国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

マリーアントワネット・ナポレオン・ヴィシー政権:フランス革命と第二次世界大戦

2012年06月18日 | 欧州
○地政学を英国で学んだ : 英海軍の縮小とエリザベス女王在位六〇周年記念行事  2012-06-08


さて、イギリスで数日間にわたって行われていたエリザベス女王在位六〇周年記念で見えてきた英海軍の栄光の衰退について興味深い記事がありましたので、その要約を。

それにしてもこの「衰退の仕方」には驚くべきものがありますね。

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エリザベス女王在位六〇周年記念:女王はもう海を支配できない

●一八九七年の六月二六日、英海軍の一六五隻もの艦船はスピッドヘッド海峡に集結し、ビクトリア女王の大英帝国在位六〇周年を祝う式典に参加していた。

●そこに集まっていたのは二一隻の戦艦と四四隻の巡洋艦であり、それぞれの船には「ヴィクトリアス」とか「パワフル」のように、世界に広がる帝国の力を象徴するような名前がつけられており、式典は見に来た各国の武官たちに英国の力を誇示する狙いがあった。

●しかも集まった艦船には、地中海やその他の海域でシーレーンを守る任務についているものは一隻も混じっていなかったのである。

●当時の新聞には「この素晴らしい光景に感動しないイギリスの納税者は、愛国者でもないし、本当の市民ではない」と書かれているくらいだ。

●ここにいた唯一の遊覧船は、ウェールズ皇太子、後のジョージ七世を載せるためのものであり、彼は連日続いていた在位六〇年の行事に参加して疲れきっていた母親(当時七八歳)の代わりに観艦式で敬礼を行っていた。ヴィクトリア女王はその代わりにワイル島の別荘から、望遠鏡で観艦式の様子を眺めていた。

●それから一一五年の後のイギリスでは、歴史上二回目となる在位六〇周年記念祭が開催されている。

●この行事には、国家の歴史の「偉大な瞬間」となる節目に必ず行われる海軍の観艦式が予定されているのだが、今回ばかりは「偉大な瞬間」とはならないだろう。

●イギリスを二度の大戦から救った英海軍は、今となっては巨大な自らの過去の影にひっそりとたたずむ情けない存在であり、何度も予算縮小のあおりを受けた結果として、十数隻を集めるのさえほぼ不可能な状態となっているのだ。

●もっとも恥をかいているのは、このような壊滅的な縮小を受け入れてきたことを隠さなければならなかった英国防省の大臣や制服組の官僚たちである。彼らは英海軍が今週の祝賀会で大きな役割を果たしていないことを注目されないようにドキドキしているのだ。

●英海軍の現役の指揮官の一人は、英国防省でこのトピックに関して箝口令が出ていると述べており、「船の数が少ないですからねぇ。昔みたいな豪勢な眺めはもう無理です」と言っている。

●第一海軍卿(英海軍の制服組のトップ)を務めたことのあるウェスト卿は、観艦式を行えば単なる国家の恥をさらすことになるだけだと言っている。

●「今やるとしたら、二隻ほどの潜水艦と五・六隻のフリゲート艦と駆逐艦ぐらいは出せると思いますが、まあ小規模で地味なもんですよ。時代の移り変わりを実感しますよね。なんと言っても艦船の数が劇的にへらさられて、有意義な観艦式を行うことさえできなくなっているわけですから」

●たしかにいままで行われてきた観艦式と比べると、その規模はかなり対照的だ。観艦式は一四一五年から行われており、最初はヘンリー五世がフランス侵攻のために集めた船を見るためのものだった。

●今世紀に入ってからは戴冠式に合わせて開催されるようになり、一九一二年のジョージ五世、第一次大戦への動員の時の一九一四年、それにジョージ六世の一九三七年の戴冠式、現在の女王の一九五三年の戴冠式と、一九七七年の在位二五周年の時、そして二〇〇五年のトラファルガー海戦の二百周年記念の時に行われている。

●ところが在位五〇周年(二〇〇二年)の時には、国防費カットの影響もあって、観艦式は行われなかった。

●イギリスの戦艦などに関する雑誌の編集者は「観艦式は女王にとって自分の船を見つつ、海軍の部下たちに王制への忠誠を新たにさせるよいチャンスであり、伝統的なものです。二〇〇五年のトラファルガー海戦記念祭の時は百隻以上集まったのですが、その半分は外国の船で、参加した船の中で一番大きかったのはフランスの空母シャルルドゴールでした」と言っている。

●二〇〇五年以降の英海軍はハリアー部隊を失ったため、実質的に自らの航空戦力を喪失したことになる。唯一の空母「イラストリアス」はヘリを積んでいるだけで、他には「平甲板」の水陸両用艦オーシャンがヘリをつめるだけだ。

●エリザベス女王とフィリップ殿下(彼は結婚前は士官だった)は一九五三年の六月一五日の観艦式をうらめしく思っているはずだ。その時彼らはフリゲート艦「サプライズ」に乗り込んで観艦式を行い、戴冠式を記念した行事に参加していたからだ。

●「イーグル」「インドミタブル」「イラストリアス」「テセウス」「ペルセウス」などは、第二次大戦の建造ラッシュのおかげでそこに並んでおり、カナダの「マグ二フィセント」とオーストラリアの「シドニー」も一緒だった。

●その他にも地中海は極東で作戦に従事していた艦船の多くは欠席していた。この観艦式に参加したのは三〇〇隻ほどで、海軍航空隊の飛行機も三〇〇機ほどが上空飛行している。

●一九七七年の在位二五周年記念の時は艦隊の規模が劇的に縮小していたのだが、それでもまだアメリカとソ連につぐ世界第三位の規模を誇っていた。二隻の空母(うち一隻は「アークロイヤル」)、二隻の巡洋艦、強襲揚陸艦一隻、一七隻の駆逐艦、一八隻のフリゲート艦、一四隻の潜水艦、そしてその他多数の小規模艦などだ。

