つづれ日記

不定期更新です。日常の日記だったり、悩みだったりを綴ったりしています。内容は特に統一性はありません。

「不幸自慢」から卒業しよう

2017-01-22 | 考エゴト
※後半に向かうにつれて、
支離滅裂。ご注意下さい。


ずっと昔から、
「幸せになる」ってことが、怖かった。
それは、
「誰からも見てもらえなくなる」ことと、
同義だと思った。

そんなふうになった理由には、
心当たりがある。

子供の頃、
私の兄弟は同時に反抗期を迎えた。
イジメにあったりして、何故かいつも、しんどそうにしていた。
親からいつも、気にかけられていた。
だから、親から注目してもらう手段は、
心配してもらうことだと思った。

けど。
既に兄弟のことで手一杯の親に、
兄弟よりも辛くない自分が、
どんな辛さをアピールすればいいのか、わからなかった。

心配してもらえない自分は、
見てもらうことが出来ないと、
何故か思い込んだ。

そしてその思い込みは、
その後20年程続いた。

言えなかった些細な悩みは捻じ曲がり、
些細な孤独感は肥大して、
訴えようとしてもうまく出来なくて。
空回りを繰り返して、結果、
訴えても伝わらないと思い込んだ。
いつの間にか、「孤独を1人で抱えている」と、それが強さだと思い込んでいた。

今思えば、何回かは、伝わっていたのかもしれない。
真っ向から否定されたことも、
確かにあったけど。
伝わったと信じられなかった部分も、あったかもしれない。
伝わってしまったら、自分は孤独でなくなるから。
孤独であることが支えだった自分にとって、
それは支えがなくなることだから。
卑小な自分を受け入れられなくて。



「不幸自慢」なんて、してるつもりは無かったけど。
しっかり、してたんだなぁって。
「不幸」にしがみついてたなぁって。
なんかね。
最近、思い直したんだよ。

「お前は自分から独りになろうとしてる」って
言ってくれたのは、
気づかせてくれたのは、
私を捻じ曲げて育てた(と思い込んでた)、親だった。

幸せな人の元にも人は集うんだって、
気づき始めたのは、
友達の結婚式に何度か出席してからだった。



そろそろ、「不幸自慢」は、
おしまいにしようか。
そんな事より、
「幸せになる努力」をしようか。
そっちに切り替えても、多分、
孤独にはならない。
そう、信じてみようか。


「お前は考えが足りない」とか
「その程度の辛さで何言ってる」とか
「もっと苦労した方がいい」とか、
「苦しんでる事が偉い」かのような言葉を沢山浴びてきたけど。
もう、苦しむことに疲れた。
一時は、人生を投げ出したいと強く思ったけど。
それも得策ではないようだから。

無題

2016-12-07 | 考エゴト
※いつも以上に、支離滅裂。
何を書いてるんだ状態。
読む方によっては、気分を害する可能性があるので、
ご了承の上、目を通してください。


■.......................■



たまには、認めてくれたっていいじゃないか。

たまには、褒めてくれたっていいじゃないか。

たまには、報われたっていいじゃないか。


なんて。


不満が次から次に、
浮かんでは消えていく。

そもそも、

何をもって「認められた」と感じるのか。
「褒められた」と素直に受け入れられるのか。
「報われた」と感じることが出来るのか。

そんなことも自分でわかっていないのに、
誰に何を求めているんだろう。
こんな状態で、まわりを、誰かを、
責めようとするのだから。
自分勝手にも程がある。

実際に褒められたって、
労われたって、
形式的なものとしか、捉えないくせに。
相手の親切心も優しさも、
信用しようとしないくせに。


それでも。


寂しいと感じてしまう。
受け入れてくれる相手を探してしまう。

ああ、でも、私にとって、
誰かの側は、全て「アウェイ」だ。
何か下手をしたら「責められる」。
そういう認識が拭えない。



努力すれば認めてくれるのか。
努力ってなんだ。
苦しいのを耐えればいいのか。
体調か、精神のバランスが崩れて、
それでも耐えていれば、
誰かが評価してくれるのか。
「頑張り」が明確な点数として現れないこの状態で、
何をもって自分を評価したらいい。
自分の感情だって、
作り物のように感じてしまうのに。
辛いのも悲しいのも、全部、
自分がそうなるように、
感情を作っているのではと、
疑ってしまうのに。

体調を崩して、
なにか症状が出始めて、
「そこまでしないと、
誰からも顧みてもらえない」と。
そう感じるようになったのは、いつからだったろう。

こんなことばかりだ。
頭の中は、自分のことしか考えてないんだ。
そんなだから、余計に、孤独になっていくのに。
「愛すること」も、
「愛されること」も、
分からなくなっていくのに。

