●秋篠宮家のご日程:- 宮内庁
令和元年5月11日(土) ~ 令和元年5月12日(日)
京都府お成り(「第32回大聖寺文化・護友会総会」ご臨席)
お名前 皇嗣妃殿下並びに眞子内親王殿下
ご日程 令和元年5月12日(日)
「第32回大聖寺文化・護友会総会」ご臨席及び関係者とのご懇談(大聖寺(京都府))平成30年5月12日(土) ~ 平成30年5月13日(日)
令和元年5月20日(月)
京都府お成り(「令和元年度御寺泉涌寺を護る会定期総会」ご臨席)
お名前 皇嗣同妃両殿下
霊明殿ご参拝,会長始め役員・功労者他とのご斎食,「令和元年度御寺泉涌寺を護る会定期総会」ご臨席(御寺泉涌寺(京都市))
http://www.kunaicho.go.jp/page/gonittei/show/3?quarter=201902&new=1
●紀子さま、「大聖寺文化・護友会」名誉総裁に就任。)追記あり。 : 風に色をつかせるとき 2015年 03月 31日
↓以下参考のため引用---------------------------
<皇室>紀子さまが「大聖寺文化・護友会」名誉総裁に就任
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150331-00000070-mai-soci
毎日新聞 3月31日(火)19時39分配信
宮内庁は31日、秋篠宮妃紀子さまが1日付で「大聖寺文化・護友会」の名誉総裁に就任したと発表した。同会は皇室と関係が深い大聖寺(京都市)をまもる活動をしている。
また同庁は三笠宮家の彬子さまが1日付で京都産業大日本文化研究所(同市)の研究員に就任したと発表した。日本美術や宮廷文化の研究などを担当する。【古関俊樹】
↑ここまで------------------------------------------
大聖寺は、同志社大学(烏丸通側)の向い、
京都御所から歩いて行ける場所にあります。
烏丸通りに面していながらも、
とても静かで、美しいお寺。
<中略>
※↓以下追記しました。
紀子さまは「初代」だとしっかり記事になっています。
こういうことが、殊更に嬉しくてご紹介♪
↓以下参考のため引用---------------------------
紀子さまが初代名誉総裁に 大聖寺文化・護友会
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150401000030
秋篠宮妃紀子さまは1日付で、皇室とゆかりの深い尼寺、大聖寺(京都市上京区)の伝統や文化の維持を目的とする「大聖寺文化・護友会」の初代名誉総裁に就任された。
大聖寺は、室町時代から明治維新前まで、女性皇族が住職の「門跡」を務めてきた歴史があり、ゆかりの文化財も数多く保存されている。
【 2015年04月01日 08時56分 】
↑ここまで------------------------------------------
https://lisacerise.exblog.jp/21674295/
●大聖寺 (京都市) - Wikipedia
大聖寺(だいしょうじ)は、京都市上京区にある寺院。花の御所、すなわち室町幕府の跡地の一部を占める。宗旨は臨済宗系の単立。山号は岳松山。本尊は釈迦如来。御寺御所とも称する、天皇家ゆかりの尼門跡寺院である。非公開のため拝観不可。
開基は無相定円禅尼。無相定円は俗名を日野宣子といい、足利義満正室・日野業子の叔母であり、光厳天皇の妃である。同人は貞治7年(1368年)、光厳天皇の法事が天龍寺で行われた際、春屋妙葩を導師として落飾(出家)した。足利義満は花の御所(足利将軍邸)内の岡松殿に無相定円を住まわせた。無相定円が永徳2年(1382年)に没した後、岡松殿を寺にしたのが大聖寺である。寺号は無相定円の法名に因み、山号の岳松山は岡松殿に由来する。
寺はその後、長谷(ながたに、現・左京区岩倉長谷町)に移転し、さらに文明11年(1479年)には毘沙門町(現・上京区上立売通寺町西入る)に移転した。寺は延宝元年(1673年)に焼失し、元禄10年(1697年)に現在地に再興された。現在地はもと聖護院のあったところで、同院が延宝3年(1675年)に焼失し、現在の左京区に移転した跡地に大聖院が再興されたものである。
正親町天皇の皇女が入寺した際、天皇から尼寺第一位の綸旨を得、御寺御所と称される尼門跡寺院となっている。[1]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
●紀子さま“母娘ご公務”増加の背景…眞子さまとの関係修復へ | 女性自身:2019/06/05 16:00
そんな中で最近目立ち始めたのが、紀子さまと眞子さま“母子同伴”でのご公務の増加だ。6月2日、横浜能楽堂で開催された特別企画公演「大典 奉祝の芸能」に、紀子さまと眞子さまがおそろいでお出ましになった。お二人だけでカメラの前に姿を現されたのは、’18年4月以来だった。
「5月11日から12日にも、お二人は京都を訪れ『大聖寺文化・護友会』の総会に出席されました。‘15年から会の名誉総裁をお務めの紀子さまは、毎年総会に出席されています。京都への“二人旅”では、ゆくゆくは眞子さまに名誉総裁職をお譲りになりたいといったお話もされたことでしょう」(宮内庁関係者)