●このときはそれほど外国の艦船に来てもらう必要はなく、参加したのはたった一八隻だけだった。

●では現在ではどうだろうか?インフレを考慮にいれれば、イギリスは一九五三年の時よりもGDPでは四倍の規模になっているが、力のある艦隊を維持することはむずかしくなっているように見える。

●今日の英海軍は、ヘリ空母二隻、現役の強襲揚陸艦はたった一隻、駆逐艦六隻、フリゲート艦一三隻、四二隻の小規模艦と、一三隻の補助艦艇によって構成されているだけだ。

●ウエスト卿によれば、実務作業に関わっているものを差し引いて考えれば、観艦式に参加できるのは一〇隻ちょっとくらいだという。

●ところが船の数とは反対に提督の数だけは多く、大将・中将・少将が二八人もいる。

●フォークランド紛争の時に指揮官を務めた元軍人は、「もうわれわれは観艦式をできないと思いますよ。在位六〇周年記念で観艦式は見てみたいですがねぇ」と言っている。

●それとは対照的に、ブラジル、ロシア、インド、そして中国の海軍の艦隊の規模は拡大しつつある。たとえば去年のインドのムンバイ沖で行われた観艦式では合計八一隻が参加しており、これは英海軍よりも一〇隻多く、この中には空母「ヴィラート」(元々はイギリスの「ヘルメス」)も含まれていた。

●この船はいまだに艦載機のシーハリアーを飛ばしており、先駆者であるイギリスを能力面で越えたことになる。

●キャメロン首相にも、現在英海軍の悲惨な状態についての責任の一端がある。なぜなら空母「アークロイヤル」とハリアー部隊を消滅させたのは彼であり、実質的に英海軍の独立遠征作戦を行う能力を喪失(二〇二〇年に新しい空母が就航するまでだが)させたからだ。

●また、彼は英空軍のニムロッド(哨戒機・対潜機)の導入計画をキャンセルしている。

●ところが保守党と労働党のどちらにも責任があると言えよう。なぜならアフガニスタンの失敗にムダ金をつぎ込んだおかげで、イギリスの海外貿易の95%を守る海軍への資金が無くなってしまったからだ。

●また、英海軍は「買い物が下手」ということもある。やけに費用面で有利で効果のある装備をそろえるという意味では評判が悪いのだ。

●例えば新しい45型駆逐艦は一隻一〇億ポンド(一二四〇億円)するのだが、それよりも安いアメリカの船に比べても陸上攻撃能力に劣るのだ。しかも発注されるのはその価格のおかげでたった六隻だという。

●ジェーン・ディフェンス・ウィークリー誌の記者によれば、国防省の大臣たちは英海軍から船と艦載機をどんどんカットしており、「いくら性能が上がったといっても、船は二カ所同時にいられるわけじゃないのです。今の英政府はわれわれの軍隊を小規模にして、仕事も少なくしたいんでしょうねぇ」と嘆いている。

●一八九七年の観艦式を見た作家のキプリングは、感動して「退場」という詩をしたためている。この当時の大英帝国は絶頂期にあったのだが、それでも衰退の暗示はあらわれていた。

●シーレーンに依存している海洋国家であるイギリスは、外洋海軍を消滅させつつあるのだ。その報いはわれわれを待ち受けているだろう。

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元記事は保守系のテレグラフ紙だからこういう論調になるのかもしれませんが、それにしてもイギリス政府のコストカットの大胆さには驚きます。

同じことがアメリカに起こるのかどうかはわかりませんが、衰退しはじめた国家というのは勢いが速いですから、注意しておく必要はあるかと。
http://geopoli.exblog.jp/18410966/





●フランス革命 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD






●ヴィシー政権 - Wikipedia

ヴィシー政権(ヴィシーせいけん、仏:Régime de Vichy)は、第二次世界大戦中のフランス南部の政権(1940年 - 1944年)。フランス中部の町、ヴィシーに首都を置いたことからそう呼ばれた。「ヴィシー政府」、「ヴィシー・フランス」ともいい、この政権下の体制を「ヴィシー体制」と呼ぶ。正式国名はフランス国(État français、エタ・フランセ)。

成立 1940年6月にナチス・ドイツのフランス侵攻でフランスは敗北した。ポール・レノー首相ら抗戦派にかわって和平派が政権を握り、6月17日に副首相であったフィリップ・ペタン元帥が首相となった。6月21日、ペタンの政府はドイツとイタリアに対し休戦を申し入れた。6月22日には独仏休戦協定が締結され、フランス北部などの地域の占領、陸軍の制限などが定められた。協定はフランス側にとって過酷であったが、主権国家としてのフランス政府存続は達成された。ペタンは「少なくともわが国の名誉だけは守られた」[1]と述べた。ペタンはフランス国民の熱狂的な崇拝対象となり、町中に元帥の肖像が溢れた。ジャン・コクトーはこの熱狂を「元帥は大衆が慣れ親しんでいた君主のイメージに近かった。それにフランスでは高齢はひとを安心させる。彼は瘰癧を癒しかねなかった(ロイヤル・タッチ)。」と評している[2]。

抗戦継続派のレノーやアルベール・ルブラン大統領はカサブランカに逃亡しようとしたが身柄を拘束された[3]。またレノー政権の国防次官でペタンの部下でもあったシャルル・ド・ゴール准将はロンドンに亡命し、「自由フランス」を結成した。