愛って何。
愛情ってどうやって確かめるの。
自分に何かあったら心配する人がいる、って、
頭ではわかるけど、実感がわかない。
本当に心配してくれるかな?
家族だろうが友人だろうが、他人なのに。
職場の人はまぁ、業務が進まなくなるんだから、そりゃ、気にするよね。

「たった一つしかない命」って言うけど、
だから何、って感覚がまだ残ってる。
「一つしかない」=「劇レア」
って発想には行き着いたから、
たぶん、無駄にしたらもったいないんだろうなぁ、とは、思ったりもしたけど。
いくら珍しくたって、
使い道がないなら、価値はないよね。

価値を見出すのは自分だ、なーんて。
そういう言葉自体は、
割とすぐ浮かぶのにね。
中身のない、カタチだけの状態で。




ああ、おかしなことを言っている。
同じようなことばかり書いている。
けど、慢性的な抑うつだから、仕方ない。
抑うつチェックなんて、意味を成さない。
いつだって、結果は中等度以上の抑うつ状態だから。
何年も何年もずっと、この調子。
高得点を繰り返してる間に、
点が高いことで、逆に安心し始めた。
「今の自分は頑張っている」と、
抑うつ傾向が強いほど、逆に安心しはじめた。





鬱的な発想に慣れてしまった。
ある意味、図太くなったのかもしれない。
…気のせいかもしれない。

「誕生日」の意味

2016-06-20 | 考エゴト
ええっと、今日は私の誕生日です。
最初に書きますが、
「おめでとう」とかが欲しい訳では無いです。
祝ってもらうのは苦手なので。
で、多分不謹慎な話です。
どこかで書いとかないとすっきりしなかったので、ここに書きますが、
人によっては気分を害されるタイプの話題だと思うので、
ご注意ください。





今回の本題は、
私自身が、自身の「誕生日」を
どう認識すれば良いか。

世の中では、誕生日に
「生まれてきてくれてありがとう」
「産んでくれてありがとう」
と伝える風習もあるみたいですね。
これが、私にとってはちょっと、
ハードルの高い話で。

なんせ、
「生まれてきて、良かった」って
思えないもので…。


1年歳をとったということが、
何となく、嫌なんですよね。
単純に加齢としてではなく、
「1年長く生きてしまった」ということが。

もともと、長生きする気なんて
さらさら無くて、
それ以前に、まだ生きてることに
違和感というか、拒否感?を感じることも少なくなくて。
だから、
「歳をとった」って事が、
なんか複雑なんです。

で、思ったんですよ。
この「誕生日」と言うものを
どう、自分の中で消化すればいいんだろう、と。
こんなんだから、
お祝いされても素直に喜べないし。


で、さっき思いつきました。


生まれたことも、今後も生きていくことも喜べない。
けど、去年の誕生日から今日までの1年間、
どーにか生きてきたことは確か。
たとえ後悔とかも多々あって、
満足のいく生き方ではないにしろ、ね。



だから、こう思うことにしました。

「誕生日」は、
「1年間頑張って生きた節目の、
記念の日」。

誕生を喜ぶ日というよりも、
自分を労う日。

こっちの方が、かなりしっくりくる。

辛いことも悲しいことも、
誰かにうまく伝えることが苦手。
普段は、自身が感じる辛さを
肯定してあげることも苦手。
でも、誕生日くらいは。
自分の頑張りを、無条件で認めて、
労ってやってもいいじゃないか。


もしかして、多くの人にとって、
誕生日ってこういう事だった?
私がここに至るまでが、
遅すぎだったりしたのだろうか。



まぁいいや。



誕生日です。
1年間、お疲れ様でした。
よく頑張りました。自分。

BUMP OF CHICKEN 「ギルド」 が突き刺さりすぎてやばい。

2016-05-28 | 考エゴト
BUMP OF CHICKENの歌に、「ギルド」ってあるんですが、
ご存じの方はどれくらいいるでしょうか。

もうね、今の自分の状態がね、近すぎて。
胸にぐっさぐっさ来ます。

「人間」が「仕事」でしかなくなっていることとか。
「疲れた」とか。
しょっぱなからもう、まさにそれですよね。
こんな調子で、一説一節が胸に突き刺さってもう。

私を「檻」から引きずり出してくれる人は、現れるかなぁ。
こんな状態で、「その姿」で生きてても、「かまわない」のかなぁ。

ほんとう、「日常」に狂いそうになる。

最近、病んでます。

2016-02-10 | 考エゴト
えーっと…
私が適応障害の診断を受けたことがある、というのは、ブログで書いたことあったっけ?