https://jisin.jp/domestic/1743754/
●泉涌寺と皇室|御寺 泉涌寺
皇室との特殊の縁故は、月輪大寂後(安貞元年・1227)四年を経た寛喜三年(1232)に第八十七代四条天皇として即位されたが、開山月輪大師の再来かと噂されながら僅か十二歳にして崩御された。これよりさき御父後堀河天皇は泉涌寺山内の観音寺陵に奉葬されていたが、四条天皇はこの御父の山陵と深いゆかりの泉涌寺を強くお心に止められ、月輪大師の御廟(開山堂)の近くに御自身の御陵を築くよう御遺言されたという。こうした縁故に続いて、南北朝時代の文中三年(1374)後光厳院をここに御火葬申し上げてから前後九代の天皇の御火葬所に当てられた。さらに第百八代後水尾天皇から明治天皇のお父様の孝明天皇に 至るまで歴代天皇・皇后・皇族の廟所となり、皇室の御香華院(御菩堤所)と定められた。当山のシンボル霊明殿(れいめいでん)には、歴代の御尊牌を奉祀 し、一山の僧侶によって朝夕その御冥福と国家の安泰が祈願される例となっている。そして祥月御命日には皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が行わ れる。霊明殿は正面に後西天皇の勅額「霊明」が掲げられ格調の高い雰囲気を醸し出している。
<中略>
寺門運営の基礎を強固にし、永続を図るために昭和四十一年三笠宮崇仁親王を総裁に仰ぎ、三井銀行故佐藤喜一郎氏を会長として広く民間篤志のもの糾合して「御寺泉涌寺を護る会」が結成され、現在ではその意志を秋篠宮文仁親王殿下を総裁に、経団連名誉会長の奥田碩(ひろし)氏を会長に、経団連常任顧問の和田龍幸(りゅうこう)氏を副会長兼会長
http://www.mitera.org/outline/imperial.html
●彬子女王 - Wikipedia
2010年(平成22年)1月19日、オックスフォード大学での学位口頭試問に合格、オックスフォード大学博士課程を修了して、博士号(D.Phil.)を取得した。論文テーマは“19?20世紀に大英博物館が収集した日本の美術品とその展示の事例にみる、英国人の日本美術観の変化について”(全文英語、全320ページ)[6]。研究発表リハーサルで、別の日本人院生が担当教授から論文全文書き直しだけを指示されたのを見て“自分はプリンセスだから評価に「下駄を履かされている」のではないだろうか、自分が対象だったら何をどうすべきかまで細かく指導を受けたのではないか”と落ち込んだこともあったという[6]。
同年1月31日付で、留学を終了した[4]。帰国後は立命館大学衣笠総合研究機構(グローバルCOEプログラム日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点日本文化研究班)ポストドクトラルフェロー(PD)に就任した。
同年10月にハワイ大学での日本美術のシンポジウムを現地の研究者と共同で企画した。研究発表を行った[24]。
2012年1月2日、新年一般参賀にて
2012年(平成24年)4月から2014年(平成26年)12月まで宗教法人慈照寺研修道場美術研究員として勤務した。また同月から2013年(平成25年)3月まで立命館大学衣笠総合研究機構で特別招聘准教授、2013年4月から2014年3月まで同機構客員准教授、2014年5月より同機構客員協力研究員を務めている。2012年5月より法政大学国際日本学研究所(文部科学省国際共同に基づく日本研究推進事業欧州の博物館等保管の日本仏教美術資料の悉皆調査とそれによる日本及び日本観の研究)の客員所員に、2014年4月には京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員、併せて同センター客員教授に翌年4月から就任した。
2015年(平成27年)4月より京都産業大学日本文化研究所専任研究員として勤務している[25]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AC%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
●学祖 荒木俊馬先生と建学の心を訪ねて | 歴史 | 大学紹介 | 京都産業大学
占領軍が間もなく進駐するであろう。日本の官吏はすべてその指揮を受ける。いままで戦って来た占領軍の禄をはむつもりは毛頭ない。ではどうするか。官職を捨てるしかないではないか。屈辱を忍んで京都帝国大学教授のポストにしがみつくか。『富貴も淫するあたわず 貧賤も移すあたわず威武も屈するあたわず これをこれ大丈夫という』(孟子)の大丈夫でありたいと願う先生であった。ハラは決まった。終戦後、初めての理学部教授会に出席した。戦争を非難する声が早くも現われていた。数日前までとは正反対の意見に転向した発言に憤然とした。だが、いまは沈思のときである。山村に籠り、晴耕雨読して、家族とともにわが人生のこれからの生き方を考えたい。弟の千里に打ち明けた。もちろん反対された。だが、兄の決意が動かないのを知って「兄貴の頑固にはなぁ」とサジを投げた。郷党の大先輩であり尊敬する狩野直喜教授を訪ねて決意を披瀝した。狩野教授はしばらく考えに沈んだのちズバリと言った。「そのような学者が、ひとりぐらい居てもよかろう」。そのあとに付け加えた。「学問はやめないのだな」「原稿料ほしさに新聞や雑誌にやたらに雑文ば書かんごつ」。肥後訛りの忠告であった。