フランス政府は1940年7月1日に臨時首都に指定していたボルドーから中部の都市であるヴィシーに移転した。政府主席兼首相には、第三共和政最後の首相で第一次世界大戦の英雄であったペタン元帥が就任し、副首相にはピエール・ラヴァルが就任した。ラヴァルはヒトラーから好意的な扱いを受けるためには、「堕落した民主主義」を廃して「絶対的権力を持つ権威国家」を樹立する必要があると考え、熱心にロビー活動を行った。6月25日、ラヴァルは次のように演説している。「旧秩序、フリーメーソン的かつ、資本主義的そして国際的妥協の政治制度が現在の立場に我々を導いた。フランスは、もはやそんなものを欲しない。我々は新しい計画、新しい人物を必要とする」[4]。また、新憲法制定の議会では「全ヨーロッパがフランスを置き去りにして新世界を建設しようとしている(中略)敗北した議会制民主主義は大胆で、権威的・社会的・国家的新制度にその道を譲らねばならぬ。(中略)議会が同意しないなら、ドイツは直ちにフランス全土を占領して(政治改革を)強制するだろう」[5]と演説している。7月2日、フランス艦隊の編入もしくは無力化を狙ったイギリスは、カタパルト作戦によるフランス艦隊の接収を図った。このためイギリスとフランスの間でメルセルケビール海戦が勃発し、政府とフランス国民の間で反英感情が高まった。このことはラヴァルの工作をより容易にした。

後にこの動きを知ったヒトラーは、国防軍最高司令部長官カイテル元帥と次のような会話をしている。「フランスが我がナチズムを信奉しているとは知らなかったな」「そうと知ったら攻撃の必要はありませんでした。まるで同士討ちをした想いです。」[6]

7月10日、ヴィシーで開催された国民議会は圧倒的多数で新憲法制定までの憲法的法律を制定した。その内容は「『フランス国(État français)』の新しい憲法を公布することを目的として、ペタン元帥の権威のおよび署名の元にある共和国の政府に全ての権限を与える」というものであった[7]。ペタンは強大な権限を持つこととなったが、実際の政治は副首相であるラヴァルが大半を行っていた。

モントワール精神 [編集]
1940年10月24日のモントワール駅でのペタンとヒトラー。中央の制服姿の人物は、ヒトラーの通訳官パウル・シュミット、ヒトラーの後方の制服姿の人物は、ドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップ成立したヴィシー政府の課題は国民革命(en)と呼ばれる「新秩序」建設と、ドイツとの協調であった。休戦協定による占領経費負担は莫大なものであり、さらに占領者の権限を使った搾取が横行した。たとえばフランとマルクの為替レートは12フラン=1マルクが相場であったが、一方的に20フラン=1マルクに決めた取引を押しつけることもあった[8]。この苛烈な搾取を緩和しようと、ヴィシー政府はさらなる対独協力姿勢を見せた。10月24日にはペタンとヒトラーがロワール=エ=シェール県のモントワールで会談した(fr:Entrevue de Montoire)。ヒトラーはこの席でヴィシー政府の対英宣戦を求めたが、ペタンはそれには応じなかった。しかしペタンは会談後にラジオ演説を行い、さらなる誠実な対独協力をするべきであると声明した。この会見で強調された「モントワール精神」はドイツにとってさらなる負担をフランスに求める理由となり、ラヴァルのような親独派の勢力拡大のもととなった[9]。また10月9日にはフランスではじめてのユダヤ人迫害法が成立している。

国民革命はカトリックを支柱とした[10]フランス革命以前の古いフランスへの復帰を求めるイデオロギーであり、アクション・フランセーズのシャルル・モーラスがイデオローグであった[11]。すなわち農業国としてのフランスが求められ、「土地に帰れ」というスローガンが叫ばれた[12]。また、敗戦の原因をフランス人の道徳的頽廃が原因であるとし、道徳や秩序を重視する反主知主義的政策を推進した[13]。しかしこの国民革命も、ドイツの利益を優先したものにならざるを得なかった。

ダルラン時代
パリの凱旋門でフランスの警官がドイツの将校に敬礼する様子(1941年)11月にはアルザス・ロレーヌのドイツへの割譲が決まり、ラヴァルに国民の非難が集まった。国民革命に熱意がないラヴァルはペタン派の支持も失った[14]。12月13日にペタンはラヴァルを解任し、ピエール=エティエンヌ・フランダン(en)を副首相とした。また年末にはスペインのマドリードにルイ・ルージェ教授を派遣し、イギリスとの間で交渉を行っていた。しかし対独抗戦継続を求めるイギリスと、中立を求めるヴィシー政府の溝は埋まらなかった[15]。しかしドイツの介入があり、1941年2月9日 にフランソワ・ダルラン海軍大将が新たな副首相となった。ダルランは「ラヴァルに卵をくれというと卵しかくれなかったが、ダルランはニワトリをくれた」と言われるほど好意的な対独協力を行った[16]。5月21日には独仏軍事協定が結ばれ、親独政権が成立していたイラクに対してフランス委任統治領シリアにある軍需物資の4分の3を譲渡する契約が成立した(en:Paris Protocols)。しかしこれはシリア・レバノン戦役によってシリアが連合国の手に落ち、イラクの親独派政権も倒れたため実行はされなかった。また北アフリカ戦線のドイツ軍が撤退した場合にはチュニジアを避難地として提供することも約束した。これは占領経費の負担軽減やフランス人捕虜の解放を求めたものであったが、ドイツ側は一切譲歩しなかった[16]。

この時代には若手の官僚による計画経済が導入され、経済の集中による生産拡大と生活改善が図られたが、戦時下のためにうまくいかなかず、1941年の工業生産は1938年の65%であった[17]。一方でダルランは警察国家化を推し進め、保安部隊(fr:Service d'ordre légionnaire、略称SOL)を組織してレジスタンスを弾圧し、共産党やフリーメーソン、ユダヤ人の弾圧も行った[18]。さらに1942年2月19日からはエドゥアール・ダラディエやポール・レノーといった戦争に敗北した際の政治家を裁判(リオン裁判(en))にかけ、ドイツ国内の収容所に送った。しかし敗戦責任はペタンにも及ぶ可能性があったため、4月15日に裁判は中止された。こうした強権的な姿勢や積極的な対独協力は、国民革命に対する国民の信頼を失わせる元となり、1941年末にはほとんど支持する者もいなくなった[18]。