忘れてしまったので、改めて。
診断、受けてるんです。
診断を受けたのは…前回の職場で2年目の夏。…何年前だ?まあいいか。
しばらく通院をして、「退職する」という決断をしてから、通院が終わりました。
そっから病院にはかかっていないけれど、根本的な完治、は多分してません。
それはブログを長く読んでくださっている方がもしいれば、おわかりかもしれません。



で。



最近、再びあの頃…診断を受けた頃のような心境になっているな、と今朝がた気づきました。
ヤバイ。
これは…また通院すべきなのか?
対処療法で頑張るか?
あ、頑張っちゃいけないんだった。
うーん、迷うなぁ。
直接相談できる人、いないんだよなぁ…。

無題

2015-10-14 | 考エゴト
※ちょっと病み気味です。
 最後の方、軽く不謹慎です。
 載せない方がいいかと思ったけど、
 自分の精神を整えるために、
 あえて載せることにしました。
 読む時はご注意ください。





仕事のある件で、
元上司と相談員の上司から叱られました。
叱られた内容の詳細は省きますが、
その内容は概ね正しいことだし、
それ自体が辛かった訳じゃないです。

ただ、お叱りの最中、
「相談員は、うまく立ち回ることも仕事」
「たまには汚いことをする必要が出てくる」
「板挟みになるのも宿命」
「対人スキル上げるいい機会だよ」
などなどのお言葉を頂いまして。

まぁ要するに、
相談員なのだから、
いろんな個性のある人物の中で、
うまく立ち回って、
たまにズルや汚いこともやって、
(汚いことってのが、
具体的に何かはわかりませんが)
物事を円滑に回すよう務めろ。
厄介な人物とも関わりを持て。
と、いう事を言われたわけです。

私も、相談員というのは
そう言う仕事だと思います。でも。
私はそれが、一番苦手というか、
辛い部分なんですよね......。

誰かと関わりを持つことも。
調和のために動くことも。
嫌ではないけれど、
辛いと感じる事がある。
出来ることなら、
限られた交流範囲を広げたくない。
誰かと関わりを持つことに対し、
能動的に動くことが辛い。

私生活なら、まだ自分の意思で
逃げることが出来るから、まだいい。
「その場限り」だとはっきりしてるなら
そんなにきつくない。
でも、この仕事だと、逃げ場がない。
その場限りで終わらない。
だから、余計に辛い。

関係づくりには「飲みニケーション」
が有効、って話ありますね。
仕事だと思って、出来るだけ
参加するようにしてますが。
出来るなら、すべて断りたいです。
「交流を持つための空間」が、
既にもうつらい。
仕事としてじゃなきゃ行かない。
(仕事なら日勤中に済ませたい。)

......なんだか、
子供のわがままを書いているような
気持ちになってきました。
情けないなぁ......。

やっぱり、
向いてないんでしょう。
私に、福祉職は向かない。
介護もできないけど、
相談員も無理なのだ。

もしまた転職することがあったら、
(多分数年以内にするだろうけど、)
その時は職種を変えようかな。
福祉から離れたい。
対人援助したくない。

でも、今から職種を変えるとして、
何にすればいいだろう?
何ならできるだろう?
将来を想像するのは苦手ななか、
それでも頑張って想像するんですが、
仕事してる自分は想像出来ない。
ついでに言うと、
誰かと一緒にいる自分も想像出来ない。

一人で生きていくことになる
......かなぁ......。
生きたくないなぁ......。

なんで仕事の一部を叱られただけで、
ここまで落ち込んでんだ自分......。
極端すぎるけど、これはもう、
一生治らないんだろうなぁ。
これと一生付き合ってくとか......
......しんどい..................。
やっぱり、生きたくないなぁ......。

宗教は自由だけど......

2015-05-10 | 考エゴト
デイの利用者さんの中に、
新興宗教に加わっている人がいます。
それ自体をどうこうは言いません。
だって、自由ですから。
新興宗教のことを、
良いとも悪いともいいません。
そもそも「宗教」の一番の目的は、
「生きる支え」もしくは「指標」
だと思っているので。

代表的な宗教が幾つかあります。
新興宗教はが多々あります。
色んな神を崇拝していると思います。
何を推奨し、
どのような教えがあるのか、
それこそ多岐にわたると思います。
何を信じたっていいと思うんです。
その「教え」は、
純粋な宗教であれば
(詐欺とか関わってなければ)
皆、人々をより良い生き方に
導こうとするものだと思うので。
方針こそ違えど、
人々もしくは世の中を
正しくしようとしてるだけだと思うので。

だからまぁ、
信じるのは自由ですよね。
だからこそ、
信じないのも自由だと思いますが。
個人的には、
どんな神がいてもいいと思うし、
誰が何を信じても
問題ないと思います。