8月24日、辞表を提出。理由はたった一行「一身上の都合」。兵庫県境の夜久野(京都府天田郡上夜久野村)で開墾の仕事をしていて、終戦の翌日に友人とともに訪ねて来た菱沼政雄を頼って、家族をひと足早く発たせた先生ではあったが、残務整理があり、さらに一緒に辞職した門下生たちの身の振り方の相談にのったり、痔疾の治療も重なって、京都を出たのは9月18日、天候は荒れていた。終戦まで大日本言論報国会の理事の一人であったという理由で、間もなく公職追放になったことを新聞の公報で知ったが、先生はすでに山村の生活に溶け込んでいた。
先生は、昭和30(1955)年に雑誌『新論』(8月号)のもとめに応じて「わが、アメリカに降伏せざるの記」を書いて、夜久野へ隠棲したときの経緯と心境を明らかにしている。そのなかで「自己弁護するつもりも、必要もないが」と断ったうえで、隠棲について、次のように述べた。
『戦争中、軍部の役を買って出て肩書をもらうようなマネをしたことはまったくない。軍部のやり方についても不快な思いがあった。しかし、戦争は始まったのである。日本の国が負けるようなことがあってはならない。協力するしかないのであった。戦意を失わせるような行動をとってはならなかった。私の科学技術についての知識を軍部に提供したことは事実である。それは全く私の意思に従ったのである。国民の義務と信じたからである』。
先生の考え方については賛否さまざまな意見があろう。しかし先生は自らの信念に従って、戦争に加わったことを全く否定していない。日本という国が戦っているとき、足を引っ張る真似ができるのか、というのである。そして先生が最も軽蔑したのは終戦を境にして態度を百八十度豹変した知識人たちであった。自らの言動に責任をもつこと。それが先生の信念であった。
https://www.kyoto-su.ac.jp/about/enkaku/kenkokoro.html
●影武者の愛子内親王が拒食症で危篤状態になり、看病に専念するため徳仁殿下は秋篠宮に皇太子の位を譲るシナリオか? - 国際情勢の分析と予測
https://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/4269e818d56d1b43598e17ce9e08a7f9
●梨本宮家と金王朝 - ネットゲリラ 野次馬 (2012年11月19日 12:04)
公式には、男子を二人産んだ事になっていて、女子は記録にない。ところが、昔から皇族では女子は「員数外」であって、嫁入り先にも困るので、こっそり尼寺に入れちゃったりするわけですね。京都には無数の尼寺があって、そういうのって、たいてい皇族と関係があったりする。で、この李方子さんが産んだ女の子が、あの横田めぐみさんの母親である「横田さきえ」さんだ、という説です。言ってみれば、横田めぐみさんは、朝鮮王室と日本の皇室、双方の血筋を引いた、超名門の娘だという事になる。もちろん、李方子に女の子がいたという話はないので、コレは公表されている話ではないのだが、こういう厄介な家柄では、女子の誕生を「なかった事とする」場合があるわけですね。嫁ぎ先にも困るんだから。
http://blog.shadowcity.jp/my/2012/11/post-1577.html
●関西空港と奈良を直結する「リニア新支線」に調査費 - 産経ニュース 2019.6.14 08:11産経WEST
奈良市付近に設置が予定されるリニア中央新幹線新駅と関西国際空港を結び、インバウンド(訪日外国人客)を奈良県内に直接呼び込む「リニア新支線」構想がいよいよ動き出す。奈良県は13日発表した一般会計6月補正予算案に、同構想の調査・検討費用として2500万円を計上。荒井正吾知事は「難しいチャレンジだが、需要や工事費を検討し実現可能性を探っていきたい」と意欲的だ。
リニア新支線構想は、リニア中央新幹線の開通が前提。インバウンドにとって「関西の玄関口」である関西国際空港から、外国人観光客を県内に直接誘導して観光振興につなげる狙いがある。
構想は4月の知事選で荒井氏の公約に盛り込まれた。「常電導リニア新幹線を建設し、関空と新駅を20分超で接続する」とし、途中の停車駅は、大和高田市、御所市、五條市、和歌山県橋本市を想定。将来的には京都府京田辺市付近で北陸新幹線にもつなげたいとしている。
リニア中央新幹線の東京-名古屋間は2027年に開通予定だが、大阪までの全線開業は2037年とされ、新支線開通は実現しても18年以上先となる。
荒井知事は会見で、「リニア中央新幹線が品川-新大阪間で全線開通すると、関空からの結節点でもある新大阪への集中が過剰になる」と説明。さらに「結節点を分散させるリダンダンシー(多重化)や交通の多軸構想の観点からも意味がある」と必要性を強調した。
https://www.sankei.com/west/news/190614/wst1906140008-n1.html
●令和元年度6月補正予算について(pdf 623KB)
② 平城宮跡周辺地域における街路渋滞対策の検討
令和元年度6月補正予算案
8百万円(債務負担行為 26百万円)
・平城宮跡周辺地域における抜本的な渋滞対策の検討
・近鉄線の移設等に関する調査・検討
