところがこれが一端冷たいおうどんとなるとのっかるものが変化するんだ。
定食もののおうどんがみ~~んな同じ風に変化してくれればいいのだけれどそうは問屋がおろさないわけで、このうどんは違うトッピングで・・・。
しかもそこにもっていって、レンゲをつけたりつけなかったり、小鉢をのせたりのせなかったりわけわからん状況におちいっているんです。
だ~け~ど~
この仕事しながら 思うんだ~
68歳まで現役で体使って働いていた父のこと、姉さんがぼやいていたっけな、配達のあと、おつりもらってポケットにいれたまんま忘れていたりすることがあったって。
マンマミーヤ・・・わけわからん授業にじっと耐えて座っていること。できないことはできないし、わからないことはわからないんだ。
わが とうちゃん。これだけの財を稼ぐのは 大変だと思う。ホント冗談ぬきで大変だと思う。
ジャパン 同様。多分 芸術家の星を持つ彼女にはあまりあわないだろう内容のお仕事 がんばっているのね~~。
父が越えられなかったもの それは多分自分を無くすこと、
俺がこんなに働いているのにという思い・・・?
こだわったお店?
そっぽむいていた家族?
ちょっとわからない 途中からぬけたから。いずれにせよ、家族というのは理解しあえないものなのではないかと思うようになった。星が違うんだ。
それでも 日々の生活の中で少しでも相手のことおもんばかる私に変化をして円満なる家庭生活に近づく努力はしなくてなならないだろう。
父から受け継いだくじけない こころ・軍人の魂 それを大切にしよう!
すぐ怒鳴ったり 怒ったりすることは避けたい。価値観のおしつけ!( やっとりました。)
多分それが父があの世で一番望んでいること。
そう思う。
日ごろのストレス発散にくるわけですよ。あとね自分の足跡を残すんです。ご存知の方はご存知だと思うのですけれどワタクシ整理がとても上手。大切なものどっかに行っちゃうんです。ですのでここに書いておけばなくなりませんでしょ?
今日は 父の命日です。
生きていれば何歳になったのだろうか?82歳くらいですかね?父は68歳でなくなった。すい臓の癌だった。発見したときにはすでに3箇所に転移していたから手の施しようがなかった。
当時は癌告知は一般的ではなかったから 母たちは癌告知をしないという選択をした。多分その選択は正しかったのだと思う。そういうことは一緒に暮らしているものや伴侶が決定することだと思う。
父は元陸軍の軍人だ。満州で戦ったと聞いている。百人の部下を従えた軍曹だった。自宅のリビングには
「将校適任のものとす。」と書かれた証明書のようなものが汚い額に入ってはりがねでぶら下げられていたのをおもいだす。
私は戦後の民主主義の教育を受けたから父の軍国主義の色合いの濃い教育のいちいちが気にいらなかった。
母を泣かすところ、自分の価値観を押し付けるところ、外面のいいところ、などなど・・・。
黒のものでも父が白といえば白と認めなくてはならなかった。自分の意見をのべることができなかったことが一番嫌だった。
父がすごいと思うところは、足が二倍にふくれていても、腹水がたまっていてもそれを抜きながら働いたところ、尤もそのころには働けなくなりはしたけれど・・・。
病院内 口中 口内炎になりながらも何とか体力を取り戻すんだ、という気持ちで病院で出されたご飯を、咀嚼はできないから、白湯を注いで流し込んでいた父のことを想う。
治ったら お四国をまわるんだ。 父はそんな夢を持っていた。
口内炎はできたことのない人には分からない思うけれどちょっと患部に何かがあたっただけで飛び上がるほど痛いんだ。
私は占いを習っている。父の星を知ったときから父に対する想いは大きく変わった。父も母も平和な世の中で輝けるきれいな星だった。
大将の星を持っているから家族みんなに囲まれて「 おとうちゃん!」と慕われていれば 父の人生ももっと変わっていたかも知れない。( まあ それはわからないけれど・・・)
小さいころから不思議なことがあった。父方のおばあさまは
「 にいさまが・・・、にいさまが・・・。」というような上品な言葉使いの人なのに、なんでこんな人が育ったのだろうか?ということだった。
今なら 間違いなく戦時中の教育のせいだということがわかるけれど、父が一生懸命働いたのは紛れもなく母とともに私たち姉妹を育てるためだったと思う。