ラヴァル時代
この状況でペタンはさらにドイツの歓心を得る必要があると感じ、ダルランを解任してラヴァルを再度起用することにした[19]。1942年3月には密かにラヴァルと会談し、ドイツもラヴァル復帰を後押しした[20]。4月18日、憲法行為11号によって国家元首と首相の役割が明確化され、首相には強い独裁権力が認められた。これは、首相に就任したラヴァルの要求によるものであり、ペタンは首相を退いて国家元首専任となり、事実上引退状態となった[19]。国民革命派・反独的な閣僚は次々と更迭され、対独協力に拍車がかかった[21]。ラヴァルは6月22日に「ボルシェヴィズム(共産主義)」を阻止するためにドイツの勝利を支持する声明を行い、フランス人捕虜1人解放に対してフランス人労働者3人をドイツ国内の工場に送ることとした。ドイツからは対連合軍宣戦を求める動きが強まったが、ラヴァルは形式的に閣議にはかりはしたものの、参戦する気はなかった[22]。

11月8日トーチ作戦が始まり、フランス領アルジェリアに連合軍が侵攻を開始した。このとき、ヴィシー政府軍総司令官であり、たまたま北アフリカにいたダルラン大将が英米軍と休戦条約を結んで北アフリカのヴィシー政府軍を降伏させたため、11月10日ドイツは自由地区を占領を開始し、政府は完全にドイツの支配下に置かれた(アントン作戦)。ドイツの頽勢を悟ったペタン元帥とラヴァル首相は、連合国とドイツの調停を行おうとしたが失敗した[23]。11月17日にはラヴァルをペタンの後継者とする憲法的法規が成立した[24]。

ドイツの要求はますます苛烈になり、1943年1月にはさらに25万人の労働者が要求された。ラヴァルは捕虜送還でも譲歩した上にこの要求を達成し、労働力配置総監フリッツ・ザウケルに「フランスだけがプログラムを100%履行した」といわしめた[25]。しかしこれはフランス国民に強い不満を与え、徴用忌避者によるマキが組織される元となった。

11月、ペタンは廃止した第三共和制議会を再開させようとし、憲法案を制定した。さらに親独派のラヴァルを遠ざけることを考え、11月27日にラヴァルの後継者指定を取り消した[24]。しかしこれらの動きはドイツ側の介入によって失敗した。ペタンの側近数名が逮捕され、ドイツからは「顧問」が送り込まれた上にミリス(民兵団)の指導者ジョゼフ・ダルナンらが入閣するなどドイツ支配はさらに強化された[26]。1944年1月にはドイツがさらに労働者100万人を要求し、7月21日までに72万人が送り込まれた[27]。

崩壊 1944年、連合軍が北フランスに上陸すると、フランスのドイツ軍は次々に駆逐されていった。8月9日にラヴァルは第三共和政議会を招集させてヴィシー政府の合法性を認めさせようとパリに向かったが、徒労に終わった。ペタンも8月11日にド・ゴールに使者を送り、臨時政府に政権を譲って引退することで「政権の継続性」が与えられると交渉したが、受け入れられなかった[28]。8月25日にパリを守備していたドイツ軍は降伏し、ド・ゴールのフランス共和国臨時政府が帰国した。8月27日、ド・ゴールはペタンが送った使者と面会も拒絶した[29]。

ヴィシー政府の閣僚はドイツによって拘束され、ジークマリンゲン(en)に移された[30]。ジークマリンゲンではブリノン侯爵フェルナン・ド・ブリノン(fr:Fernand de Brinon)を代表とし、ダルナンを内相とするフランス政府委員会(fr)が組織されたが、大きな影響を与える存在にはならなかった。

国土
黄はドイツ軍の占領地域、橙は「保留地域」、紫はベルギー占領軍統治下の「禁止地域」、赤が禁止地域のうち、沿岸防備地域。青がドイツへの割譲地、緑がイタリア軍の占領地、白はヴィシー政府の支配地域である「自由地域」。かねてからの係争地であったアルザス・ロレーヌはドイツへ割譲されたものの、それ以外の地域には一応ヴィシー政府の主権が認められた。しかしパリを含む北部と西部はドイツ、グルノーブルとニースを含むイタリア国境から50kmのエリアはイタリアによって占領され、軍政が敷かれた(イタリア南仏進駐領域)。この地域はフランスの主権が認められたものの、占領地域(fr:Zone occupée)として扱われて軍政が敷かれ、ヴィシー政府の施政権は及ばなかった。また、フランシュ・コンテなどアルザス・ロレーヌの隣接区域は「保留地域」(Zone fermée)とされ占領地区とは別に扱われた。また北海・イギリス海峡・大西洋沿岸から数マイルのエリアと、ベルギー国境に近い現在のノール=パ・ド・カレー地域圏付近は「禁止地域」(fr:Zone interdite)とされて分離された。沿岸地域にはドイツ軍やトート機関が「大西洋の壁」と呼ばれる防御設備を設置した。またベルギー国境付近はベルギーの占領軍の統治下に置かれた。この占領地域の占領コストはフランス側が支払うこととなっており、一日あたり4億フラン[31]という莫大な出費となった。占領コスト支払いは1941年6月には対独協力の見返りとして3億フランに減額されたが、1942年11月のフランス全土占領以降は5億フランとなった[32]。

フランス政府が統治できるのは占領地域を除いた自由地域(fr:Zone libre)と海外植民地であった。しかし自由地域においてもドイツとイタリアの軍事物資搬送や、ドイツが指定するドイツ人を引き渡す義務を負った。また自由地域と占領地域の間には境界線(fr:Ligne de démarcation)が配置され、小荷物は郵送できるが、手紙のやりとりは禁じられるなどの検問が行われた[33]。しかし1942年11月のアントン作戦以降は全土が占領下に置かれた。

ドイツ側にとってフランス全土を占領した場合は、海外植民地や海外に駐屯部隊やフランス海軍などの維持等が重い負担になる可能性がある為、親独的中立政権としてのヴィシー政府の存在は好都合だった。