③ リニア中央新幹線、関西国際空港・リニア中央新幹線接続新幹線の調査・検討
令和元年度6月補正予算案 25百万円
・リニア中央新幹線の想定ルートに関する調査・検討
・ 「奈良市附近」駅と関西国際空港を直結するリニア新支線に関する調査・検討
http://www.pref.nara.jp/secure/213625/20190613_gaiyou.pdf
【私のコメント】
皇室の菩提寺として歴代北朝系皇族の墓を有する京都市の泉涌寺には「御寺泉涌寺を守る会」という組織が昭和41年に設立され、昭和天皇の弟とされる故三笠宮が総裁となった。そして、三笠宮の後を継いだのは秋篠宮であった。以後、秋篠宮夫妻は毎年京都を訪れて「御寺泉涌寺を守る会」に出席しているようだ。明治天皇と昭和天皇はこの寺には殆ど訪れなかったが、大正天皇は訪れていたという。孝明天皇の血を引く北朝系皇族の
代表が大正天皇・三笠宮・秋篠宮であることを示唆している。
そして、2015年3月には秋篠宮紀子妃が皇族ゆかりの尼寺である大聖寺の「大聖寺文化・護友会」名誉総裁に就任、以後毎年京都を訪問して出席されるようになっている。今年5月には何と紀子妃と共に眞子内親王が出席されている。今後眞子内親王が大聖寺の当主とし京都に居住されることを示唆していると思われる。
ネットゲリラが指摘するように、大聖寺や泉涌寺の様な寺は皇族子女を匿う施設として機能してきたと思われる。影武者疑惑のある愛子内親王だけでなく、秋篠宮や悠仁親王も東京にいるのは影武者で、本物は京都の寺で住職として超能力の修行をしているのかもしれない。これらの寺に関与するのが三笠宮系と秋篠宮系の皇族に限られるという事実は、彼らだけが神(宇宙人?)と交信する能力のある真の皇族であることを示唆している。そして、秋篠宮一家の関西への帰還による京阪奈京への還都が迫っていることも示唆していると思われる。
既に皇族では彬子女王(故三笠宮の孫)が京都に居住し、日本文化研究員として立命館大学や京都産業大学で職を得ている。この両大学は国際金融資本系の同志社や関学と異なり大東亜共栄圏系の大学である。由緒ある京都の中心市街地で御所の北隣という一等地を犯罪組織国際金融資本系の同志社が占有しているのは嘆かわしいことだ。学研都市キャンパスや附属小中高校も含めて学校法人同志社を廃止してその跡地を皇族の祭祀の為に利用すべきと私は提言する。同時に洛星中学高校、平安女学院、ノートルダムなどの旧市街地のキリスト教系学校も廃止して敷地を没収してしまえばよいだろう。犯罪組織国際金融資本の世界侵略の尖兵である西方キリスト教をなぜ秀吉や家康が断固として禁止したのか、我々はその意義を学ぶべきである。
奈良県の令和元年6月の補正予算も注目される。北陸新幹線学研都市駅からリニア奈良市付近駅を経て大和高田・御所・橋本を経由して関西空港に向かうリニアの支線が計画されているというのだ。奈良と関西空港を結ぶルートは私は以前から北陸新幹線の精華町祝園付近駅→天王寺→関西空港駅という延伸を予想してきたが、今回のリニア支線はかなり遠回りである。根来寺・高野山・吉野などの重要寺社が至近距離にあり参拝者と観光客が主要な顧客かと思われる。リニア支線と言っても駅間は非常に短く、一般の新幹線並である。リニアではなく北陸新幹線の単線の支線となる可能性もあるだろう。
奈良県の補正予算でもう一つ注目されるのは、平城宮跡歴史公園を横断する近鉄の線路の移設や周囲の道路渋滞についても調査予算が付いたことだ。秋篠宮や悠仁親王が即位するであろう復元大極殿を有する平城京跡歴史公園の整備は京阪奈京への還都を象徴するプロジェクトだ。奈良県庁の橿原市への移転、県立平城高校を廃校にしてそこに奈良高校を移転させる(奈良高校が学研都市区域内に移転する)など、首をかしげたくなるニュースが奈良県には多い。これらは京阪奈学研都市への遷都を前提としているとしか思えないのだ。これらのプロジェクトを提言している荒井奈良県知事は大和郡山市育ち、奈良女子大附属高校卒業で運輸官僚を経て参院議員・奈良県知事を務めている。還都に関連する交通機関や皇族向け教育機関(恐らく奈良女子大附属小・中等教育学校)の整備を推進するために運輸官僚が奈良県知事に送り込まれたのだろう。
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令和元年5月11日(土) ~ 令和元年5月12日(日)
京都府お成り(「第32回大聖寺文化・護友会総会」ご臨席)
お名前 皇嗣妃殿下並びに眞子内親王殿下
ご日程 令和元年5月12日(日)
「第32回大聖寺文化・護友会総会」ご臨席及び関係者とのご懇談(大聖寺(京都府))平成30年5月12日(土) ~ 平成30年5月13日(日)
令和元年5月20日(月)
京都府お成り(「令和元年度御寺泉涌寺を護る会定期総会」ご臨席)
お名前 皇嗣同妃両殿下
霊明殿ご参拝,会長始め役員・功労者他とのご斎食,「令和元年度御寺泉涌寺を護る会定期総会」ご臨席(御寺泉涌寺(京都市))
http://www.kunaicho.go.jp/page/gonittei/show/3?quarter=201902&new=1
●紀子さま、「大聖寺文化・護友会」名誉総裁に就任。)追記あり。 : 風に色をつかせるとき 2015年 03月 31日
↓以下参考のため引用---------------------------