何もないところから身を立てた。大阪に商売のノウハウを学びに出たときが一番貧しかったのではないかと思う。母はお腹の中に私、そして二歳年上の姉の手を引いて一円でも安い大根を買いに市場のはしごをしたと聞く。
住まいも二階を間借りしていたから姉のトイレの度に階段を上がったり降りたりした。栄養不足から母の乳は出ず、私はどうやらほんの少しの粉ミルクと、米のとぎ汁で育ったらしい。
私はこの世に生を受けたときに死にかけていたらしい?目は奇形だ。どんなのかというと、目の真ん中の瞳が分裂しているのだ。日本人だからわからないと思うけれど これがブルーの目だったりしたら、瞳の形がわかるから、きっと気持ち悪いと思う。
でもちゃんとものが見える目をいただいたことはありがたいことだ。ちなみに視力はずっと1.5だった。( 勉強しなかったからね。)
貧しさの故に( だと思うけれど)私のほかに兄弟が少なくとも一人はいた。どうやら流れてしまったらしい。貧しいとはそういうことなのだろう。
話はそれてしまうが、今の世の中でブランドのバックやお洋服を手にするために(それだけじゃあないかもだけど)男女の交わりをする、そして生まれた命を勝手にあの世に送り返す。なんていう話を聞いたりすると本当にむかつくんだ。
いわんや そういうことを子供にさせて、そのお金でぬくぬく暮らす親がいるなんていう話をきくと・・・それこそ
「 おんどりゃあ !」(= あんたねぇ~)と言ってむなぐら掴まえるかもしれない私がいる。( 最近は大丈夫よ。人様のことにかかわらない自分いるんでね。)
わたしは戦争によって父の星が全部ひっくり返って行った印象をもっている。骨の髄までしみこんだ軍事教育と民主主義の教育を受けて育った私たちの世代とのギャップは大きいのだろうと想像する。
今 私はうどんやでパートのおばちゃんをしているが、お金をいただくということは本当に大変なことだ。なんの職業についてもそれは一緒なのだろう。
お金のことだけを考えたならば、とっくにやめているだろう仕事だと思う。
何よりきついのは みなさんが私のことを育てようとしてくれているのだけれど、その気持ちに応えられない自分の能力。ふがいなさ。
50以上のメニューの暗号はとてつもない変化をとげ、何とか注文をとる、とかレジうちをする仕事までたどりついたような錯覚の中にいたのだけれど、デシャップ?とかいう仕事に入った途端、その仕事の煩雑さにすっかり怖気づいてしまった。
> たとえばこんな感じ・・・
○○定食というメニューがあったとしよう。
その定食につくおうどんにはねぎとおかかと昆布がのっかる。ところがこれが一端冷たいおうどんとなるとのっかるものが変化するんだ。
定食もののおうどんがみ~~んな同じ風に変化してくれればいいのだけれどそうは問屋がおろさないわけで、このうどんは違うトッピングで・・・。
しかもそこにもっていって、レンゲをつけたりつけなかったり、小鉢をのせたりのせなかったりわけわからん状況におちいっているんです。
だ~け~ど~
この仕事しながら 思うんだ~
68歳まで現役で体使って働いていた父のこと、姉さんがぼやいていたっけな、配達のあと、おつりもらってポケットにいれたまんま忘れていたりすることがあったって。
マンマミーヤ・・・わけわからん授業にじっと耐えて座っていること。できないことはできないし、わからないことはわからないんだ。
わが とうちゃん。これだけの財を稼ぐのは 大変だと思う。ホント冗談ぬきで大変だと思う。
ジャパン 同様。多分 芸術家の星を持つ彼女にはあまりあわないだろう内容のお仕事 がんばっているのね~~。
父が越えられなかったもの それは多分自分を無くすこと、
俺がこんなに働いているのにという思い・・・?
こだわったお店?
そっぽむいていた家族?
ちょっとわからない 途中からぬけたから。いずれにせよ、家族というのは理解しあえないものなのではないかと思うようになった。星が違うんだ。
それでも 日々の生活の中で少しでも相手のことおもんばかる私に変化をして円満なる家庭生活に近づく努力はしなくてなならないだろう。
父から受け継いだくじけない こころ・軍人の魂 それを大切にしよう!
すぐ怒鳴ったり 怒ったりすることは避けたい。価値観のおしつけ!( やっとりました。)
多分それが父があの世で一番望んでいること。
そう思う。