地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

黒の水引とんぼ    その1

2007-08-06 08:15:16 | ある被爆者の 記憶
 五代目与次兵衛の子供が与三次、名前の上では、いかにも父子らしい。ただし、本当は与三次は家つきの娘かねの婿養子にきたらしい。とにかく、与三次とかねとの間に生まれた子は、また与三次を名告っている。つまり、宮川家七代のうち、与次兵衛と呼ばれなかったのは、この与三次だけである。本来ならば、与三次が、この家に入ったとき、与三次が六代目与次兵衛を名告るべきで、それが名告れていないことは、何か特別事情があったと考えられる。私の父、宮川与次兵衛は、五代目と母かねのことは語りはしても、父与三次のことは語らぬばかりか、故意にそうしているのだと思われたし、実際記憶にないのではないかと、私などは勘ぐっていた。
 我が家の古ぼけた仏壇の中には、与三次とかねの位牌がないことを私はとうから知っていた。
 ただ、とうから知っていたといっても、そのとうからの時期は分からない。物心つく頃の記憶というのは、時期がない。前々からの記憶という外ない。
「盆にとんぼとりしちゃあいけん。それにみちょれ。盆になると、黒い水引とんぼが出てこようが。あれはな、あの世に行ちょっての人がこの世へ戻って来ちょっての姿じゃけえー。
そういうてな、お前のことを、ほんま、とんぼとりの好きな子じゃちゅうてな、お前の尻ばかしついて、よう孫の守しよりんさったが。・・・お前はようおぼえちょらんじゃろ。」
その通り、私は何ひとつ父方の祖母のことは覚えていなかった。それでも、父は私に祖母の印象を植え付けるためかと思われるほどに、何度もこの話をした。
「あれが最後じゃったのう。あれで、もういなくなってしもうたんじゃ。」
 父の語りはこれで終わる。自分が、自分の母を偲ぶ心も混じっているから、実感がこもって聞こえる。「あれが最後」という「あれが」が子どもの私に分かるはずがない。
けれども何度も聞いているうちに、なんだか祖母の顔が見えてくる気がして、黒い水引とんぼと祖母の顔が交錯するあたりに、あれが最後のあれだろうと決めていた。
 「あれが最後」というのが、「人生の終焉」を意味することを知らしめられたのは、全く黒い水引とんぼを例に引いてくれた祖母のおかげかもしれない。そしてその話を繰り返して私に聞かせた父を持ったためでもあろう。
 私にとって、この最も古い記憶が、「人生の第一歩」として輝かしく画きはじめられるのではなく、黒い水引とんぼをあしらった暗い印象から始まるように決定づけるのは、もう一つの昔の思い出を持っているからである。
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黒の水引とんぼ   その2

2007-08-06 08:14:30 | ある被爆者の 記憶
  「みんな。ここへ来とうみ。」
 もう子供たちは眠るばかりの時刻だったろうか。どうしても季節は思い出せない。
 外から帰ってきた母が、何やら外聞を憚かる様子で、座敷の中央に座った時、子どもたちは、何事か身に迫る異変を感じた。母がこんな真剣に、しかも、しきりと外を気遣った目配りといい、その外とこの内の母と子ども三人の動静とは関係があるのだなと思うと、体が硬ばって来た。それに気がついてか知らずしてか、兎に角、母は、母鳥が両翼を精一杯ひろげて雛を囲うような具合で、それでいて、無理にでも落ち着くんだと平成を装うから、三和の雛は、この場の空気に会わないような声も問いも発してはならないと思った。ただ首をすくめて、次に聞かれるであろう母の口元を見つめた。
「永松の四郎さんが、なあ・・・。」
 わざと声を押し殺していることによって、詳しい事情はまだ何一つ聞いていないのに、やっぱりと思わずにはいられなかった。いや、そう思うことが、この場のルールのように思われた。
 もちろん、小学四年生と二年生であった私と私の弟とは、そのルールに従いながら、そのやっぱりという感情に符号して、回帰すべき割符を持っているわけではなかった。
 でも、姉のすみ子にはそれがあるらしかった。なぜなら、永松四郎と姉のすみ子とは、四郎が無事除隊でもしてくれば、おそらく似合いの若い夫婦として、順調に祝福される段取りが用意されていたからである。
ー私は今でもそう思っている。もしも、四郎さんが、平時のような三月志願兵であったら、難なく軍隊をつとめ上げて、あの江戸前仕込みのいなせな男っぷりで、またこの田舎町を闊歩したにちがいなかったろうし、その時には、姉のすみ子と評判通り結婚していたと思う。
 しかし、そういう思いが強まる時ほど、その実現には、蹉跌の忍び寄る不安が大きいことを、私はぽつぽつ感じ始めていた頃であった。私が早熟だったからではない。人が幸福になろうとする悲願は人目を憚った私事であり、私事は公事の前にはひとたまりもなく、お日様がが出ると、忽ちにして消えてしまわなければならぬ芝露のようにはかないものと、思い慣らされてきていたのである。
 それが、戦時体制に突入していくその頃の特徴であたのか、あるいは全く別に、日本人特有の体質で、大げさにいえば、お家の一大事好きからくるものか、それとも、日常的にいえば、はにかみやで照れ性の私自身のなす業なのか、私にはまだ分からなかった。
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黒の水引とんぼ   その3

