国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

1947年の新制精華中学設立の時点で精華町に新皇居を建設するという明確な計画と強い意志があったのではないか?

2018年08月06日 | 京阪奈学研都市への遷都
ところで、精華町の「精華」はこの地域の伝統的な地名とは無縁である。1947年に複数の村が設立した組合立の新制精華中学校にちなんで1951年4月に昭和の大合併で二つの村の合併により精華村が誕生している。その後1955年に町制が施行されている。平成の大合併で東隣の木津町・北隣の京田辺市と合併する案もあったが木津町と精華町の反対で実らず、木津町は他の町村と合併して木津川市に移行、精華町は京阪奈学研都市の中心でありながら京田辺市と木津川市に挟まれた町のままで存続しており、「精華」の名前は失われていない。この「精華」は1896年から1920年まで存在した組合立の精華高等小学校(現在の新制中学に相当)に由来しており、1890年(明治23年)10月30日に発布された教育勅語の「国体の精華」から名付けられている。同様に「精華」の名を冠する学校は公私立の小中学校、私立の高校・大学が日本各地に存在しており、福山市と岐阜市の二つの新制公立中学、2009年開設の山口精華学園を除くといずれも戦前の設立で教育勅語に因んでいると思われる。ただ、福山市・岐阜市・精華町の新制公立精華中学校の設立が異例であるのは、教育勅語を否定したGHQの占領体制下で教育勅語に由来する名を冠する公立学校が設置ないし再開されたことにある。また、昭和大合併による精華村の設立もGHQの占領体制下である。更に、平成の大合併で京田辺市や木津町と合併していれば、両自治体と比較して小規模であり冠する名称に長い歴史も持たない精華町は吸収合併されて「精華」の名前が失われることは避けられなかったであろう。日本の体制や文化を破壊することを目的としたGHQ占領下という困難な状態で教育勅語の一節を叫び、それを戦後長きにわたって守り続けてきたのは、1947年の新制精華中学校設立の時点で精華町(恐らく祝園分屯地)に新皇居を誘致するという明確な計画と強い意志が存在したことを示していると思われる。 . . . 本文を読む
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