タイトルの中に少々の矛盾を覚えつつ、記してみます。
矛盾の謎解きは後ほど、ということで。
「お」から始まる言葉 第一号の花
五月一日は、私の住む市の年に一度の祭礼です。4百年位前の開町は、前田利長によって行われました。梅鉢が紋になっています。牛もいます。天満宮の系列ですね。
https://www.takaokasekinojinjya.com/
伝統を守って保存されている曳山のお披露目が五月一日のその日のみ。
ですが、、、今年は雨のために市も苦渋の決意のもと、取りやめになりました😱
いつも登場する私のセカンドハウスの陋屋はこの神社のごくごく近くにあります。
五月一日の当日は、人も通れないくらいの人出、神社へのお参りではなく、全国から集まる屋台がお目当てです(笑)
私もまよたこ、というたこ焼きを買いたいと思っていましたが、たった100歩ほどのその屋台に結局出向くことはありませんでした。その代わりにーーーーーー
何十年ぶりに甥っ子と、その長女ちゃんの来訪を受けるという喜びに出会えました。
福島県白河に住んでいるとばかり思っていた甥っ子一家は、もうだいぶ前から、東京でマンションを購入。甥っ子はいわば、単身赴任の身だとか。週一度、東京の自宅に戻ってそこで飼っているワンコ4匹に会うのが楽しみ(もちろん、家族にも!)4匹のワンコが飼える条件で選んだすまいだそうです。
三人の娘たちのうち、今度同行してくれた長女は、すでに独立して東京の別なところで生活。こっちもワンコ3匹とネコ1匹と人間も一緒らしい(笑)旅行の際はドッグシッターにきてもらうそう。今回は同居の人がお世話中。
次女さんは、東京の自宅から群馬高崎の大学へ通う大学生。美術史を勉強中。三女さんは、高校生。このうちどちらかがコロナに罹り、今回の旅を断念。福島単身赴任の甥っ子と別住まいの長女さんが難を逃れて予定通りの旅にでた、ということらしいです。
甥っ子は夫さんのお兄さん(那須塩原市在住)のご長男。53歳だそうでびっくりしました。かれこれ20年お会いしていませんでした。変わらぬ人柄のよさが嬉しいです。
この方は、実は、小学校2年生くらいのとき、花嫁姿の私のお手ひき・・・嫁ぎ先のお仏壇参りや、式場への入場など?をしてくれた人。今だとリングガールとかいう結婚指輪持ちの役目でしょうかね。。。白無垢姿の痛々しい風情を今でも覚えているそうです。
その当時は夫さんの両親も健在でしたから、最初は横浜から、のちには那須塩原から両親と妹と一緒にお盆やGWに帰省?していました。両親が鬼籍に入ってもう四半世紀以上です。最後に会たのは、両親のどちらかの法事をこちらでした折りでした。その時は、
長女さんも幼く、三女さんはいたかしら?