2007-08-06 08:13:40 | ある被爆者の 記憶
 母親の顔つきは一段と険しくなった。
「誰にも言うたらあかんで。永松の家のぐるりは、憲兵さんが見張ってはるんや。」弟のみずほが、ぶるるっと大きく震えたが、それを見て、母も姉も、そして私も笑わなかった。本人も照れ笑い一つしなかった。
 憲兵さんが永松の家のぐるりを、どうして見張っているのか、弟がなぜそのことを尋ねないのか、私は不思議だった。かといって、私に全てがのみ込めているわけではない。おそらく、弟と私とは同じ程度の理解でしかなかったろう。それだけに私はなおのこと、弟に、もっと深く質問させてみたかったのにちがいない。自分ではとても尋ねられなかった。
 ー今にして思えば、詳しく四郎さんのことを知りたいと思う者ほど、尋ねられなかったのであろう。すみ子姉がその折、発言した記憶が私にはない。もっとも子どもたちの誰かが質問していたとしたら、母は何と答えるつもりだったのだろうか。母さえ、永松の家族や憲兵の誰かに会って、四郎脱走の情報を掴んでいたわけではあるまい。直感で、そう思ったのにちがいない。最悪の事態の到来として、永松の家の周辺を見張る憲兵の物々しさから、そう判断したのに決まっている。
私たちは、夜が深まるにつれて、外界の全てを音だけを頼りに知り尽そうとした。緊張に耐えられなくなっては、かわるがわる太い息を吐いた。そしてまた時々刻々緊張に身をこわばらせた。
 突如、水鳥の羽ばたきよりもあわてた、浅瀬を突っ走る音がした。
 「待て!」
と言ったかと思うと、銃声一発、異様な轟音を永々と残して消えた。黒岡川の両岸の石垣が、音響板代わりになったのである。
足音が、ぴたっと止んだ。
四郎さんが撃たれた。ー 見もしていないのに、疑いもなくそう思った。
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黒の水引とんぼ   その4

2007-08-06 08:12:15 | ある被爆者の 記憶
永松四郎の家は、黒岡川を挟んで、私の家の向かい側にあった。本当は、幅十米内外の掘割という言い方の方が正しいのだけれども、土地の人は、殊更にそれを黒岡川と呼んでいた。
 江戸城修復の際、利根川の流れを迂回させたことは、よく知られていることだが、実は、その小規模な姿が、この黒岡川である。こんな我が家の傍にもお城づくりの名残りがあった。
元来、篠山という丘陵にぶつかるようにして流れていたものを、川筋を町の外郭を回るように、しかも合戦の場合は、そのまま、外郭の第一線防禦のクリーク転用に役立たしめる、常套の築城術であったのだろう。
 自然の水路を人工によって変えた川筋である。有事の際に奏功する利点は、平時においては往々そのことそのものが、被害の原因となることが多い。この黒岡川はよく洪水し、よく干上がった。
 この掘割に橋を架けたのが、永松四郎の父である。橋といっても、掘割の真中に二本の杭を打ち、それに丸太二本を渡し、横板を打ちつけるといった簡単なものであったが、それもそのはず、それを渡るのは、永松の家族と、私の家族の往き来のためだけのようであった。
 というのも、篠山の道路がアスファルトの舗装工事された昭和十年、四郎の父はそれを請負って、どこからかこの町にやってきた土方の頭で、その家族に借家を見つけてやったのが、私の父という因縁による。
 今でこそ、道路の簡易舗装など、人は殆ど目もくれないが、古い城下町の表通りを、ローラー車を擁した荒くれ男がわめきたて、連日、濃いチョコレート色をした油と、タール状の砂とでもって、無表情な平面を展開していくさまは、木と藁と紙で出来た座敷の中を、戦車が駆け抜けていくようでもあり、その痛々しさに、この土地のものたちは顔をそむけながらも、一方、この道路工事に見とれていた。
 古い町の市街化への最初の改造を協賛しなくては時代遅れになるという虚栄と、もう一つは、このローラー車に乗った若い男の、江戸っ子とはかくあらんと思わせられる風貌と言動とが、土地の人々を魅了していたからである。
 ローラー車に乗った若い男が、永松四郎であることは言うまでもないが、この四郎がもてた何よりの原因は、大げさなことを言うようだが、この事件から十何年あとに起った、厚木飛行場に降り立ったマッカーサーに、日本人が羨望と魅惑の情を禁じえなかったあの条件と同じものを、この青年は備えることが出来ていたことのように思う。コーンパイプこそくわえていなかったが、サングラスをかけた四郎の横顔を、今も当時の篠山の人たちは覚えているだろう。 
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黒の水引とんぼ   その5

