歌の旅人 田口 徹 コンサート に行ってきました。
セリオンの近くにある”カフェラテ”で14:30から1時間ほどおこなわれました。
人の出会いとは不思議なもので・・・
点と点で終わってしまっていたのかもしれないのが、たった一言かけただけで線になって
その線がどんどん伸びて・・・
新たな点を結んでそしてもっと伸びて行って・・・
そんな線上で出会ったのが田口さんです。
そして・・・一緒に行った友人の点が田口さんと出会いました。
田口さんの言葉にならないメッセージが
すばらしい歌声を共に深くそして優しく、
コーヒーの香りと共に”カフェラテ”に流れました・・・
”連れて来てくれてありがと!”
そういってくれた彼女にとっても、やさしい時間が流れたようです。
コンサートが終わってからの、テーブルを囲んでのお話もたのしいものでした。
また 近いうちにあの歌声を聞きたいものです。
太平洋戦争敗戦前日の米軍による土崎空襲から63年。犠牲者を弔う「土崎空襲犠牲者追悼平和祈念式典」(土崎港被爆市民会議主催)が14日、秋田市土崎港西の「ポートタワーセリオン」で開かれ、田口さんはこの式典で土崎空襲のことをうたった”哀しみの池”を歌われたそうです。
土崎空襲・・・
明治以後、秋田市とその周辺では油田開発が進んだ。昭和時代前半には特に八橋油田の産油量が多く、秋田だけで国内産油量の70%以上を誇っていた。そのため、八橋に近く、さらに鉄道でも船舶でも輸送が可能な土崎には、大規模な製油所が立ち並んでいた。太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月14日には、この製油所の破壊を目的としたB-29100機以上の空襲を受け、土崎地区を含めて100名以上の死者を出した。これは太平洋戦争最後の空襲とされている7市に対する空襲の1つである
セリオンの近くにある”カフェラテ”で14:30から1時間ほどおこなわれました。
人の出会いとは不思議なもので・・・
点と点で終わってしまっていたのかもしれないのが、たった一言かけただけで線になって
その線がどんどん伸びて・・・
新たな点を結んでそしてもっと伸びて行って・・・
そんな線上で出会ったのが田口さんです。
そして・・・一緒に行った友人の点が田口さんと出会いました。
田口さんの言葉にならないメッセージが
すばらしい歌声を共に深くそして優しく、
コーヒーの香りと共に”カフェラテ”に流れました・・・
”連れて来てくれてありがと!”
そういってくれた彼女にとっても、やさしい時間が流れたようです。
コンサートが終わってからの、テーブルを囲んでのお話もたのしいものでした。
また 近いうちにあの歌声を聞きたいものです。
太平洋戦争敗戦前日の米軍による土崎空襲から63年。犠牲者を弔う「土崎空襲犠牲者追悼平和祈念式典」(土崎港被爆市民会議主催)が14日、秋田市土崎港西の「ポートタワーセリオン」で開かれ、田口さんはこの式典で土崎空襲のことをうたった”哀しみの池”を歌われたそうです。
土崎空襲・・・
明治以後、秋田市とその周辺では油田開発が進んだ。昭和時代前半には特に八橋油田の産油量が多く、秋田だけで国内産油量の70%以上を誇っていた。そのため、八橋に近く、さらに鉄道でも船舶でも輸送が可能な土崎には、大規模な製油所が立ち並んでいた。太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月14日には、この製油所の破壊を目的としたB-29100機以上の空襲を受け、土崎地区を含めて100名以上の死者を出した。これは太平洋戦争最後の空襲とされている7市に対する空襲の1つである