マンマミーヤが中学校を卒業した。
この3年間は長いようで短いようで・・・。いや~やっぱり長かったかな?
大袈裟にいうと一日一日が闘いだった。ほぼ一年前 私達母子はおうちを出て二人暮らしをはじめたからね。あの時、二人とも、肉体的にも精神的にも限界点がきていたと思うんだ。
家庭がうまくまわらなくなってから はた?と気づくのよね。(遅すぎなんだけど)
そういえば恩師の上原先生が言ってたっけ・・・?
子どもがその学校に出かけてまあ平均以上のところくらいに位置できる(学力的に)のがよろしいのではないかと・・・。(→もっと大切な教えがあるけれど)そういったアドバイスは自分達が、どつぼにはまってからふと思いだすのよね。(そんなもん、そんなもん)
占いの知恵だってそういえば・・・?でしたね。って感じ。占いではそうだけど、だって本人の希望だってあるじゃん、何て思ってたし・・・。
中学受験のとき、私達夫婦はそれでもそれなりに学校訪問をしマンマミーヤにふさわしいとおぼしき学校に、本人の希望もきき、選択し、合格をいただき、通わせた。
見ていたはずのものが見えてなくて 聞こえていたはずのことが聞こえてなくて・・・。
「ちょっと前まで、ピンポンダッシュをしていた学校ですよ。」なんて塾の先生が言うものだから (おもしろそうじゃん。)って思ったりもしたけれど・・・。
とうちゃんだって 「子供達が靴下その辺に脱ぎ散らかして トンカチ トンカチ 学園祭の道具作ってたぞ~。」って言っていたし・・・。
二人(夫婦)の中では 楽しそうな学校というイメージだったけれど・・・認識が全く逆だった。スパルタで勉強をさせる学校だったんだ。
知らなかった。入学式の日 たまたまお友達になった4人のおかあさま方に聞いてびっくりだった。ここはお勉強をさせるので有名な学校なんだそうな・・・。(うそぉ~)
しかし 何もこの学校に限ったことではない。どこの私立の学校もいまどきはそんなものらしい。そこここにもっとすごいのがあるらしい。
>>> 式 >>>
規律正しく、卒業証書を頭の上に押し頂いて、頭の上から下ろさないで持ち帰る、というか壇上から下がる。いまどきこんな学校は滅多にないよな。
こういうところ、古い人間のわたしは決して嫌いじゃあない。むしろ好きなんだ。だけど人間の価値が唯一勉強(大学進学の受験勉強)にあり!みたいな感覚がどうしてもだめなんだ。受け付けない。
もちろん学生(生徒)の本分は勉強だと思うけれど、それ以上に大切なものは人間教育なんだと思う。
マンマミーヤが好きだと思う臨採の先生達はみな1年で辞めていったらしい。授業の説明がよくわかり授業外でも熱心に教えてくださったある先生は、自ら辞めたのか、やめさせられたのか、契約だからなのかはわからないけれど去っていったらしい。(カム、バ~~ック)
何でこういう先生がいなくなるのかはわからないんだけれど・・・(仕方なかんべな、去るものは追わず。)
とうちゃんとも話したんだ、今時の学校は予備校であると。こころの方はむしろ個人塾にて整える。それ以上に家庭が大切だと。やっぱりね、こころの教育は家庭よね。家庭。
高校から私達夫婦は マンマミーヤの学習に参加することとした。
マンマミーヤ大丈夫だ!とうちゃんがついている!かあちゃんもついている。(お茶だす係り?)
兎にも角にも中学校の卒業証書を手にできたことは大きな喜びだ。助けてくださったお友達、お母さん達ありがとう! 先生達にもやっぱり それなり ありがとう!
一日 一日 高校卒業目指してみなで頑張ります。
折りしも恩師のおつくりになった児童の言語生態の研究会から 恩師の十三回忌の御知らせが届いた。ご子息にも研究会の方々にも会わす顔がないのだけれど・・・それでもでかけようかな?と思っている。いつの日にか高野山に植えた桜を何とか持ち帰りたい。そんなことができるのかはわからないんだけれど・・・。(挿し木ってできるんですか?)
たぬきせんせ~~い。いまや 学校の時代じゃあないと思いま~~す!いつの日か
和修塾 お山の中に作りましょう~~。今時は 寺子屋で~~す!
田舎の方には ただで貸してくれるおうちあるらしいです。(よくしらないけど)
水 清く 澄みて
こころやすらかに
こころさだまりて
とこしえの いのち かがやける 学びや
いいのよ 夢くらい語らなくっちゃやってらんないんだから。(ふん!だ。)
>写真は恩師の為に高野山に植えたさくら。運よく植えなおしていただいたので 陽のあたる場所、公園のところに移動していただいた。そうでなくてはおそらく枯れていたのではないかと思われる。
525本の桜は、高野山の役所の方々が、お忙しい自分の時間をさいて(自腹もききっているのかな?)守ってくださっている。
いつか かならず会いにいくんだ。満開のさくら。
この3年間は長いようで短いようで・・・。いや~やっぱり長かったかな?