<皇室>紀子さまが「大聖寺文化・護友会」名誉総裁に就任
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150331-00000070-mai-soci
毎日新聞 3月31日(火)19時39分配信
宮内庁は31日、秋篠宮妃紀子さまが1日付で「大聖寺文化・護友会」の名誉総裁に就任したと発表した。同会は皇室と関係が深い大聖寺(京都市)をまもる活動をしている。
また同庁は三笠宮家の彬子さまが1日付で京都産業大日本文化研究所(同市)の研究員に就任したと発表した。日本美術や宮廷文化の研究などを担当する。【古関俊樹】
↑ここまで------------------------------------------
大聖寺は、同志社大学(烏丸通側)の向い、
京都御所から歩いて行ける場所にあります。
烏丸通りに面していながらも、
とても静かで、美しいお寺。
<中略>
※↓以下追記しました。
紀子さまは「初代」だとしっかり記事になっています。
こういうことが、殊更に嬉しくてご紹介♪
↓以下参考のため引用---------------------------
紀子さまが初代名誉総裁に 大聖寺文化・護友会
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150401000030
秋篠宮妃紀子さまは1日付で、皇室とゆかりの深い尼寺、大聖寺(京都市上京区)の伝統や文化の維持を目的とする「大聖寺文化・護友会」の初代名誉総裁に就任された。
大聖寺は、室町時代から明治維新前まで、女性皇族が住職の「門跡」を務めてきた歴史があり、ゆかりの文化財も数多く保存されている。
【 2015年04月01日 08時56分 】
↑ここまで------------------------------------------
https://lisacerise.exblog.jp/21674295/
●大聖寺 (京都市) - Wikipedia
大聖寺(だいしょうじ)は、京都市上京区にある寺院。花の御所、すなわち室町幕府の跡地の一部を占める。宗旨は臨済宗系の単立。山号は岳松山。本尊は釈迦如来。御寺御所とも称する、天皇家ゆかりの尼門跡寺院である。非公開のため拝観不可。
開基は無相定円禅尼。無相定円は俗名を日野宣子といい、足利義満正室・日野業子の叔母であり、光厳天皇の妃である。同人は貞治7年(1368年)、光厳天皇の法事が天龍寺で行われた際、春屋妙葩を導師として落飾(出家)した。足利義満は花の御所(足利将軍邸)内の岡松殿に無相定円を住まわせた。無相定円が永徳2年(1382年)に没した後、岡松殿を寺にしたのが大聖寺である。寺号は無相定円の法名に因み、山号の岳松山は岡松殿に由来する。
寺はその後、長谷(ながたに、現・左京区岩倉長谷町)に移転し、さらに文明11年(1479年)には毘沙門町(現・上京区上立売通寺町西入る)に移転した。寺は延宝元年(1673年)に焼失し、元禄10年(1697年)に現在地に再興された。現在地はもと聖護院のあったところで、同院が延宝3年(1675年)に焼失し、現在の左京区に移転した跡地に大聖院が再興されたものである。
正親町天皇の皇女が入寺した際、天皇から尼寺第一位の綸旨を得、御寺御所と称される尼門跡寺院となっている。[1]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
●紀子さま“母娘ご公務”増加の背景…眞子さまとの関係修復へ | 女性自身:2019/06/05 16:00
そんな中で最近目立ち始めたのが、紀子さまと眞子さま“母子同伴”でのご公務の増加だ。6月2日、横浜能楽堂で開催された特別企画公演「大典 奉祝の芸能」に、紀子さまと眞子さまがおそろいでお出ましになった。お二人だけでカメラの前に姿を現されたのは、’18年4月以来だった。
「5月11日から12日にも、お二人は京都を訪れ『大聖寺文化・護友会』の総会に出席されました。‘15年から会の名誉総裁をお務めの紀子さまは、毎年総会に出席されています。京都への“二人旅”では、ゆくゆくは眞子さまに名誉総裁職をお譲りになりたいといったお話もされたことでしょう」(宮内庁関係者)
https://jisin.jp/domestic/1743754/
●泉涌寺と皇室|御寺 泉涌寺
皇室との特殊の縁故は、月輪大寂後(安貞元年・1227)四年を経た寛喜三年(1232)に第八十七代四条天皇として即位されたが、開山月輪大師の再来かと噂されながら僅か十二歳にして崩御された。これよりさき御父後堀河天皇は泉涌寺山内の観音寺陵に奉葬されていたが、四条天皇はこの御父の山陵と深いゆかりの泉涌寺を強くお心に止められ、月輪大師の御廟(開山堂)の近くに御自身の御陵を築くよう御遺言されたという。こうした縁故に続いて、南北朝時代の文中三年(1374)後光厳院をここに御火葬申し上げてから前後九代の天皇の御火葬所に当てられた。さらに第百八代後水尾天皇から明治天皇のお父様の孝明天皇に 至るまで歴代天皇・皇后・皇族の廟所となり、皇室の御香華院(御菩堤所)と定められた。当山のシンボル霊明殿(れいめいでん)には、歴代の御尊牌を奉祀 し、一山の僧侶によって朝夕その御冥福と国家の安泰が祈願される例となっている。そして祥月御命日には皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が行わ れる。霊明殿は正面に後西天皇の勅額「霊明」が掲げられ格調の高い雰囲気を醸し出している。