植民地 政権成立当初、フランス領赤道アフリカとフランス領カメルーン(fr)を除くフランス植民地はヴィシー政権を承認した。シリアやレバノンなど、ヴィシー政権を支持する植民地には連合国軍が侵攻する場合もあった。戦況の変化に従い、自由フランスにつく植民地や、連合国と独自に交渉を行って中立を維持しようとする植民地も現れた。マダガスカルやフランス領アンティルのように、連合軍が当初中立を求める予定であったのに、自由フランスの介入によって現地政府が打倒されるというケースもあった(マダガスカルの戦い)。1944年までに日本の占領下にあったフランス領インドシナ以外の植民地政府はおおむねヴィシー政権の影響下から逃れた。

政府は一応共和国とされたが、ペタンの権威を根拠とする特殊なものであった[34]。この体制は新憲法制定を目的とする建前を取っていたが、ヴィシー政府の四年間の統治の間、憲法制定のための国民会議は一度も招集されなかった[35]。その代わりペタンは「憲法行為」(Actes constitutionnels)という命令を行い、フランスの統治を行った。1940年7月11日には第一号の憲法行為として自らを「フランス国主席」(chef de l'Etat français)とし、大統領制を廃止した。さらに主席は立法権、執行権を持つ、独裁的権力者と定義した[35]。しかしドイツに近いラヴァルも大きな権力を持っていた。1942年4月18日以降は首相が事実上の最高権力者となり、国家元首であるペタンは半引退状態に追い込まれた。

しかしドイツはあらゆる方面から介入を行い、官報発行にすらドイツの検閲が入る有様であった[1]。ヴィシー政府の独自の動きは常にドイツによって阻止され、ファシズムと呼べる体制ではなかった[36]。

またフランスの標語である「自由・平等・博愛」は「労働・家族・祖国」(Travail, Famille, Patrie)に置き換えられた。

軍事
動員されていたフランス兵は武装解除され、武器はドイツに引き渡された[37]。

本国の陸軍は休戦監視軍としての10万人に制限され[38]、武器はドイツ軍とイタリア軍の監視下に置かれた。マダガスカルやインドシナなどの植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。一方で1940年8月29日には「在郷軍人奉公会」(Légion Francaise des Combattant)という在郷軍人を組織した準軍事組織を作った。この組織からはやがて保安部隊(fr:Service d'ordre légionnaire、略称SOL)やミリス(民兵団)などが生まれた。

海軍はドイツ軍とほとんど交戦しなかったが、「植民地の維持に必要な艦船」を除いて武装解除された[37]。港に停泊中のフランス艦隊はイギリス海軍の攻撃で多数が撃沈された。

しかし1942年のアントン作戦の開始によって休戦監視軍は解体され、ドイツに接収されようとしたトゥーロンの艦隊は自沈の道を選んだ[39]。

フランス人の反共主義者はドイツ陣営に志願して連合軍と戦った(ボルシェビキに対するフランス志願軍団)。また、ナチス武装親衛隊にはフランス人志願兵で構成される部隊も設置され(第33SS武装擲弾兵師団)、ベルリン陥落までドイツとともに戦った。志願兵は敗戦後に親連合国政府によって処刑されるなどした。

対外関係 イギリスは1940年6月23日にヴィシー政府を否認する声明を行ったが、その他の主要国はヴィシー政府を承認する態度をとった。ただし、ソ連は1941年6月30日に、他の連合国は1942年のドイツ軍による占領以降外交関係を断絶した。

枢軸国との関係 日本や満州国、イタリアなどの枢軸国各国は、ヴィシー政権率いるフランスを承認しており、日本はヴィシー政権との協定をもとに、フランス領インドシナに進駐(仏印進駐)した。その後の1944年に行われた連合国軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー-日本間の協定無効宣言が行われた後、1945年3月に日本軍によるインドシナ政庁をめぐるクーデター(明号作戦)が起きるまで、インドシナ植民地におけるフランスの主権は存続した。

生活 国土の分割、ドイツの徴発、植民地との交通途絶によってパリ市民の生活は悪化した。1940年9月からは配給制度が開始されたものの、時が立つにつれ配給量も減少していった[40]。この時期のフランス国民のカロリー摂取量は西欧で最低、インフレ率もどの占領国よりも高く、生活は困窮した[41]。

コラボラシオン(対独協力)
逮捕したレジスタンスを監視するミリスの隊員。1944年6月21日多くのフランス人は、積極的・または消極的にヴィシー政府の統治を受け入れた。一部の人々は積極的なコラボラシオン(対独協力)の姿勢をとり、それ以外の多くの人々はヴィシー政府下の平穏を受け入れて沈黙を続けた。その一方で、少数ながらレジスタンス運動を始める動きもあったが、本格的なレジスタンス運動が見られるのは戦況がドイツにとって不利になり始めてからである。

ヴィシー政府下での対独協力は、政治・経済・文化面の多岐に及んだ。反ユダヤ主義が広がる中で「反ユダヤ法」が1940年10月に制定され、ユダヤ人の権利を制限した。この法律はヴィシー政権の統治下にあるフランスの植民地にも適用された。また、フランス領であったモロッコ、アルジェリア、チュニジアにナチス・ドイツの支配を逃れて避難していたユダヤ人を、現地に設置したヴィシー政権管理下の強制労働収容所へと収容している。また、本土に住むユダヤ人もヨーロッパ各地にある強制収容所へと移送された。

ヴィシー政権はドイツ軍の占領費を支出したほか、安価にフランスの資源や労働力をドイツに提供した。1940年11月に締結された相殺協定は両国間の輸出入額を均衡させることで通貨移動を不要にするという協定であったが、実際には輸入超のドイツが代金支払いを踏み倒すために使われた[42]。ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルなど親ドイツ的な文化人も増加し、ヴィシー政府の統治やドイツの占領政策を支えることになった。軍事面では首相ラヴァルを指導者とする民兵組織 ミリス(民兵団)がレジスタンス狩りなどに参加し、第33SS武装擲弾兵師団などに志願する者も現れた。