2007-08-06 08:11:51 | ある被爆者の 記憶
その四郎が、事もなげに、半日ほどで架けられた橋を渡り、これまた、まるで子どもの頃からそうしていたように、私の家に遊びに来るようになっていた。
他所者を受けつけない風習がかなり強いこの土地の目を尻目に、この板橋の上を私どもの家族の者までもが渡り始めたのも、そう日数をおいてからのことではなかった。
 弟が何かしたはずみに、「駄目じゃないか」と、覚えてきたばかりの東京弁を口にしたりするようになっていたが、人見知りの強い私だけは、その橋も渡らなかったし、永松の誰とも口を利いてはいなかった。そのくせ、誰よりも親しくなりたかったが、弟のように、東京弁で答えなければいけないように決めていた。
 ところが、ある日の、学校からの帰り道に、私は四郎さんに、出会い頭に声をかけられてしまった。
 私たちの通学路は、町の表通りから外れており、道路工事のローラー車の音が、家並みの向うに聞こえるときは、四郎さんの歯切れのよい啖呵を耳にしたように、心が弾んだりしていたが、まさか、そのローラー車に乗った四郎さんが、私自身の歩いている道の横合いから、突然姿をあらわして来ようなどとは思いもかけず、私は一瞬、自分の歩いている道が、いつもの道かどうかを疑った。紛うことのないいつもの道である。
「坊や。」
 確かにそう呼ばれた。この町では、この言葉は文字の上で見るだけのことで、どんな富裕な大家にあっても使用されていなかった。「坊や」と呼ぶ場合は「ぼん」である。私は「ぼん」とも呼ばれる身分の子ではなかった。ましてや私のことを「坊や」とは、顔がくわっと熱くなるのを感じた私は、あたりがまぶしかった。
「・・・みずほちゃんじゃなくって、ほら、なんて言ったっけ?ええっと・・・。」
 みずほは弟の名である。
 エンジンの音がうるさかったが、私の耳に四郎さんの声ははっきり聞きとれた。私の名を言わなくてはいけない、そう思った。でも、私は返事をしないかわりに、私の耳に手を当てて、よく聞こえぬふりをした。他の工夫たちも、みなこっちを見ている気がした。
「あっ、てるほちゃんだ。そうだね。」
 私はこっくりと頷いてみせるのが精一杯だった。そのくせ、私は四郎さんの筋骨隆々とした肩先と、胸元まできりっと巻き上げた晒の白さが、まぶしいほどに私の眼を射たことを忘れない。
 私は、他のことは何も考えずに、その映像ばかり見ながら、我が家まで帰った。
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黒の水引とんぼ   その6

2007-08-06 08:10:59 | ある被爆者の 記憶
 この時の話が、永松から我が家に早速伝わったのであろう。「はずかしがり屋のてるほちゃん」の汚名か愛称かのいずれかで、両家の大人たちは、私をわざと確認するみたいだった。そうでなくとも、私は「はずかしがり屋」に相違なかった。そして実を言うと、対人的にはずかしがり屋というよりも、私自身の抱く妄想を見破られぬために、私の心を閉鎖する。
 私自身の中に、こっそりと抱いた妄想というのを、今になって言葉にしてみると、人間の肉体に関してであった。しかし、肉体に関しているからそう言うまでだけれど、その時の幼な心が、そう知っていたわけではない。知るというのと感じるというのは別だ。私ははっきりと、四郎さんの胸元から肩先へかけての映像が、私を魅了していたことを憶えている。特に、胸元高く巻き上げた晒の白さも手伝って、少年の心に、男が美の対象たり得ることを悟らしめた最初であったといえる。
 その四郎さんの男の肌に、私が手を触れる機会がこようなどとは、私は息の根が止まるほど、動悸が打って苦しかったことを思い出してしまう。
 例の橋を渡って、私の家の前を通り、四郎さんは仕事を了えると、すぐ近くの銭湯へ行くのが日課であった。
 右手に洗面具を持ち、仕事の時と同じように、上半身を蔽うものといえば、例の晒だけだった。風呂に行くときに仕替えるのであろうか、それは汗ばみもしていなかった。まさしく純白であった。
 私のはずかしがり屋が喧伝されて間もない頃である。家の前の通りに、打ち水をみずほといたずら半分にしていたのだから、おそらく夏の夕方にちがいない。
 「や、お利口だナ。」
相変わらず威勢がよく、歯切れのいい四郎さんが、私たち兄弟に声をかけた。その途端、私の体がすっと宙に浮いた。私は目の前のみずほが、あの四郎さんの腕の中に抱えられているのを見て、自分も同じ状態にいることを知った。
 「いいかい。兄(あん)ちゃんがお風呂につれてっちゃう。」
 兄弟ふたりとも、これ以上の不安がないほどに不安でありながら、つとめてその不安を隠し、またこれほどの欣快も味わったこともないのに、手放しで欣快であることをつとめてひかえた。 
 
