国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

ベラルーシ訪問記

2011年09月17日 | ロシア・北方領土
最近ベラルーシを訪問したので記録を残しておく。




ベラルーシは人口約1000万人の東欧の国家である。ソ連崩壊後に独立したが、ベラルーシ語はロシア語の方言程度の差しかなく、ルカシェンコ大統領も親ロシア的政策であって、事実上ロシアの衛星国的な存在である。今回の旅行の目的は、第二次大戦の戦場となったこの国の戦争関連の史跡を訪問することである。

首都ミンスクの空港には昼に到着した。スーツケースが届かず、空港で手続きをする。パリで乗ったエールフランスのウィーン行きの便が怪しい。パリ発のエールフランスでのロストバッゲージはこれで2回目である。シャルル・ド・ゴール空港の職員はスーツケースを開けてめぼしいものを盗むという悪い噂がある。エールフランスも最近客室搭乗員が日本パリ便のビジネスクラスの客のカバンから頻回に現金を盗んでいたことで評判が悪い。南太平洋で飛行機が墜落して乗客全員が死亡した事件も記憶に新しい。フランスはもはや先進国とは呼べないように思う。

空港ではボッタクリのタクシーばかりという情報があったので前もって頼んでおいたホテルの車の運転手を見つける。運転手に頼んで空港のATMのベラルーシ語表示と格闘してベラルーシルーブルを手に入れる。有人の両替所はレートが極端に悪いので私は一切使わないようにしている。その後、車でホテルに向かいチェックインした。チェックイン後にすぐにホテルから出て目的の一つであった大祖国戦争史国立博物館に徒歩で向かう。



展示は全てベラルーシ語(又はロシア語?)で文字が読めないので写真や絵を見る。


基本的に、ソ連軍=正義、ドイツ軍=悪というプロパガンダの展示である。従って、ドイツとロシアが1939年に独ソ不可侵条約の秘密協定(モロトフ=リッベントロップ協定)でポーランドを分割したことには一切触れていない。1939年と1941年で展示の地図のソ連の西方国境の位置が何の説明もなくずれていることには笑ってしまう。ポーランド将校が虐殺されたカチンの森事件にも、ワルシャワ蜂起をわざとソ連軍が見殺しにしたことも一切触れられていない。

そもそも、第一次大戦後にドイツ・日本・フィンランドなどの枢軸国で軍国主義が起きたのは、ソ連の革命に対する正常な反応である。ロシア革命はハザール系のユダヤ人がウォール街のユダヤ人の支援を受けてロシアの国を乗っ取り、ロシア皇帝一族を虐殺し、ロシアやウクライナの富農や知識人を強制収容所に送って大虐殺したというユダヤ革命である。ドイツや日本はこの共産主義革命の悲惨さを理解した上で、ロシア人を救うために独ソ戦争やノモンハン事件を起こしたのである。また、ドイツがユダヤ人を迫害したのは、東欧のハザール系ユダヤ人がロシア革命の主導者であったからである。私の認識する限り、枢軸国こそ正義であり、連合国は犯罪組織そのものである。

ソビエトのユダヤ支配は1953年に第二次大戦の英雄であったジューコフ元帥がクーデターを起こしてベリヤとカガノビッチを逮捕したことで終焉する。これはジューコフの最大の業績であろう。そして、ジューコフの最大の失敗は、ロシア民族を犯罪民族であるハザール系ユダヤ人から救おうとしたナチスドイツを滅ぼしてしまったこと、同様にロシア民族を助けようとした日本をノモンハン事件で倒してしまったことであると私は考えている。ジューコフはロシアの最大の敵であるユダヤ人の手先になって、自らの味方を滅ぼしてしまったのだ。

大祖国戦争史国立博物館の後は民族文化歴史博物館に行く。ありきたりな展示である。その後、トラエツカヤ旧市街区に行く。何の面白みもない民家が建ち並んでいるだけである。ただ、その前を流れる川の風景は素晴らしい。川の中には小島があり、そこにはアフガン戦争での戦死者の慰霊碑がある。英語ではTears of sorrowと呼ばれているらしい。