一方でヨーゼフ・ゲッベルスやフリッツ・ザウケルといったドイツ高官はペタンやラヴァルが協力的ではないと見ており、日記や報告で言及している。またヒトラーは「ド・ゴールはラヴァルが策術で得ようとしているものを逆に力のみで得ようとしている」と評した[43]。

レジスタンス
レジスタンスのメンバーヴィシー政府成立後まもなくは、ペタンが戦争の苦難から救ったという考えが広まっており、それほど大きな勢いはなかった。しかし苛烈な対独協力は市民の反感を招き、1940年の秋頃からはデモやレジスタンスの宣伝活動が高まった。1941年春にはパ=ド=カレー炭坑で10万人規模の大ストライキも発生した[44]。独ソ戦開始以降は「モスクワの忠実な長女」であり、むしろ対独協力的であったフランス共産党[45]などの左派もレジスタンスに加わった。これ以降ラヴァルやマルセル・デアの狙撃事件、サボタージュ、ドイツ人将校の殺害などの実力行動が頻発するようになった[46]。しかし1942年11月まではレジスタンスは分派しており、しかも少数派であった[47]。

ドイツはレジスタンスの攻撃に対して、ドイツ将校の被害一人に対して数人の「人質」を殺害するという報復政令で対抗した[48]。「人質」は拘束された共産主義者やユダヤ人であり、1941年10月には「98人」の人質が処刑された。ペタンは自らを人質とするよう求めたが、受け入れられなかった[49]。

1942年11月のドイツによる全土占領は、それまで残っていたヴィシー政権への幻想を一気に打ち砕いた。1943年1月には南部の三大レジスタンス運動が統合され、共産党が自由フランスに参加した。また、元首相レオン・ブルムも社会党の名において自由フランス支持を行った。5月27日にはフランス国内でレジスタンスの統一組織、全国抵抗評議会(CNR)が設立された[50]。以降、レジスタンスの活動はいよいよ活発となり、1943年9月から12月の間にはレジスタンスによって709人のヴィシー政府治安関係者が殺害され、9千件の爆弾事件、600の電車脱線事件が起こっている[51]。

裁判 「エピュラシオン」も参照

ヴィシー政府関係者の裁判はアルジェで国民解放委員会が成立したときから始まっており、終戦によって加速された。

ペタンは4月24日にドイツの保護下から離れ、一旦スイスに入ってからフランスに帰国、4月26日に逮捕された。前後してラヴァルをはじめとする閣僚も逮捕された。1944年11月18日には臨時政府によってヴィシー政府高官を裁くための高等法院が設置されたが、裁判官はかつてヴィシー政府によって任命された者達であった。裁判は一審制であり、欠席裁判で10名に死刑判決が下ったほか、ラヴァル、ダルナン、ブリノンら3名が死刑となったが、ペタンをふくむ5名が終身刑に減刑された。ヴィシー政権関係者の粛清「エピュラシオン」による訴追人数は10万人におよぶと見られ、2071人に死刑判決が下ったが、1303名が減刑された[52]。1951年には最初の特赦法が成立し、収監されていた関係者が釈放され始めた。

評価 ヴィシー政府は連合国側から「傀儡政権」とされ、連合国側の勝利、自由フランスによるフランス共和国臨時政府の成立、第四共和政の樹立とともにそのような評価が一般的となった。このため、フランス第四共和政はヴィシー政府からの継承国と見なされていない。しかしヴィシー政府が導入した老齢年金・家族手当など一部の制度は形を変えて存続し、戦後のモネ・プランに対するヴィシー政府経済政策の類似性も指摘されている[53]。

また、ヴィシー時代の対独協力が擬態であったか否かについての議論は継続されており、しばしば政治的問題ともなる。また、第四共和政以降、政治家や官僚として戦後のフランスの政治を支えた人物の中には、フランソワ・ミッテランをはじめ、ヴィシー政権下でそのキャリアの最初を送った者も少なくなく、政権の評価に影響を与えている。

時代のとらえ方の推移 戦後から1960年代にかけて、ド・ゴール派とフランス共産党はそれぞれの『レジスタンス神話』を喧伝していた。ド・ゴール派は自由フランスとフランス、そしてレジスタンスを同一化し、フランスのレジスタンスが常にド・ゴールと一体となって対独抗戦を行っていたというイメージを植え付けた。またフランス共産党は「虐殺された七万人の党」というスローガンを押し出し、ド・ゴールと違って国内でファシズムと戦い続けたというイメージを広めた[54]。

1969年にマルセル・オフュールス監督のドキュメンタリー映画『悲しみと哀れみ』が公開された。レジスタンスとしてドイツに抵抗するのではなく、生き延びるために受動的な生活を送っていたフランス国民の姿を描いたこの作品は当局に衝撃を与え、1981年までテレビ放映が禁止された。ルイ・マルの『リュシアンの青春』など、対独協力を描いた作品も現れ、アンリ・アムールーが「4千万人のペタン派」というタイトルの本を出すなど、フランス人が対独協力に積極的であったという否定的な神話も生まれた[55]。1980年代以降もさまざまな研究、議論が発生している。

歴史家による議論 フランスの歴史家ロベール・アロンは1954年の著作『ヴィシーの歴史』で、ヴィシー政府が公式にはドイツに同調・協力しているように見せながら、実際には秘密の交渉などで統治を骨抜きにする努力を行い、フランス国民のための盾となっていたとした。しかしアメリカの歴史家ロバート・パクストン(en)は1972年の著書『ヴィシー・フランス、旧勢力と新体制』でアロンの説を否定し、ドイツの占領軍が少数であったことなどを指摘し、戦後の体制がドイツ有利になるとみたヴィシー政府が積極的な対独協力を行っていたとした[56]。歴史家のジャン・マルク=ヴァロー(fr)はパクストンの批判を現在のイデオロギーから見たものであると批判した[57]。またフランスの歴史家マルク・フェローは1987年の著書『ペタン』においてペタンが人命と物財を守った代わりに国家の名誉を失った犠牲者であるとした[58]。その後もパクストンは基本的に見方を変えていないが、ヴィシーを理解することは「ますます魅力的な、そして未完の事業」であるとして、将来の議論に期待する旨を記している[59]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%BC%E6%94%BF%E6%A8%A9






