国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

「日本とは何か、どんな役割があるのか」と考えると、「縄文人・弥生人とは何者か」という問いに行き当たる

2017年07月09日 | 21世紀の日本の進むべき進路
「倭は呉の太伯の後」の「太伯」とは、「太伯と虞仲の兄弟は荊蛮の地へと自ら出奔し、後になって周の者が太伯らを迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物であると主張し現地にとどまった」という太伯の行動を指しているのだという仮説である。倭人は更なる荊蛮の地であった西日本に自ら出奔する際に、「戦乱と虐殺が相次ぐ中国大陸には決して戻らずに日本列島に骨を埋める」と決意して渡航したのではないかと私は想像する。場合によっては倭人集団の中に呉の王族を含む支配階層で虐殺を逃れた者が潜入しており、彼らが太伯の故事を倭人に広めたのかもしれない。太伯と虞仲の兄弟が荊蛮の地の住民の風習を取り入れて周の風俗を捨て去ったように、中国大陸東部から日本列島に移住した中国系弥生人は、呉音を残した他は自らの言語を捨て去り、満州から朝鮮半島を経て日本に移住した扶余族系弥生人の言語を取り入れた可能性が考えられる。 冒頭で銅鐸文明の出雲王朝を銅鏡・銅剣文明の九州北部王朝が滅ぼした仮説に触れたが、扶余族系弥生人が出雲王朝で、中国系弥生人が九州王朝であったという仮説を私は提唱したい。出雲王朝が縄文人で九州に扶余族系と中国系の2種類の弥生人がいたという仮説もあり得るが、九州の巨大カルデラ火山の破局噴火は出雲地区を含めた中国地方の縄文人にも致命的な打撃を与えた筈であり、縄文人国家が存在したならその中心は東日本になるのではないかと想像する。更に、銅鐸文明の出雲王朝が縄文人ならば、銅鐸地域である中国地方と近畿地方にはATLウイルス抗体陽性者が多くなる筈だが実際にはそうではないことからも、銅鐸文明の出雲王朝は銅鏡・銅剣文明の九州王朝と別種の弥生人であったことが示唆される。 . . . 本文を読む
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