その後、近くのセルフサービスレストラン「マクシ・ビス」で夕食をとる。地球の歩き方に載っていたレストランである。建物の壁には労働者の彫像が並んでいる。その後地下鉄でホテルに戻る。この半日でミンスク市街地の観光は終了してしまった。

翌日はミンスクの北西30kmにある「スターリンライン」という軍事博物館に向かう。ここは地球の歩き方にもロンリープラネットにも紹介が無かったが、インターネットで現地情報を探る内に見つけたものである。


独ソ不可侵条約以前のロシアは西側からの攻撃を恐れ、バルト海から黒海に至る長い要塞線を建設していた。ただ、マジノ線ほど本格的ではなく、ドイツ軍の侵攻を押しとどめる効果はなかったらしい。当時のソ連の西部国境はミンスクのすぐ西側にあったため、国境のすぐ東に建設されたスターリンラインはミンスクから20-30km西側を通ることになった。このスターリンラインの遺跡を発掘・展示した上で、戦車やミサイルや戦闘機を沢山展示したのが「スターリンライン」である。


ミンスクから現地に向かう交通機関を探したがネット上では見つからない。ボッタクリのタクシーを使うのは嫌なので、最寄りの町ザスラフリにある国鉄駅(ベラルーシ駅)まで電車で移動する。運賃2000ルーブル≒30円。


国鉄駅でタクシーは見つからなかったが、マルシルートカという乗り合いバスが通じていることを知る。ただ、当日は道路工事の影響でバスがベラルーシ駅に立ち寄らないらしい。そこで、バスを待っていた他の女性客と一緒に別のマルシルートカで国道まで移動、そこでスターリンライン行きのマルシルートカを探すが満員のためか乗車拒否にあう。結局タクシーでスターリンラインまで移動した。移動距離は数kmで30000ルーブル≒500円。ネットで探したツアーだと総額1万円~3万円が相場だったので格安である。帰りはマルシルートカでミンスクの国鉄中央駅まで行く。5600ルーブル≒80円。電車よりは割高だがそれでも格安である。帰りのマルシルートカは655TK系統であった。今後スターリンラインに行きたい人は中央駅前からMolodechno行きのマルシルートカ(655TK系統?)で直接行くのが良いだろう。






スターリンラインの展示は期待していたほどではなかった。さびれたカフェで食事をとったり、ライフル銃の試し撃ちをしたりして時間を過ごす。最後に敷地内にあったスターリンの胸像を見てからバス停に向かう。20分ほど待つとマルシルートカが来たので乗る。マルシルートカは時刻表があるのかどうかよく分からない。行きに世話になった女性客は時刻表の紙を持っていたが、通常マルシルートカは客で車が満員になってから発車するシステムで時刻表はないはずだ。

あと、行きに世話になった女性客は母親が1939年にミンスクからアルゼンチンに移民、1956年にミンスクに戻った経歴があるらしい。「モメント」とスペイン語混じりの英語だった。恐らく、ナチスの侵攻を恐れたユダヤ人だろうと推察したが、詳しく聞くのは拙いかと思いそれ以上聞かなかった。

スターリンラインからミンスクに戻ると夕方3時だった。翌日のブレスト訪問に備えて切符を買うがここで一苦労する。紙に行き先や希望列車の時刻や日付を全部書いて渡すが全く読もうとしない。英語がしゃべれるベラルーシ人に助けて貰いなんとか切符を買う。切符売りの女性の態度は最悪である。


翌日はブレストを訪問した。ミンスク06:16→ブレスト10:23、ブレスト17:43→ミンスク22:03という日程の強行軍だが、列車は寝台車であり横になって眠る事が出来た。ホテルの朝食が7時からなので、前日に買っておいたソーセージとパンで朝食を車内で済ませた。列車は4人一室のコンパートメントで、客は自分の他は若い白人男性のみ。英語で話しかけたが分からないとのことだった。

ブレストの駅は比較的大きい。駅を降りて長い跨線橋を渡って市街地に向かう。最初に訪れたのはブレスト市の歴史博物館、その次は郷土博物館である。川の中州に生まれた城郭都市が城郭の外に拡大し発展していく様が地図に描かれていた。この川の中州の旧市街地は今は要塞になっている。ブレスト要塞の歴史はよく知らないのだが、1918年のブレスト・リトフスク条約が結ばれた「白い宮殿」の廃墟は要塞の中にある。1939年にブレストがソ連に併合されてから1941年の独ソ開戦までの間に旧市街の市民が立ち退かされたのであろうと思われる。