<中略>
寺門運営の基礎を強固にし、永続を図るために昭和四十一年三笠宮崇仁親王を総裁に仰ぎ、三井銀行故佐藤喜一郎氏を会長として広く民間篤志のもの糾合して「御寺泉涌寺を護る会」が結成され、現在ではその意志を秋篠宮文仁親王殿下を総裁に、経団連名誉会長の奥田碩(ひろし)氏を会長に、経団連常任顧問の和田龍幸(りゅうこう)氏を副会長兼会長
http://www.mitera.org/outline/imperial.html
●彬子女王 - Wikipedia
2010年(平成22年)1月19日、オックスフォード大学での学位口頭試問に合格、オックスフォード大学博士課程を修了して、博士号(D.Phil.)を取得した。論文テーマは“19?20世紀に大英博物館が収集した日本の美術品とその展示の事例にみる、英国人の日本美術観の変化について”(全文英語、全320ページ)[6]。研究発表リハーサルで、別の日本人院生が担当教授から論文全文書き直しだけを指示されたのを見て“自分はプリンセスだから評価に「下駄を履かされている」のではないだろうか、自分が対象だったら何をどうすべきかまで細かく指導を受けたのではないか”と落ち込んだこともあったという[6]。
同年1月31日付で、留学を終了した[4]。帰国後は立命館大学衣笠総合研究機構(グローバルCOEプログラム日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点日本文化研究班)ポストドクトラルフェロー(PD)に就任した。
同年10月にハワイ大学での日本美術のシンポジウムを現地の研究者と共同で企画した。研究発表を行った[24]。
2012年1月2日、新年一般参賀にて
2012年(平成24年)4月から2014年(平成26年)12月まで宗教法人慈照寺研修道場美術研究員として勤務した。また同月から2013年(平成25年)3月まで立命館大学衣笠総合研究機構で特別招聘准教授、2013年4月から2014年3月まで同機構客員准教授、2014年5月より同機構客員協力研究員を務めている。2012年5月より法政大学国際日本学研究所(文部科学省国際共同に基づく日本研究推進事業欧州の博物館等保管の日本仏教美術資料の悉皆調査とそれによる日本及び日本観の研究)の客員所員に、2014年4月には京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員、併せて同センター客員教授に翌年4月から就任した。
2015年(平成27年)4月より京都産業大学日本文化研究所専任研究員として勤務している[25]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AC%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
●学祖 荒木俊馬先生と建学の心を訪ねて | 歴史 | 大学紹介 | 京都産業大学
占領軍が間もなく進駐するであろう。日本の官吏はすべてその指揮を受ける。いままで戦って来た占領軍の禄をはむつもりは毛頭ない。ではどうするか。官職を捨てるしかないではないか。屈辱を忍んで京都帝国大学教授のポストにしがみつくか。『富貴も淫するあたわず 貧賤も移すあたわず威武も屈するあたわず これをこれ大丈夫という』(孟子)の大丈夫でありたいと願う先生であった。ハラは決まった。終戦後、初めての理学部教授会に出席した。戦争を非難する声が早くも現われていた。数日前までとは正反対の意見に転向した発言に憤然とした。だが、いまは沈思のときである。山村に籠り、晴耕雨読して、家族とともにわが人生のこれからの生き方を考えたい。弟の千里に打ち明けた。もちろん反対された。だが、兄の決意が動かないのを知って「兄貴の頑固にはなぁ」とサジを投げた。郷党の大先輩であり尊敬する狩野直喜教授を訪ねて決意を披瀝した。狩野教授はしばらく考えに沈んだのちズバリと言った。「そのような学者が、ひとりぐらい居てもよかろう」。そのあとに付け加えた。「学問はやめないのだな」「原稿料ほしさに新聞や雑誌にやたらに雑文ば書かんごつ」。肥後訛りの忠告であった。
8月24日、辞表を提出。理由はたった一行「一身上の都合」。兵庫県境の夜久野(京都府天田郡上夜久野村)で開墾の仕事をしていて、終戦の翌日に友人とともに訪ねて来た菱沼政雄を頼って、家族をひと足早く発たせた先生ではあったが、残務整理があり、さらに一緒に辞職した門下生たちの身の振り方の相談にのったり、痔疾の治療も重なって、京都を出たのは9月18日、天候は荒れていた。終戦まで大日本言論報国会の理事の一人であったという理由で、間もなく公職追放になったことを新聞の公報で知ったが、先生はすでに山村の生活に溶け込んでいた。
先生は、昭和30(1955)年に雑誌『新論』(8月号)のもとめに応じて「わが、アメリカに降伏せざるの記」を書いて、夜久野へ隠棲したときの経緯と心境を明らかにしている。そのなかで「自己弁護するつもりも、必要もないが」と断ったうえで、隠棲について、次のように述べた。