【私のコメント】

奥山真司氏は6月8日のブログ記事で大英帝国の劇的な没落に関する英テレグラフ紙の記事を引用したあとで、同じような事が米国に起きる可能性について触れている。エリザベス女王の在位60周年記念式典やロンドンオリンピックは国際金融資本と一体化した英国の葬式であり、今後英国の国力はスコットランドの分離独立も加わってスペインやポーランド並みのレベルまで下落することだろう。国際金融資本という犯罪勢力から世界が解放されつつあることを私は心の底から喜びたい。

私は最近フランスを旅行してきた。この旅行で気づいたことを幾つか書き留めておきたい。

フランス革命は「アンシャンレジーム」と称される旧体制に不満を持つ一般大衆の暴動で発生したと歴史書には記されている。その裏にはフランス革命は正義の革命であるとの価値観がある。ロシア革命も歴史の世界では同様の評価を受けている。

しかし、2000年代にウクライナやグルジアで起きたカラー革命が欧米勢力の支援を受けていたことからもわかるように、膨大な一般大衆を扇動しデモに参加させるには多額の資金が必要であり、多くの革命は自然発生では無く人為的なものである、その実行者の多くは国際金融資本であるというのが私の認識である。

フランスは17世紀から普仏戦争までの欧州大陸では軍事的にも経済的にも文化的にも最強の国家であり国際金融資本と一体化した大英帝国にとっては宿敵であった。豪華絢爛なブルボン朝の宮殿やフランス料理はフランスの偉大さの遺産である。その絶頂期は太陽王との別称をもつルイ14世であった。革命の起きたルイ16世の時代はフランスの繁栄は明らかに下り坂であった。しかし、国際金融資本にとっては絶対にフランスを倒さねばならない理由があったのである。それはマリーアントワネットとルイ16世の結婚である。

当時の欧州大陸でフランスに次ぐ大国であったオーストリアのハプスブルグ王朝は戦争ではなく婚姻によって平和的に領土を拡張してきた。このハプスブルグ家のマリーアントワネットとルイ16世の結婚は近い将来にオーストリアとフランスの二つの超大国が一体化することを意味したと思われる。これは国際金融資本にとって太陽王ルイ14世よりも遙かに大きな脅威であった。国際金融資本の拠点であった英国は欧州大陸での影響力を大きく失うことになる。更に重要なのは、フランスとオーストリアの統合によって欧州に平和が到達すれば戦争を作り出すことでボロ儲けしてきた国際金融資本は収益源を失ってしまうのだ。絶体絶命のピンチである。

国際金融資本はこのピンチを切り抜けるためにフランスの政治体制を「アンシャンレジーム」の名で悪とのレッテルを貼り、一般大衆を革命思想や金の力で扇動して革命に持ち込んだのである。そしてギロチンでの処刑によってマリーアントワネットとルイ16世の結婚による二つの超大国の統合を阻止したのだ。革命によって敵国の政権を崩壊させるという国際金融資本の陰謀はロシア革命や第一次大戦末期での水兵反乱によるドイツ帝国崩壊、共産中国革命などでも繰り返されている。マルクスレーニン主義というイデオロギーは愚かな敵国人民を扇動し革命を発生させるために彼らが作り出したのだ。マルクス主義者や1953年以前のソ連政府首脳の多くがユダヤ人であったのはその証拠である。そのようなユダヤ人の危険性を理解していたからこそヒトラーはユダヤ人を迫害したのだ。また、日露戦争後に日露の同盟を追求した伊藤博文が暗殺されたこと、北方領土問題・尖閣問題・南沙問題などを作り出して東アジアの大国間の友好関係を第二次大戦後の米国が阻害したことは、フランス革命で見られた国際金融資本の戦略の繰り返しに他ならない。

フランス革命の時にパリ盆地を中心とするフランス北部は革命=共和制を支持し、南フランスは王党派で王制を支持した。このことはエマニュエル・トッドが北フランスの家族制度が親子間の非権威主義、兄弟の間の平等を特徴としていることや北フランスで脱宗教が進んでいたことを理由として挙げている。パリ盆地の人々は共和制を受け入れやすい家族形態であり、更に脱宗教化の影響で過激な革命思想にかぶれやすい傾向があったのだろう。ナチス台頭時にもドイツ北東部ではナチスの人気が高かったがそれは脱宗教化で説明可能であるとトッドは述べている。

ナポレオンはこのフランス革命の主導者であった国際金融資本と戦い敗れた悲劇の英雄である。彼は南フランスのコルシカ島出身であり、パリ盆地の革命思想に洗脳されること無く、偉大なフランスによる欧州統一をその天才的な軍事指導者としての能力を用いて実現しようとしたのだ。ナポレオンが「ボナパルティズム」の名前で19世紀の世界で悪のレッテルを貼られたのは、犯罪者集団である国際金融資本にとって、ナポレオンが正義のリーダーであると世間に評価されることが極めて危険であったからであろう。ヒトラーや大日本帝国、さらにはプーチンなどが悪のレッテルを貼られているも同様の理由と思われる。