ただ。
宗教の厄介なところって、
自らの神を崇拝するよう、
他者に強いようとすることが
歴史的にも多いこと。
あと、
「救い」を材料にして、
良くない団体
(詐欺とか、あの地下鉄の事件とか、
そこまで無くても、関わる人の人生を
狂わせてしまうようなのとか)
が出てきてしまうことですかね。
何かを一心に信じすぎると、
視野が狭くなるんでしょうかね。
怖いなぁ、と思うし、
勿体無いなぁ、とも思います。


さてと。
そんなわけで。
うちのデイの利用者さん。
加わってる宗教が、
怪しいものでなければいいなぁ。
純粋に、
気持ちが救われるものだといいなぁ。



ちなみに。
私はとりあえず、固定してこれ!
っていう宗教は無いです。
決めるつもりもないです。
ただまぁ、
どの宗教とか関わらず、
宗教が由来のものの考え方というか、
礼儀作法?感謝の気持ち?
みたいなものは、
参考にしてはいます。
あくまで参考ですが。

曖昧にも程がある気が
......しなくもない(笑)

無題

2015-05-09 | 考エゴト
このまま、
一人で生きていくのには
いずれ限界が来るだろうか。
いつかは、
相手を定めることになるのだろうか。

「そういう風になる」ことを、
現実的には想像できないけど。
そうなることに対して、
不安と恐怖しか抱けないけど。

でももし、いつか、
そうなる事になるのであれば。
そのときは、できれば、
お相手さんは、
「私」を
支えてくれるような人が
いいな。
私は、自分自身の命すら
十分には背負えていないから、
その手伝いを
してくれるような人がいいな。

贅沢を言っていいなら、
「生きること」に後ろ向きな価値観を
ひっくり返してくれる人がいいな。

ただの吐き溜め

2015-02-11 | 考エゴト
※愚痴にすらなってないかもしれない諸々。




そもそも私は、「誰かを助けたい」とか、「支えたい」なんて思って福祉を勉強したわけじゃなくて。
ただ自分が、楽になりたかったから、心理学を学べば、楽になれると思ったから、勉強してただけで。
心理学だけじゃ働けそうになかったから、自分が生活していくために福祉を選んだだけで。
だから、福祉職にいることに、特に意気込みも目標も誇りも持っちゃいないんだよ。
だけど、周りにいる人間はそうじゃないから。一応、やりがいというか、まぁ、少なくとも、「福祉で働く」意志を持って持って働いてる人達だから。こういう事を話せる相手が、周りにいないんだよね。どうしても、私の気持ちと、話の方向性がズレてしまうんだよなぁ。

福祉系の大学に行くと決めた頃、「誰かを支える前に、君自身に支援が必要だろ」と言われた。
「自分の事を大事にできない人は、他人のことも大事にできない」とも言われた。
否定はできないし、きっと、そうなんだろうと思う。それはまさに、今の自分の状況が、示していることだ。
結局のところ自分の事しか考えてないから、対象者が求めている事なんて見えていないのだ。だから、いつも出遅れるし、的外れなことになる。
対象者の今後を話し合う場で、何も浮かばないし、その場にいること自体が苦痛だったりする。

知り合いが、抑鬱テストやってたから、私もやってみた。
想定以上の点数が出たから、軽く驚いた。慢性的に病んでると、病んでる自覚って無くなるんだな。

一生懸命生きてる人、すごいよね。
毎日笑顔で輝いてる人、きれいだよね。
そういう生き方、かっこいいと思う。
けど、自分は遠慮するよ。
何と言うか、こう、
上手く言葉にできないけど、
そういう生き方やそういう人とは、
相性が悪いんだ。
未来を見据えて生きるなんて、もってのほかだ。考えたくもない。
でも「なりたくない姿」は、最低ラインは一応あるから、そうならないように務めるけどね。

ああ、生きるのってしんどいな。
もうちょっと、楽になりたいのにな。
どうにも、上手くいかないなぁ。

振り返る。

2014-04-21 | 考エゴト
今でも時々、
前職場でのことを思い出す。
浮かぶのは、「嫌だ」という感情。

なんでかな。
苦しいとか悲しいとか、
そういうのは薄れていくのに、
拒絶感だけは強く残っているんだ。

近寄りたくない、二度と会いたくないと、
思い出す度に思うんだ。
思い出したくもないんだ。
こんな記憶、消してしまいたいんだ。

だけどそうすると、
あの頃学んだであろうものが、
(それが何なのかよくわからないけど)
それらが無くなってしまう気がして、
ただ無意味に
日々を費やしたことになる気がして、
だから
忘れてはいけないのかな、なんて。

今使ってる三年日記。
一番上の段は、一番辛い時期の記録。
これから、日記の中の私は、
どんどん追い詰められていく。
読みたくないけど、
何故か時々読んでしまう。
読んだって、苦しいだけなのに。
「彼ら」への拒否感が、増すだけなのに。
なんでだろうね…。