児童の言語生態研究会から資料が送られてきた。今年の研究会の合宿は夏の広島で行われた。( 於:広島大学 )
ワタシが会員だった時にとても憧れていた、大好きなノリ子先生のお話( 上原先生の紹介 )は今の日本の教育界が忘れてしまっている、子供の大切なこころを育てるための素敵なメッセージであると思う。
< 広島大学での研究発表 上原輝男先生の紹介 > 2009年 8月 2日
ノリ子先生・・・
今、「 徹子の部屋 」に出演された時の上原先生の懐かしい映像を見て、また先生の声を聞き、感無量です。
上原先生は、1968年、今から四十一年前に児童の言語生態研究会を立ち上げられました。ちょうどその年、ワタシは四年間の学びを終えて保育の現場へ入っていこうとする時でした。
現場に出ていこうとする若い保育者に、上原先生は、きまって厳しく、強く、あたたかくおっしゃった言葉があります。これは皆が覚えている言葉ですが、
「 君たちがしっかり心に刻んでおかなくちゃいけないのは、成長しようとしている子どもは、君たちよりずっとすばらしいってことです。」という言葉です。
子どもの生命が発動するところをしっかり見届けなさい。こどもたちの姿を見守り、子どもたちの声に耳を傾け、人がどう育っていくのか、生命の輝きを見つけなさい。人間の子どもの生きる姿(生態)を見届け、成長する一人ひとりの心のそばにいなさい。と言って私たちを送りだされました。
『 感情教育論 』 の冒頭に、
「 教育は投薬ではない。それは生まれ出た人の子が、人の心を獲得していく過程を保証することである。」
とあります。また「 保育者五戒 」として次のような言葉があります。
一、目の輝きぐあいを見守っているか。
一、心の鼓動を聴こうとしているか。
一、指先を見落としていないか。
一、ことばの音色を聞きつけているか。
一、人なつっこさに応えているか。
私たち児童の言語研究会の仕事は、まさに、成長する子どもの「 目の 心の 指先の 」鼓動を聴き、人なつっこさに応えていく仕事なのです。子どもたちの伴走者として、子どもたちのそばにいて、いっしょに歩み続けることだなあと思っています。
上原先生は私たち一人ひとりにとっても、私たちの心に共鳴し、感受性を保証してくださる大切な存在でした。
今日の模擬授業は詩を材料とした授業でしたが、私も子どもの頃、学校の自由研究の時間に沢山の詩を読み、ノートに書き写していました。
今でも鮮明に覚えている詩があります。きれいな花びんの絵とその横に書かれていた詩の一節、それは、
「 さわらないでください。こわれているのです。」 というフレーズでした。美しい器の痛みを幼いなりに聞き取っていたのでしょう。今でもよく覚えています。
その時のことを上原先生に話した時、
「 鳥肌が立つ 」とおっしゃいました。私もこの詩を読んだ時、その器の痛みを感じて、子どもながらにも鳥肌が立つ感覚を味わったのです。先生は私の感性を分かってくださる。その時私は、自分の子ども時代を一番深いところで先生に受け止めて頂いたように感じました。
上原先生は、児言態一人ひとりの会員にとって、私たちの大切な伴走者、私たちの感動に共鳴し、存在を保証してくださる大切な先生でした。先生が亡くなられて十三年が経ちますが、私たちはいまだに
「 子どもたちの生態を見守りなさい。生命を発動させ、成長しようとしている子どもたちの姿は本当にすばらしい。」という先生の声に叱咤激励されているのです。これこそ、私たちの、児童の言語生態の源泉だと思っています。
上原先生と児言態の仲間に心から感謝しています。
+++++ +++++
ノリ子先生は カラスとお話が出来る先生でした。ワタシは憧れましたが、だからと言って、ワタシはノリ子先生にはなれないのです。逆立ちしたってなれないのです。
美しい花瓶の絵と、「 さわらないでください。こわれているのです。」というフレーズに痛みを感じることのできる感性。それは、元々ワタシには備わっていないものなのか?備えようにもそれを備えさせる環境に恵まれることがなかったのか?この先、努力によって備わるものなのか?はわかりませんが、
今、ちょこっと、この感性が理解できるような気がしています。
”しかし、これを今のワタシらしく表現するならば・・・
姫( さわりんさんな。ようみんさい。壊れとろうがね。)
そんな感じかもしれません。
人はいろいろいていいのだし、いろいろいるからいいのだと思います。
児言態(=児童言語生態研究会)は、そんな 『 あの子 に この子 』 を みんな みんな 大切に育む。そんな研究会であったし、今もそうであると信じています。
子ども達の何を見て、何を聞きつけ、何を育てていきたいのか?そしてそれは 生の子ども をしっかり見つめるところから始まるのだと思います。そしてそのことは、また同時に 自分自身を見つめ考えることでもあるのだと思います。
まさしく 『 子育ては 親育て 』 であるとしみじみ感じる今日このごろ、
ワタシは子ども達の良き、伴走者であり、かつまた伴奏者でありたいと、そこを目指して歩きたいと思うようになりました。
訂正・・・
姫の台詞 書き換えました。