ナチス占領下のフランスはドゴールがロンドンに亡命政権を作っていた他、北フランスがドイツ軍の軍政下、ニース付近のイタリア国境付近がイタリア統治下に置かれ、残る南フランスはヴィシー政権によって統治された。なぜドイツがこのような北フランスと南フランスを分断したのか私は高校時代の世界史の授業以来疑問に思っていたのだが、今回の旅行でフランス革命当時の王党派が南フランスで優勢であったこととの関連性に気づいた。ユダヤ人がフランスを弱体化させるために作り出した革命思想に騙される愚かな北フランスはドイツ軍が統治して監視する必要があったのだろう。そして長年愚かな北フランスに抑圧されてきた南フランスに自治政府を作り出し、かつてのマリーアントワネットとルイ16世の結婚によるオーストリアとフランスの連携を再現し、王党派の伝統を再興したいとの思いがあったのだろう。ヒトラーがオーストリア出身で、ドイツ国籍取得後にオーストリアと同様にカトリックの勢力の強いバイエルン州で活動を始めていたことは、ヒトラーがオーストリア支配階層の代理人であったことを彷彿とさせる。

第二次大戦後のフランスは一貫してドイツとの連合・統合を指向し、英国とは対立している。このことは、戦後フランス政府は実はヴィシー政権関係者によって運営されてきたことを意味している様に思われる。第二次大戦でドイツがフランスを占領したのは、愚かな国際金融資本に騙される反ドイツ政権を潰して親ドイツ政権を作り出し欧州を平和的に統合する事であったと思われる。フランスや東欧の多くの国が明らかな捏造であるアウシュビッツでのユダヤ人600万人の毒ガスによる虐殺という連合国の主張を否定することを法律で禁じているのは、国際金融資本の世界支配崩壊後にこのアウシュビッツの嘘を暴くことを目的にホロコーストを風化させないために努力しているのだと考えている。フランスや多くの東欧諸国は第二次大戦後もドイツやオーストリアの衛星国であり続けているのだ。911事件以後のワシントンで英仏のスパイ達による銃撃事件が相次いでいるというかつての私のブログ記事は、反国際金融資本陣営の一員であるフランスが国際金融資本と一体化したイギリスと米国の首都を舞台に戦い続けていることを意味しているのだと思われる。また、ロシア革命で皇帝を殺され中枢階層を迫害されたロシアがプーチンを筆頭に親ドイツであることからは、ロシアもドイツやオーストリアの味方であると思われる。

第二次大戦で日本とドイツが米国に宣戦布告したことは勝利の可能性をゼロにするものであり現代史の謎であった。恐らく日独両国は占領地域で反国際金融資本勢力を育成して敗戦後の戦いに備えることを目的に対米宣戦布告したのだと思われる。上海閥の江沢民、帝国陸軍の正当な後継者である金日成、インドネシアのPETA、ビルマのアウンサンスーチー、親ドイツのプーチンなど、旧枢軸国の占領地域から生まれた多くの政治指導者達は大日本帝国とナチスドイツによって育成され、日独両国とともに国際金融資本と戦い続けてきたのだと私は想像している。







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37 コメント

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Unknown (Unknown)
2012-06-19 00:34:12
仏のナポレオン、独のヒトラーってか。
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Unknown (Unknown)
2012-06-19 05:03:38
フランスだってロイスチャイルドの支配下だろう?
たしか、ユーロを構想したのが、パリのロスチャイルド家。
ロスチャイルド家でも、三男で現在の嫡流の英国ロスチャイルド家と、5男のフランスロスチャイルド家の二大派閥がある。
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Unknown (Unknown)
2012-06-19 09:26:27
引用が長過ぎるけど、よく分かった。
一言でまとめると「韓国滅亡」だ。
返信する
。。。 (。。。)
2012-06-19 09:50:05
なるほど、だからパリ辺りでは「ZEN」とか言ってハマっちやうわけか。

しかし、ロシアといいフランスといい、休み期間でもないのにあっちこっち、1941氏はどんだけ悠々自適なんですか(怒)
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Unknown (Unknown)
2012-06-19 10:56:06
>しかし、ロシアといいフランスといい、休み期間でもないのにあっちこっち、1941氏はどんだけ悠々自適なんですか(怒)



王子様は1941年生まれなんですよ!
優雅な定年後を満喫しているのです。

返信する
Unknown (Unknown)
2012-06-19 19:47:58
革命思想が人工的に広められたという点には賛同できるのですが、その仮説だと、ナポレオンのせいで革命思想が全ヨーロッパに広がったことを説明できませんよ。これは枝葉の問題ではなく根幹にかかわる問題です。

ナチスドイツはフランス降伏後も大英帝国と戦わねばならなかったわけですから、北仏を抑える必要があったというだけでしょう。戦後のフランスがヴィシー政権に近いというのは賛同します。

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Unknown (Unknown)
2012-06-19 20:08:43
スーチー女史はどうなんでしょうか。
故夫がMI6の諜報員だった、というのはこのサイト見ている人なら誰でも知っているでしょうが。

いまはアイルランド~イギリスと欧州を訪問中のようですが、
U2のボノという典型的な白人の偽善者と同席したり、欧米の工作人と断定は出来ませんが、利用されている感がどうしても拭えません。
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Unknown (Unknown)
2012-06-19 22:11:18
スーチー女史は欧米のマスコットとして利用された傀儡としか思えない。
たしかに現政権が軍事優先で民衆弾圧を行う面もあるだろうが、
平穏に生活しているところを欧米の支配に入るように政治工作されるのでは、
強硬姿勢にならざるを得ないと思う。

ノーベル平和賞受賞というのが、胡散臭すぎる。
ノーバル平和賞ほど支配者側に都合のいい人選の賞はない。
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Unknown (Unknown)
2012-06-20 00:22:22
主はやっぱり主だな。(もう慣れたけど)
主は何も悪くないよ。悪いのは国際金融資本の奴らだから。

日本の戦略に与える要素は二つ。
一つは、第二次世界大戦時と違いロシアの動きがあくまでもある程度なら予測がつくこと。
二つは、冷戦が一応核兵器を使用することなく終了したこと。
返信する
Unknown (Unknown)
2012-06-20 06:22:04
 佐藤栄作さんがノーベル賞をもらった時「なーんだこんなもんだったんか」と思いました。
 それ以来ノーベル賞には、特に平和賞と文学賞は全く何の価値もないと思っています。
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