第一次大戦後から1939年までポーランド領であったことを反映して、この時代の文書はラテン文字とキリル文字の両方があった。恐らく、ブレストではポーランド系とベラルーシ系の両方の住民が混在していたのだろうと思われる。基本的に同じスラブ系民族であり、恐らく両者の違いは宗教がカトリックか東方正教会か、文字がラテン文字かキリル文字かぐらいだろう。どちらに属するのか微妙な人々も多数存在したと思われる。ベラルーシ人とは何か、と言う根元的な問いかけをしたくなった。

博物館二箇所を廻った後は、広い公園の一角にあるレストラン「ウ・オゼラー」で食事をとる。池を望むテラス席はなかなか眺めがよい。休日のためか結婚式が多かった。


食事の後に最大のハイライトであるブレスト要塞に向かう。要塞の入り口が地球の歩き方の地図では分かり難いので通行人に聞きながら歩く。どうやら、要塞には北側と南東側の二箇所の入り口があるようだった。要塞の中は広い緑地になっている。その中央に人の顔をかたどったコンクリート製の巨大なモニュメントがある。ドイツ軍の侵入以後、ベラルーシ全土がドイツ軍に占領されても英雄的な抵抗を続けたことを記念しているのだろう。


要塞の中の博物館を見学する。ドイツ軍=悪、ソ連軍=正義というプロパガンダで占められているのはミンスクの大祖国戦争博物館と同じである。博物館の最後の展示は、ベルリンの国家議事堂かと思われる建物の頂上でソ連の国旗を振るソ連兵の写真であった。ソ連をハザール系ユダヤ人の共産主義独裁から救うために立ち上がったドイツを倒してしまった点で、この戦争はロシア人にとって最悪の敗北であり、ハザール系ユダヤ人にとって最高の勝利であったのだ。最悪の敗北を勝利と喜ぶ彼らには可哀想としか言いようがない。恐らくロシアの支配階層は真実を知っているが、国際金融資本と反対勢力の戦争がまだ継続しているために真実を公表することが出来ないのだろうと思われる。





要塞の後は鉄道技術博物館、税関押収品博物館、ツム百貨店を廻って駅に向かった。鉄道技術博物館は名前に反して技術的展示は皆無で、ソ連時代の古い機関車が数十台展示されているだけである。


ブレストは鉄道の結節点でありかつ国境の乗換駅として重要な地点である。地図を見ると1876年にブレストに鉄道が開通している。ブレストはマッキンダーが「ハートランド」の中の「pivot area」と呼んだ地域の中心に位置する。鉄道の発達でロシアやドイツと言った東欧の大陸国家が繁栄していくことは、シーパワーの英国にとっては大きな脅威であったと思われる。結局、英国を支配する国際金融資本は、英国から米国に世界覇権を移動させた上で、ロシアや中国を共産主義革命で乗っ取り、共産主義と米英資本主義の二極体制によって日本とドイツという仮想敵国を叩き潰して世界を支配し続けることを選んだのだと思われる。英国から米国への世界覇権移動にあたって重要なのは1913年の米国の連邦準備制度(FRS)及び連邦準備銀行(FRB)設置である。これは、欧米の民間銀行が共同で米国の中央銀行を設立したものであり、事実上国際金融資本による米国乗っ取りを意味する。20世紀で最も重要な事件はこのFRS/FRB設置であり、次に重要なのがロシア革命である。これによって国際金融資本による世界支配体制の基礎が確立されたのだ。ブレストがドイツ軍によって攻撃された1941年6月22日は、国際金融資本が支配する共産主義体制に対してナチスドイツ軍が正義の戦争を開始した偉大な日として記憶されるべきである。

税関押収品博物館はイコンなどの密輸品が展示されていた。国境の町ブレストならではである。ツム百貨店では食料品売場で夕食を調達する。その後駅に戻る。ブレスト駅でミンスク行きの列車に乗る。ブレスト始発ミンスク経由モスクワ行きである。ミンスクで降りると大量の乗客が私の乗っていた車両に乗り込んだ。ベラルーシとロシアの親密な関係を反映しているようだ。ソ連は崩壊しても、ブレストは依然としてロシア文明圏の西の端なのだ。