『戦争中、軍部の役を買って出て肩書をもらうようなマネをしたことはまったくない。軍部のやり方についても不快な思いがあった。しかし、戦争は始まったのである。日本の国が負けるようなことがあってはならない。協力するしかないのであった。戦意を失わせるような行動をとってはならなかった。私の科学技術についての知識を軍部に提供したことは事実である。それは全く私の意思に従ったのである。国民の義務と信じたからである』。
先生の考え方については賛否さまざまな意見があろう。しかし先生は自らの信念に従って、戦争に加わったことを全く否定していない。日本という国が戦っているとき、足を引っ張る真似ができるのか、というのである。そして先生が最も軽蔑したのは終戦を境にして態度を百八十度豹変した知識人たちであった。自らの言動に責任をもつこと。それが先生の信念であった。
https://www.kyoto-su.ac.jp/about/enkaku/kenkokoro.html
●影武者の愛子内親王が拒食症で危篤状態になり、看病に専念するため徳仁殿下は秋篠宮に皇太子の位を譲るシナリオか? - 国際情勢の分析と予測
https://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/4269e818d56d1b43598e17ce9e08a7f9
●梨本宮家と金王朝 - ネットゲリラ 野次馬 (2012年11月19日 12:04)
公式には、男子を二人産んだ事になっていて、女子は記録にない。ところが、昔から皇族では女子は「員数外」であって、嫁入り先にも困るので、こっそり尼寺に入れちゃったりするわけですね。京都には無数の尼寺があって、そういうのって、たいてい皇族と関係があったりする。で、この李方子さんが産んだ女の子が、あの横田めぐみさんの母親である「横田さきえ」さんだ、という説です。言ってみれば、横田めぐみさんは、朝鮮王室と日本の皇室、双方の血筋を引いた、超名門の娘だという事になる。もちろん、李方子に女の子がいたという話はないので、コレは公表されている話ではないのだが、こういう厄介な家柄では、女子の誕生を「なかった事とする」場合があるわけですね。嫁ぎ先にも困るんだから。
http://blog.shadowcity.jp/my/2012/11/post-1577.html
●関西空港と奈良を直結する「リニア新支線」に調査費 - 産経ニュース 2019.6.14 08:11産経WEST
奈良市付近に設置が予定されるリニア中央新幹線新駅と関西国際空港を結び、インバウンド(訪日外国人客)を奈良県内に直接呼び込む「リニア新支線」構想がいよいよ動き出す。奈良県は13日発表した一般会計6月補正予算案に、同構想の調査・検討費用として2500万円を計上。荒井正吾知事は「難しいチャレンジだが、需要や工事費を検討し実現可能性を探っていきたい」と意欲的だ。
リニア新支線構想は、リニア中央新幹線の開通が前提。インバウンドにとって「関西の玄関口」である関西国際空港から、外国人観光客を県内に直接誘導して観光振興につなげる狙いがある。
構想は4月の知事選で荒井氏の公約に盛り込まれた。「常電導リニア新幹線を建設し、関空と新駅を20分超で接続する」とし、途中の停車駅は、大和高田市、御所市、五條市、和歌山県橋本市を想定。将来的には京都府京田辺市付近で北陸新幹線にもつなげたいとしている。
リニア中央新幹線の東京-名古屋間は2027年に開通予定だが、大阪までの全線開業は2037年とされ、新支線開通は実現しても18年以上先となる。
荒井知事は会見で、「リニア中央新幹線が品川-新大阪間で全線開通すると、関空からの結節点でもある新大阪への集中が過剰になる」と説明。さらに「結節点を分散させるリダンダンシー(多重化)や交通の多軸構想の観点からも意味がある」と必要性を強調した。
https://www.sankei.com/west/news/190614/wst1906140008-n1.html
●令和元年度6月補正予算について(pdf 623KB)
② 平城宮跡周辺地域における街路渋滞対策の検討
令和元年度6月補正予算案
8百万円(債務負担行為 26百万円)
・平城宮跡周辺地域における抜本的な渋滞対策の検討
・近鉄線の移設等に関する調査・検討
③ リニア中央新幹線、関西国際空港・リニア中央新幹線接続新幹線の調査・検討
令和元年度6月補正予算案 25百万円
・リニア中央新幹線の想定ルートに関する調査・検討
・ 「奈良市附近」駅と関西国際空港を直結するリニア新支線に関する調査・検討
http://www.pref.nara.jp/secure/213625/20190613_gaiyou.pdf
【私のコメント】
皇室の菩提寺として歴代北朝系皇族の墓を有する京都市の泉涌寺には「御寺泉涌寺を守る会」という組織が昭和41年に設立され、昭和天皇の弟とされる故三笠宮が総裁となった。そして、三笠宮の後を継いだのは秋篠宮であった。以後、秋篠宮夫妻は毎年京都を訪れて「御寺泉涌寺を守る会」に出席しているようだ。明治天皇と昭和天皇はこの寺には殆ど訪れなかったが、大正天皇は訪れていたという。孝明天皇の血を引く北朝系皇族の
代表が大正天皇・三笠宮・秋篠宮であることを示唆している。