話は尽きませんでしたが、最後に「こうしてこの家(陋屋のことです)を残して管理してくださっているのを目の当たりにして本当に嬉しい。感謝です」と思いがけない言葉までいただきました。
夫さんのお父上が逝去されてから数年は、空き家状態のまま、月に二度のお寺さまのお参りの日にあわせて、私たちがやってくる そんな状態でした。その後、夫さんの相続にあたり、兄姉の相続分を夫さんが支払うという形で、陋屋存続問題が円満に解決しました(私は経緯は知りませんが)
もし、夫さんが、陋屋を欲しくない、と言っていたら.齢150年近くのこの陋屋は、きっと駐車場か何かと化していたでしょう。18年しか住まわなかったのに、夫さんには懐かしい大切な場所ですし、他の兄姉さんたちにとっては、離れているからよけい大事に思えるふるさとなのでしょう。
甥っ子さんと長女ちゃんは、数時間ゆっくりされて、そのあと、富山でお寿司を食べて帰路に就く、とのことでした。甥っ子ちゃんは、優秀な外科医ですが、仙台の大学医学部を出ているために、医局から派遣されるのは東北地方の病院ばかりで、このままずっと単身赴任になりますね、と犬のいないのだけが寂しいと明るい表情でした。那須塩原は今の赴任先と近いので、時折兄夫婦(両親宅)にも行き、そこのワンコ2匹と遊んでもらうとか、、、
冗長に綴っているうちにこんなに長くなりました。
「お」のつく言葉の花一号は、甥っ子の来訪 でした。第二弾以降はこの後また続きに。
矛盾の謎解きは後ほど、ということで。
「お」から始まる言葉 第一号の花
五月一日は、私の住む市の年に一度の祭礼です。4百年位前の開町は、前田利長によって行われました。梅鉢が紋になっています。牛もいます。天満宮の系列ですね。
https://www.takaokasekinojinjya.com/
伝統を守って保存されている曳山のお披露目が五月一日のその日のみ。
ですが、、、今年は雨のために市も苦渋の決意のもと、取りやめになりました😱
いつも登場する私のセカンドハウスの陋屋はこの神社のごくごく近くにあります。
五月一日の当日は、人も通れないくらいの人出、神社へのお参りではなく、全国から集まる屋台がお目当てです(笑)
私もまよたこ、というたこ焼きを買いたいと思っていましたが、たった100歩ほどのその屋台に結局出向くことはありませんでした。その代わりにーーーーーー
何十年ぶりに甥っ子と、その長女ちゃんの来訪を受けるという喜びに出会えました。
福島県白河に住んでいるとばかり思っていた甥っ子一家は、もうだいぶ前から、東京でマンションを購入。甥っ子はいわば、単身赴任の身だとか。週一度、東京の自宅に戻ってそこで飼っているワンコ4匹に会うのが楽しみ(もちろん、家族にも!)4匹のワンコが飼える条件で選んだすまいだそうです。
三人の娘たちのうち、今度同行してくれた長女は、すでに独立して東京の別なところで生活。こっちもワンコ3匹とネコ1匹と人間も一緒らしい(笑)旅行の際はドッグシッターにきてもらうそう。今回は同居の人がお世話中。
次女さんは、東京の自宅から群馬高崎の大学へ通う大学生。美術史を勉強中。三女さんは、高校生。このうちどちらかがコロナに罹り、今回の旅を断念。福島単身赴任の甥っ子と別住まいの長女さんが難を逃れて予定通りの旅にでた、ということらしいです。
甥っ子は夫さんのお兄さん(那須塩原市在住)のご長男。53歳だそうでびっくりしました。かれこれ20年お会いしていませんでした。変わらぬ人柄のよさが嬉しいです。
この方は、実は、小学校2年生くらいのとき、花嫁姿の私のお手ひき・・・嫁ぎ先のお仏壇参りや、式場への入場など?をしてくれた人。今だとリングガールとかいう結婚指輪持ちの役目でしょうかね。。。白無垢姿の痛々しい風情を今でも覚えているそうです。
その当時は夫さんの両親も健在でしたから、最初は横浜から、のちには那須塩原から両親と妹と一緒にお盆やGWに帰省?していました。両親が鬼籍に入ってもう四半世紀以上です。最後に会たのは、両親のどちらかの法事をこちらでした折りでした。その時は、
長女さんも幼く、三女さんはいたかしら?
話は尽きませんでしたが、最後に「こうしてこの家(陋屋のことです)を残して管理してくださっているのを目の当たりにして本当に嬉しい。感謝です」と思いがけない言葉までいただきました。
夫さんのお父上が逝去されてから数年は、空き家状態のまま、月に二度のお寺さまのお参りの日にあわせて、私たちがやってくる そんな状態でした。その後、夫さんの相続にあたり、兄姉の相続分を夫さんが支払うという形で、陋屋存続問題が円満に解決しました(私は経緯は知りませんが)
もし、夫さんが、陋屋を欲しくない、と言っていたら.齢150年近くのこの陋屋は、きっと駐車場か何かと化していたでしょう。18年しか住まわなかったのに、夫さんには懐かしい大切な場所ですし、他の兄姉さんたちにとっては、離れているからよけい大事に思えるふるさとなのでしょう。
甥っ子さんと長女ちゃんは、数時間ゆっくりされて、そのあと、富山でお寿司を食べて帰路に就く、とのことでした。甥っ子ちゃんは、優秀な外科医ですが、仙台の大学医学部を出ているために、医局から派遣されるのは東北地方の病院ばかりで、このままずっと単身赴任になりますね、と犬のいないのだけが寂しいと明るい表情でした。那須塩原は今の赴任先と近いので、時折兄夫婦(両親宅)にも行き、そこのワンコ2匹と遊んでもらうとか、、、
冗長に綴っているうちにこんなに長くなりました。
「お」のつく言葉の花一号は、甥っ子の来訪 でした。第二弾以降はこの後また続きに。
文中のお身内の方々。どのような関係なのか?