最終日はミンスク郊外の城(ミールとニャースヴィシュ)を2カ所訪問した。共にミンスクの南西方向で比較的近接している。地球の歩き方によるとミンスクからバスがあるらしいが2カ所を一日で廻るのはバスの接続の関係で滞在時間が十分とれない様だ。英語のインターネットの掲示板で探したViapolという旅行会社の現地ツアーに申し込む。昼食+夕食付きで14万ベラルーシルーブル(約2000円)と格安である。ただし催行日は限られており、今のところは日曜日だけである様だ。他のツアーは全て車チャーター+英語ガイド付きで2-3万円、現地物価を考えるとボッタクリもいいところである。Viapolのツアーはメールアドレスに英語で申し込むだけで、代金は当日払い。プラニエータホテルから午前8時出発であった。バスは大型バスだが客でほぼ満員であった。ガイドは英語を解さないので説明は全てロシア語のみ。一時集合場所などは同じグループの客に聞いて確認する必要がある点は面倒だ。興味がある人はグーグルのロシア語→英語翻訳をつかって下のアドレスを読んで欲しい。
http://viapol.by/assembly_belarus.htm
http://viapol.by/assembly/bel-10a.htm

8時にミンスクを出発、途中でティータイムの休憩を挟んでミール城に10時半頃到着。バスの運転席脇には会社名Viapolと訪問先2カ所(ミールとニャースヴィシュ)がロシア語で書いてある。


バスを降りてミール城を見学する。ミール城とニャースヴィシュ城はかつてリトアニア公国の最高権力者でありその後ロシア帝国の貴族であったラジヴィル家の所有であった。ロシア革命後はミールとニャースヴィシュは共にポーランド領土になり、1939年にモロトフ=リッベントロップ協定でポーランド東部がソ連に併合され、ラジヴィル家は領地から追放されることになる。建物は見事に修復されており、ユネスコの世界遺産にも指定されている。


ミール城見学の後はニャースヴィシュに移動、まずレストランで昼食である。現地人客ばかりのなかで1人だけ東洋人というのは非常に浮くのだが、気にせず食べる。同じテーブルのグループ客に聞くと、皆ベラルーシ人でミンスクに住んでいるという。料理の味はまずまず。

食事の後はキリスト聖体教会に移動。なかなか見事な教会である。ラジヴィル家の廟である関係で、ローマカトリックの教会である点が特筆される。教会の中の文字はほとんどがラテンも時で、ラテン語とポーランド語と思われる。リトアニア・ポーランド連合がカトリックであった影響なのだろう。ラジヴィル家一族の墓が地下にあり見学する。


その後、ニャースヴィシュ城に移動する。湖に面した見事な城である。城のまわりは壕があるほか、芝生と樹木が生えた広大な公園の様になっている。壕を渡って城に入り中を見学する。展示された古い書物や書類はポーランド語の文字が大部分である。ロシア帝国の貴族階級の裕福な生活を垣間見ることが出来た。




その後バスでミンスクに戻る。まずミンスク駅前で客の大部分が下車する。次に出発地点のプラニエータホテルに到着、1人を除いて客が全員下車、ガイドも下車してしまう。残った客と運転手に聞くと、夕食のレストランはホテルの中らしい。しかし、ホテルのレストランには誰もいない。恐らくガイドが私が夕食込みのツアーを申し込んでいることを忘れてしまったのだと思われる。朝代金の支払いの時に申込者名簿を見たが、夕食を申し込んでいるのは私一人だった。今後もしviapolのツアーに申し込まれる人は、夕食抜きのプランで申し込んだ方が賢明かと思われる。