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黒の水引とんぼ   その7

2007-08-06 08:09:47 | ある被爆者の 記憶
あれは 錯覚なのだろうか。絵本で見た茨木童子の腕が、四郎さんの腕についている。まちがいなく鬼の腕が四郎さんの腕なのである。私は目まいを感じた。
 私はこの時、生まれて初めて、男というものを見た。そして、資格において自分も男だが、男湯と女湯と区別された暖簾を分けて入るそんな性別とは全く関係なく、本当に男というものが私の頭を支配した。それにひきかえ、四郎さんの男っぷりにすっかり感動している私は、どうしても、男というより女だと情けなかったが、どうしようもなかった。
 どの時、どんな場合だったか、もうそれは思いだせない。湯船の中だったような気もするが、はずかしがり屋の私が、四郎さんといっしょに、湯船の中につかっていることなど、とても考えられないから、全然別の場所であったかもしれない。けれども、はっきりと、私は、この鬼の腕に、彫りものがしてあったことを忘れはしない。また、忘れることが出来ない文字が記されてあった。
 志乃いのち、ただそれだけだったが、左の二の腕にはっきりと読めた。
 どうも、それが、湯の中で、肌と刺青との染まり具合を、気づかれないように、そっと瞳を凝らしたような気もするのだが、記憶の誤りであるかもしれない。
 小学校二年でありながら、志乃いのち、の文字が私に読めて、何のことだか当たらぬとも遠くない見当がつけられたのは、私の生まれ育った環境のせいである。
もちろん、当時の私に、それが読めた理由が、私のおかれた環境が特殊であるからだとまで、分っていたわけではない。
 実は、四郎さんが、真新しい晒を胸元高く巻いて、日課のように、例の橋を渡って、私の家の前を通って、小粋に銭湯に通った理由も、さらに、私の父が永松の人たちのために、他国者を嫌う土地柄でもあるのに、平然と借家を見つけて住まわせたことなども、私の生まれ育った特殊な環境が然らしめたことを、さすがに私も大人になるまで気がつかなかった。
 私は、色町に育っていたのである。
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黒の水引とんぼ   その8

2007-08-06 08:08:49 | ある被爆者の 記憶
 永松が他国者なら、私の父もまた他国者であった。だが、母は、代々この土地に住みついた町方役人の娘であった。けれども、父は養子ではない。位牌の数と、父の語り口とを合わせてみると、宮川家七代目当主であって、美作の庄屋もつとめたほどの百姓の倅であった。
 父はわざと母のいる前で、生家の自慢話をした。
「宮川家の家の田地田畑は、どこそこまで行くに、人さまの土地を踏むことはなかった。」
 こういう物の言い方を珍しがったり、田地田畑、人さまなど知らぬ単語に、子どもの日常生活の外に生きている大人の世界を不思議がったりしたが、結局は、この土地者の母に対する父の虚勢であることはよく分かった。
「 そこにいくとな。山路の家が武士だと言んなはってもな、せいぜい、こまかな、町方役人言うてな。不浄役人、木っ葉役人とも言いますんや、ええか。」
と毒づいて見せたが、どういうものか町の人と話すときは、まちがいなく、この土地の言葉で話すのに、子どもに向かっては、平気で岡山弁を使った。
 ところが、母の方が、またかという顔すら見せず、そうかといって追従笑い一つもしない。全く耳にも入らぬ素振りが、子どもに中立の立場を守らせて、却って、どうして父はこの地に流れてきたのだろうという疑問を起こさせた。
 母は働いた。父は好きこのんで働いているとはいえなかった。母は、私たちの住む家とは別棟に芸者を置き、父を検番に通わせていた。いつからそうなのか、私は知らない。私が知った時には既にそうであった。こんな母中心の生活体制が、父の気に入らない原因を作っていたのだろうけれども、父の性分を見定め、他国者が遠慮なく生きられる世界として、色町を選んだ母は賢明であった。
 だが、色町は所詮、女の才覚で生きるところである。母はまさしく、この女の才覚と頑張りとで家を支えた。だから、こんな母の監督の下で、子どもたちは厳しく躾けられて、何一つ、特殊な状況下で育っているなど考えてみたこともなかった。
 だが、おそらく、永松四郎に、異常なまでに男というものへの憧れを思わせられたのも、四郎出現以前の我が家の環境が、あまりにも女ばかりの、女の感覚と体臭で塗り籠められた、女が采配を振う世界であったからであろう。
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黒の水引とんぼ  その9