頭の中で家系図を作っておりましたが、追いつきません!
交流のある身内さん、。多いのですね。
そうそう。我が家の謎の一つに、家紋が前田家でおなじみ。梅鉢。てのがあります。
しかし。。知る限り、我が一族、その辺に親戚も前田家にも縁も所縁もなく。。。なのにザゼに梅鉢??。。なのでした。
一方、夫の方は、子供に恵まれない家系で、左のお墓の家から右のお墓の家へと四代続けて男子が養子に入っています。夫も左のお墓の家が生家で、そこで18年間育ちました。大学は、右のお墓の家(叔父の家でもあります)から始まったようです。その叔父(養父)も夫の生家の次男で、そのまた前も、そのまたまた前も、同じ生家から右のお墓の家と家業の存続のために養子縁組を結んでいます。夫だけは家といいますか、究極的に言うと、このお墓を守ることに徹し、家業はやめました。老舗薬業でしたが、養母も賛成してくれました。
その養母も逝去した後、右のお墓を夫は別のお寺から遷墓、移築しました。四代も続く生家からの養子、だからごく近くに移して地下ではつながってくれれば、との思いもあったようです。左のお墓は明治25年に建墓、右が令和元年に移築と刻まれています。長年の懸案事項でした。。。
どこの家にもいろいろ家系が単純でないことが起きると思いますが、一番には子供の縁がない、という由々しき事態がありますね。私の嫁ぎ先(夫の叔父、養父家)は、四代前迄同じ家からの養子でしのぎましたが、その前の数代は、実子がつないできたようです。夫で十代目くらいらしいですが、次代が、今のところ、子供がいません。私もようやく結婚後7年以上待って男児を一人授かりました。その間に養子を、という話も周囲から聞かされましたが、こどものない人生もあってもいいのでは、と耳を傾けませんでした。ムスコ夫婦にも、授かりものとしてご縁があったらいい、なくても楽しい人生だったらそれもよし、と関与しません。
複雑というより、寂しい人間関係を目の当たりにみました。親戚の数が少なく、その分、濃いおつきあいをしています。それも増えることなく、減るばかりですが。
男の子の節句の兜もいつかどこかで処分しないと、と覚悟はしております。
全国から集まる屋台とは、どんなんでしょ。そちらの方が興味があります。
境内も相当に広い立派な神社なんでしょう。
でも、それよりは20年振りの甥御さんの御来訪の方が嬉しかったことでしょう。
しかもお嬢さんまでご一緒に。
甥御さんはそのお家に昔は住んでおられたのですね。
それはぽこさんにいくら感謝をしても感謝したりませんよ。
ぽこさんでなければ、そこまで愛情もこめて大切にしていただけなかったと思います。
自分が子供の頃に住んでいた家を訪れるなんて、とても嬉しいことでしょうね。
私なんて、家ばかりでなくその土地にも行くこともないんですから。
最初の“お”は甥御さんの“お”でしたか。
今存命していたら夫の実父は、113歳、実母は、106歳です。実母は、名門県立女学校卒業と同時に相応のお相手のところへ嫁ぐべく、女学校への通学の合間に、お琴をはじめ、お稽古事に励む恵まれた少女時代を過ごしました。京都の美専に遊学中の実兄が結核にかかり、急遽帰省、母は代わりに京都の大覚寺で御嵯峨流華道の修行という名目で家を離れ京都永観堂の伯父宅に預けられます。病気がうつるのを案じての方策だったのですね。
結局薬効むなしく、兄が死亡、弟は幼いころに叔父宅の嫡子となるべく養子に入っていたので、母が急に家を継ぐことになります。
そして、お世話してくれる人があって、朴訥な真面目が取り柄の実父が婿養子となって夫の生家に入ってきます。これが昭和10年ころだったのでは?と推測されます。