旅行にトラブルは付き物である。まずはホテルのレストランに行く。英語を解する親切な中年女性のウェイトレスに頼んで、Viapolの会社に電話をして交渉して貰う。その後、ホテルのレセプションに行き交渉、ホテルのレストランで好きなものを食べて良いとのこと。親切なウェイトレスには2万ベラルーシルーブル(約300円)のチップを渡した。ツアーでは夕食代金は3万ベラルーシルーブル(約450円)だったはずだが、何を食べてもタダとのことなので好きなものを頼む。サラダとポークステーキとミネラルウォーターで合計11万ベラルーシルーブル分の料理を頼む。素朴な田舎料理だが味は悪くない。ウェイトレスに礼を言ってレストランを出る。

その後、ホテルまで30分ほどかけて歩く。帰り道に見かけたスーパーマーケットで旅行土産を買い込む。20cm角の箱に入ったチョコレートが150-250円程度で格安である。キリル文字が入った現地風の菓子を選んで多数買い込む。その後ホテルのロビーで深夜まで時間を潰し、ホテルからタクシーで空港に移動して早朝の飛行機でウィーン・パリ経由で羽田まで乗り継いだ。なかなか充実した旅行であった。



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18 コメント

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Unknown (Unknown)
2011-09-17 07:55:21
こんな時期に長期休暇を取れるところから判断すると、相当のご高齢(少なくととも、定年後)に違いない。
やはり1941年生まれのプリンスだと確信した。
返信する
Unknown (Unknown)
2011-09-17 08:54:00
戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は
1941年12月に撃沈されてんですよ、よって・・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2011-09-17 09:03:29
「おじいちゃん、もう韓国滅亡は飽きたよ」と孫に言われる毎日である。
返信する
Unknown (1)
2011-09-17 15:32:59
街の情景や住人の様子など面白味も何もない旅日記ですな。
返信する
Unknown (Unknown)
2011-09-17 17:23:40
仕方ないよ、だって
「おじいちゃんの旅日記」
だもん。
返信する
CatShitOne (東欧からロシアにかけては、今どういう状態なんでしょう)
2011-09-18 04:45:39
ロシア人はかつて一度も市場経済体制(マーケット・エコノミー・システム)で生きたことはない。
現在もあの国にはマーケット・エコノミー・システムというものは無い。

しかしそれでも1億4000万人の人間が生きている、そのための資材の流通構造というものはあるのだろう。
それはどのようなものか。

マーケット・エコノミー・システムでは、モノがA→Bに移動すればそれにともなって金銭がB→Aへと移動する、この関係が社会の隅々まで行き渡って機能している。ヤクザですらこのシステムからは逃れられない。

ロシアにマーケット・エコノミー・システムが無いなら、1億4000万人の人間が生きるのに必要なモノの動きを引き起こしているものは何か。

本質的にはロシア民族であるベラルーシで何か面白い事は発見できましたか。
返信する
旅行記 おもしろいですよ! (トモメル)
2011-09-19 00:16:24
こんにちは、princeofwales1941様。

ベラルーシ訪問記、大変面白く拝見しています。
ほか、ロシア極東旅行記等、
行ったことの無い場所や事柄について
記事と論説は、参考になります。
それから、写真好きもですよ。

聖火の写真がありましたが、、、!
イルミナティーの魔術がかけてありそうですね。

読者として、楽しく拝見していますので、
頑張って!これからも更新よろしくお願いします。
返信する
Unknown (ha)
2011-09-19 13:41:53
ロシア、東欧の情報は日本にあまり入ってこないので期待してます

ロシア政治経済ジャーナルによると、ロシアは治安が悪く
外国人がよく襲撃されたりするので気をつけた方がいいようです

最近ロシアが日本を挑発するのは
南の中国と北のロシアで、日本に2正面作戦を強要し
日本の対ロ政策での譲歩や対中での連携を迫ったものであるという自衛官の分析が某新聞に掲載されてました
返信する
Unknown (Unknown)
2011-09-19 15:51:31
おじいちゃんの妄想ブログ
返信する
Unknown (Unknown)
2011-09-19 16:31:48
ロシアで外国人は絶対にタクシーに乗ってはダメだと聞きました。
沢山の外国人が行方不明になっています。
乗ったら最後、財布だけ盗まれて、そのまま郊外で殺され放置。
壮大な人口密度の恐ろしく低い森林大自然の一角に放置…
警察も絶対捜査しないそうです。ちゃんとしたタクシー会社でも
偽物が沢山いるそうです。
返信する

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