2007-08-06 08:07:29 | ある被爆者の 記憶
この界隈に男がいないわけもないが、その男たちは、女たちに追従を言い、追随することが仕事でもあった。少なくとも私にはそうみえた。
 時には旦那と称する男たちの姿を私も見ている。しかし、この旦那衆も、結局は、あまり頭もよくない女たちの手玉に、馬鹿々々しいとは思っているにちがいないのだろうに、上機嫌そうに、ほいゝとのってる顔つきは、どう見直しても淫らで汚らしいものでしかなかった。だのに、旦那衆は、その緊まりない顔を改めようともしない。思わせぶりな表情を先にして、そのあとで、やおら言葉が、口の奥で、何か二言、三言、ゆっくり声になるのが、大旦那の特徴のようであった。
 私は、この芸者にはどの程度の旦那がつくか、もちろん子ども心の直観だから資財力に関することではないが、新しい芸者が抱えられてくると、その芸者のこの土地での売れ行きの予想も含めて、なぜだか、これからの運勢をひとり勝ってに思いやったりした。ひとり勝手にといっても、このことは私にとって、決していたずらやわるさ遊びに似たものではなかった。私は今でも、仕込みっ子から売れっ子の芸者、年増芸者のそのいずれにも共通して、その横顔のどこかにある翳りを思い出すことができる。その翳りがあるから芸者なのだ。私はこの翳りのために、この土地での渡らいの安全を願ってやっていたように思う。
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黒の水引とんぼ   その10

2007-08-06 08:06:41 | ある被爆者の 記憶
母に覚られないようにして、私はよく検番に遊びに行った。普通なら、子どもが父の勤め場所などに行きたがるはずもないが、私にしてみれば、そこは、父のいる場所ではあっても、父の勤め場所とは思ってもみなかった。また、父はそこにいても、働いているとか仕事しているとかいうふうには見えなかった。だから、私にとって、家が二軒あるようなものであった。父もそんなつもりだったのではないだろうか。だいたい人に使われるふうな人ではなかったし、そんな姿を見たことはない。もちろん、父も私の手を引いて検番に連れて行きもしなかったし、一度として来いと言いもしなかったが、私がひとりで行って、特別な顔をする人でもなかった。
私が検番に顔を見せると、芸者たちはどうしてもちやほやする。私は芸者が甘やかしてくれるのが嬉しくて出かけるのではなかった。芸者たちに甘やかされて、それがいいから出かけるという賤しさを、母が極力嫌っていることを私はよく知っていたし、この世界が却って賤しさに反撥するところであることも、もうどこかで分かりかけていた。
 芸者の、私への甘やかしもいろヽあった。私の父や母に対する思惑からのサービスであったり、商売柄の儀礼みたいなのから、本当に子ども好きで無心に可愛がってくれるのまであった。
 案外、私は冷ややかな振舞いをする芸者の方が魅力的で、本当に大事にお相手してくれる芸者はうるさかった。そういうのに限って、赤ちゃん扱いされている自分を感じてしまうからであった。
 私は誰からも構われなくても、検番で充分独り遊び出来た。帳場は、当時としてなら、なかなか合理的で、小学校の職員室より立派だったろう。板敷は、顔が写るほどに磨きあげられ、子どもにとっては、かなりの広さのように思われたし、その中央に、篠山で一番大きいにちがいないと思われた大テーブルがあった。外との仕切りには、欅の一枚板でカウンターをいっぱいに連ね、正面、天井近くに、お稲荷さんを祭る神棚の大提灯が下がっていた。
私は、今でも、その大テーブルの上に置かれたものの一つゝを、はっきりと憶い出すことができる。 
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