大袈裟にいうと一日一日が闘いだった。ほぼ一年前 私達母子はおうちを出て二人暮らしをはじめたからね。あの時、二人とも、肉体的にも精神的にも限界点がきていたと思うんだ。
家庭がうまくまわらなくなってから はた?と気づくのよね。(遅すぎなんだけど)
そういえば恩師の上原先生が言ってたっけ・・・?
子どもがその学校に出かけてまあ平均以上のところくらいに位置できる(学力的に)のがよろしいのではないかと・・・。(→もっと大切な教えがあるけれど)そういったアドバイスは自分達が、どつぼにはまってからふと思いだすのよね。(そんなもん、そんなもん)
占いの知恵だってそういえば・・・?でしたね。って感じ。占いではそうだけど、だって本人の希望だってあるじゃん、何て思ってたし・・・。
中学受験のとき、私達夫婦はそれでもそれなりに学校訪問をしマンマミーヤにふさわしいとおぼしき学校に、本人の希望もきき、選択し、合格をいただき、通わせた。
見ていたはずのものが見えてなくて 聞こえていたはずのことが聞こえてなくて・・・。
「ちょっと前まで、ピンポンダッシュをしていた学校ですよ。」なんて塾の先生が言うものだから (おもしろそうじゃん。)って思ったりもしたけれど・・・。
とうちゃんだって 「子供達が靴下その辺に脱ぎ散らかして トンカチ トンカチ 学園祭の道具作ってたぞ~。」って言っていたし・・・。
二人(夫婦)の中では 楽しそうな学校というイメージだったけれど・・・認識が全く逆だった。スパルタで勉強をさせる学校だったんだ。
知らなかった。入学式の日 たまたまお友達になった4人のおかあさま方に聞いてびっくりだった。ここはお勉強をさせるので有名な学校なんだそうな・・・。(うそぉ~)
しかし 何もこの学校に限ったことではない。どこの私立の学校もいまどきはそんなものらしい。そこここにもっとすごいのがあるらしい。
>>> 式 >>>
規律正しく、卒業証書を頭の上に押し頂いて、頭の上から下ろさないで持ち帰る、というか壇上から下がる。いまどきこんな学校は滅多にないよな。
こういうところ、古い人間のわたしは決して嫌いじゃあない。むしろ好きなんだ。だけど人間の価値が唯一勉強(大学進学の受験勉強)にあり!みたいな感覚がどうしてもだめなんだ。受け付けない。
もちろん学生(生徒)の本分は勉強だと思うけれど、それ以上に大切なものは人間教育なんだと思う。
マンマミーヤが好きだと思う臨採の先生達はみな1年で辞めていったらしい。授業の説明がよくわかり授業外でも熱心に教えてくださったある先生は、自ら辞めたのか、やめさせられたのか、契約だからなのかはわからないけれど去っていったらしい。(カム、バ~~ック)
何でこういう先生がいなくなるのかはわからないんだけれど・・・(仕方なかんべな、去るものは追わず。)
とうちゃんとも話したんだ、今時の学校は予備校であると。こころの方はむしろ個人塾にて整える。それ以上に家庭が大切だと。やっぱりね、こころの教育は家庭よね。家庭。
高校から私達夫婦は マンマミーヤの学習に参加することとした。
マンマミーヤ大丈夫だ!とうちゃんがついている!かあちゃんもついている。(お茶だす係り?)
兎にも角にも中学校の卒業証書を手にできたことは大きな喜びだ。助けてくださったお友達、お母さん達ありがとう! 先生達にもやっぱり それなり ありがとう!
一日 一日 高校卒業目指してみなで頑張ります。
折りしも恩師のおつくりになった児童の言語生態の研究会から 恩師の十三回忌の御知らせが届いた。ご子息にも研究会の方々にも会わす顔がないのだけれど・・・それでもでかけようかな?と思っている。いつの日にか高野山に植えた桜を何とか持ち帰りたい。そんなことができるのかはわからないんだけれど・・・。(挿し木ってできるんですか?)
たぬきせんせ~~い。いまや 学校の時代じゃあないと思いま~~す!いつの日か
和修塾 お山の中に作りましょう~~。今時は 寺子屋で~~す!
田舎の方には ただで貸してくれるおうちあるらしいです。(よくしらないけど)
水 清く 澄みて
こころやすらかに
こころさだまりて
とこしえの いのち かがやける 学びや
いいのよ 夢くらい語らなくっちゃやってらんないんだから。(ふん!だ。)
>写真は恩師の為に高野山に植えたさくら。運よく植えなおしていただいたので 陽のあたる場所、公園のところに移動していただいた。そうでなくてはおそらく枯れていたのではないかと思われる。
525本の桜は、高野山の役所の方々が、お忙しい自分の時間をさいて(自腹もききっているのかな?)守ってくださっている。
いつか かならず会いにいくんだ。満開のさくら。