そして、2015年3月には秋篠宮紀子妃が皇族ゆかりの尼寺である大聖寺の「大聖寺文化・護友会」名誉総裁に就任、以後毎年京都を訪問して出席されるようになっている。今年5月には何と紀子妃と共に眞子内親王が出席されている。今後眞子内親王が大聖寺の当主とし京都に居住されることを示唆していると思われる。
ネットゲリラが指摘するように、大聖寺や泉涌寺の様な寺は皇族子女を匿う施設として機能してきたと思われる。影武者疑惑のある愛子内親王だけでなく、秋篠宮や悠仁親王も東京にいるのは影武者で、本物は京都の寺で住職として超能力の修行をしているのかもしれない。これらの寺に関与するのが三笠宮系と秋篠宮系の皇族に限られるという事実は、彼らだけが神(宇宙人?)と交信する能力のある真の皇族であることを示唆している。そして、秋篠宮一家の関西への帰還による京阪奈京への還都が迫っていることも示唆していると思われる。
既に皇族では彬子女王(故三笠宮の孫)が京都に居住し、日本文化研究員として立命館大学や京都産業大学で職を得ている。この両大学は国際金融資本系の同志社や関学と異なり大東亜共栄圏系の大学である。由緒ある京都の中心市街地で御所の北隣という一等地を犯罪組織国際金融資本系の同志社が占有しているのは嘆かわしいことだ。学研都市キャンパスや附属小中高校も含めて学校法人同志社を廃止してその跡地を皇族の祭祀の為に利用すべきと私は提言する。同時に洛星中学高校、平安女学院、ノートルダムなどの旧市街地のキリスト教系学校も廃止して敷地を没収してしまえばよいだろう。犯罪組織国際金融資本の世界侵略の尖兵である西方キリスト教をなぜ秀吉や家康が断固として禁止したのか、我々はその意義を学ぶべきである。
奈良県の令和元年6月の補正予算も注目される。北陸新幹線学研都市駅からリニア奈良市付近駅を経て大和高田・御所・橋本を経由して関西空港に向かうリニアの支線が計画されているというのだ。奈良と関西空港を結ぶルートは私は以前から北陸新幹線の精華町祝園付近駅→天王寺→関西空港駅という延伸を予想してきたが、今回のリニア支線はかなり遠回りである。根来寺・高野山・吉野などの重要寺社が至近距離にあり参拝者と観光客が主要な顧客かと思われる。リニア支線と言っても駅間は非常に短く、一般の新幹線並である。リニアではなく北陸新幹線の単線の支線となる可能性もあるだろう。
奈良県の補正予算でもう一つ注目されるのは、平城宮跡歴史公園を横断する近鉄の線路の移設や周囲の道路渋滞についても調査予算が付いたことだ。秋篠宮や悠仁親王が即位するであろう復元大極殿を有する平城京跡歴史公園の整備は京阪奈京への還都を象徴するプロジェクトだ。奈良県庁の橿原市への移転、県立平城高校を廃校にしてそこに奈良高校を移転させる(奈良高校が学研都市区域内に移転する)など、首をかしげたくなるニュースが奈良県には多い。これらは京阪奈学研都市への遷都を前提としているとしか思えないのだ。これらのプロジェクトを提言している荒井奈良県知事は大和郡山市育ち、奈良女子大附属高校卒業で運輸官僚を経て参院議員・奈良県知事を務めている。還都に関連する交通機関や皇族向け教育機関(恐らく奈良女子大附属小・中等教育学校)の整備を推進するために運輸官僚が奈良県知事に送り込まれたのだろう。
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https://tenki.jp/forecaster/deskpart/2019/06/28/5105.html
狙っただろ。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46630140X20C19A6000000/
https://www.sankei.com/life/news/190627/lif1906270018-n1.html
秋篠宮ご夫妻が出発 代替わり後初の外国公式訪問(19/06/27)
https://www.youtube.com/watch?v=zC0pBipRbPM
https://www.youtube.com/watch?v=KawLwreNvbM
秋篠宮家では職員をモノの名前を付けて呼ぶという報道があったから相当酷いと予想。
「オレ様は将来天皇になるんだぞ。」
「お前ら平民とは違うんだ」
「うるせー、平民ども」
「オレに逆らったらお前らの将来潰すぞ」
紀子さまの熱心な密着教育で、悠仁さまはほとんどマザコン状態だと報道されています。母に似て悠仁さまが、上から目線の暴言を吐かれる可能性は高いでしょう。
先ほど挙げた週刊誌報道によれば、悠仁さまは周囲の人間に酷い言葉遣いをしているそうです。スキャンダルとして表に出てくるほどですから、よっぽどな言葉遣いだったのでしょう。
当サイトに寄せられたコメントやアンケート結果によれば、眞子さまの“よからぬあだ名”は「マ〇〇」とか「馬鹿女 」ではないかと推測されています。さもありなん、でしょうか?
眞子さまが高校時代トイレに並ばないのを注意した上級生に
「私を誰だと思っているの」
「おじい様にいいつけるわよ」という逸話からの発想でしょう。
ちなみにその母親も「私は将来皇后になる身です」といって周りの意見に聞く耳持たなかったという
」https://rondan.net/25140
https://www.youtube.com/watch?v=69qBw2dRfWY
ヒトラーのカルテ
https://www.youtube.com/watch?v=9y68Yndc5SU