ワタシが会員だった時にとても憧れていた、大好きなノリ子先生のお話( 上原先生の紹介 )は今の日本の教育界が忘れてしまっている、子供の大切なこころを育てるための素敵なメッセージであると思う。
< 広島大学での研究発表 上原輝男先生の紹介 > 2009年 8月 2日
ノリ子先生・・・
今、「 徹子の部屋 」に出演された時の上原先生の懐かしい映像を見て、また先生の声を聞き、感無量です。
上原先生は、1968年、今から四十一年前に児童の言語生態研究会を立ち上げられました。ちょうどその年、ワタシは四年間の学びを終えて保育の現場へ入っていこうとする時でした。
現場に出ていこうとする若い保育者に、上原先生は、きまって厳しく、強く、あたたかくおっしゃった言葉があります。これは皆が覚えている言葉ですが、
「 君たちがしっかり心に刻んでおかなくちゃいけないのは、成長しようとしている子どもは、君たちよりずっとすばらしいってことです。」という言葉です。
子どもの生命が発動するところをしっかり見届けなさい。こどもたちの姿を見守り、子どもたちの声に耳を傾け、人がどう育っていくのか、生命の輝きを見つけなさい。人間の子どもの生きる姿(生態)を見届け、成長する一人ひとりの心のそばにいなさい。と言って私たちを送りだされました。
『 感情教育論 』 の冒頭に、
「 教育は投薬ではない。それは生まれ出た人の子が、人の心を獲得していく過程を保証することである。」
とあります。また「 保育者五戒 」として次のような言葉があります。
一、目の輝きぐあいを見守っているか。
一、心の鼓動を聴こうとしているか。
一、指先を見落としていないか。
一、ことばの音色を聞きつけているか。
一、人なつっこさに応えているか。
私たち児童の言語研究会の仕事は、まさに、成長する子どもの「 目の 心の 指先の 」鼓動を聴き、人なつっこさに応えていく仕事なのです。子どもたちの伴走者として、子どもたちのそばにいて、いっしょに歩み続けることだなあと思っています。
上原先生は私たち一人ひとりにとっても、私たちの心に共鳴し、感受性を保証してくださる大切な存在でした。
今日の模擬授業は詩を材料とした授業でしたが、私も子どもの頃、学校の自由研究の時間に沢山の詩を読み、ノートに書き写していました。
今でも鮮明に覚えている詩があります。きれいな花びんの絵とその横に書かれていた詩の一節、それは、
「 さわらないでください。こわれているのです。」 というフレーズでした。美しい器の痛みを幼いなりに聞き取っていたのでしょう。今でもよく覚えています。
その時のことを上原先生に話した時、
「 鳥肌が立つ 」とおっしゃいました。私もこの詩を読んだ時、その器の痛みを感じて、子どもながらにも鳥肌が立つ感覚を味わったのです。先生は私の感性を分かってくださる。その時私は、自分の子ども時代を一番深いところで先生に受け止めて頂いたように感じました。
上原先生は、児言態一人ひとりの会員にとって、私たちの大切な伴走者、私たちの感動に共鳴し、存在を保証してくださる大切な先生でした。先生が亡くなられて十三年が経ちますが、私たちはいまだに
「 子どもたちの生態を見守りなさい。生命を発動させ、成長しようとしている子どもたちの姿は本当にすばらしい。」という先生の声に叱咤激励されているのです。これこそ、私たちの、児童の言語生態の源泉だと思っています。
上原先生と児言態の仲間に心から感謝しています。
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ノリ子先生は カラスとお話が出来る先生でした。ワタシは憧れましたが、だからと言って、ワタシはノリ子先生にはなれないのです。逆立ちしたってなれないのです。
美しい花瓶の絵と、「 さわらないでください。こわれているのです。」というフレーズに痛みを感じることのできる感性。それは、元々ワタシには備わっていないものなのか?備えようにもそれを備えさせる環境に恵まれることがなかったのか?この先、努力によって備わるものなのか?はわかりませんが、
今、ちょこっと、この感性が理解できるような気がしています。
”しかし、これを今のワタシらしく表現するならば・・・
姫( さわりんさんな。ようみんさい。壊れとろうがね。)
そんな感じかもしれません。
人はいろいろいていいのだし、いろいろいるからいいのだと思います。
児言態(=児童言語生態研究会)は、そんな 『 あの子 に この子 』 を みんな みんな 大切に育む。そんな研究会であったし、今もそうであると信じています。
子ども達の何を見て、何を聞きつけ、何を育てていきたいのか?そしてそれは 生の子ども をしっかり見つめるところから始まるのだと思います。そしてそのことは、また同時に 自分自身を見つめ考えることでもあるのだと思います。
まさしく 『 子育ては 親育て 』 であるとしみじみ感じる今日このごろ、
ワタシは子ども達の良き、伴走者であり、かつまた伴奏者でありたいと、そこを目指して歩きたいと思うようになりました。
訂正・・・
姫の台詞 書き換えました。