女学校や中学校の教師だった父は、県の命ずるままに県内のいくつかの学校に赴任、その時には母はその後生まれた男の子(甥っ子の父上ですね)と一緒に転勤についていきます。
その間に、「庇を貸して母屋を取られる」の実体験をしたようです。相次いで親を亡くして、殆ど世事のわからない若い妻と融通のきかない真面目教師、次々こどもも生まれました。最後が夫になります。
この実両親は、特に母はほとんど一生を例の陋屋で過ごした人ですが、こどもたちの将来を束縛することを望みませんでした。みな、大学からは、地元を離れ、当然、就職先も遠方。長兄は〇芝本社勤務で、最初に自宅を持ったのが横浜です。それゆえ、甥っ子は横浜っ子として育ちます。
夫の実両親は、いずれ定年退職したら戻ってくればいいから、とこどもたちをだれもひきとめませんでした。実際、そこそこ長生きしてくれましたので、長兄の退職時には、両親が揃って元気でした。すでに那須塩原に終の棲家を設けていた長兄宅には両親のための離れも用意されていましたが、両親は、できたらこのままずっと生まれたところにいたい、と希望し、そのとおりになりました。
甥っ子は、春夏秋冬、両親や妹と一緒に田舎に帰省していましたので、自宅ではないものの、それに近い親しみを陋屋に覚えてくれていたようです。
ここまで長々更に身内話を続けました。両親が特になかよしでもなかったですが、協力して老いても二人きりで生活したのが30年間はあったと思うのですね。
母が先に逝ったあとも、父が空閨をかこつこと三年、私どもが近くにいたとはいえ、見事に独立して暮らし、一日の入院で母のもとへと旅立ちました。
そうして忘れずに立ち寄ってくれた甥っ子は、そんな両親の生き方の所産だった、と今回あらためて、深く聡かった両親のお慈悲に深く思いを馳せた次第です。
前田利家の子供ですね。
>齢150年近くのこの陋屋
貴重なおうちですピヨ。
ぽこさんの管理のおかげですね。
>管理してくださっているのを目の当たりにして本当に嬉しい。感謝です
↑本当にうれしいと思います。
管理料を請求してみたらくれるかもピヨ。。。
不動産の相続は特に喜ばれないことが多い。それこそ、東京はもとより、千葉、神奈川、その他の首都圏などでは、不動産は立派な遺産になり、それが欲しくない人はあまりいないのかもしれません。
地方で、かつてのダウンタウンもシャッター街と化している当地などは、家屋が建っていたら、売れない、家屋を更地にするのにも費用が問題。で、遺産としては、欲しがる人が多くありません。もともと持ち家率が高いので、マイホームとしても不必要。結果空き家率のみ上昇する。
150歳のこの陋屋は、水回りと冷暖房については、今時仕様にしてはありますが、何と言っても決して頑強な骨組みの家でもないので、相続するのは、ためらわれました。甥っ子さんに感謝されたのは面はゆいものの、実は、庭の管理は毎年二度の植木屋さん、あと、何やかにやで大工さんとか配管屋さんとか建具屋さんとか、何度かお願いを避けることができません。
それでも相続するのではい、いただきます、というわけにはいかず、相続しなかった兄姉さんたちに、それぞれ現金で相続分与をおこなったわけでした。
地価はどんどん下がっていきますから、決して資産運用上は、プラスではありません(笑)
でもたまにこうして甥っ子まで、それから兄姉さんたちも、立ち寄ってくれること、私の友人知人までもが「ここへ来ると落ち着くし、癒される」とリピーターでいてくれること、そして何より、私自身がこの家でどこか安堵し、気持ちが清らかになる、と自覚しているのが幸せです。
管理料の代わりでしょうか(笑)