つづれ日記

不定期更新です。日常の日記だったり、悩みだったりを綴ったりしています。内容は特に統一性はありません。

学習性無力感から脱したい

2020-09-24 | Weblog
Twitterをフラフラしていて
「学習性無力感」
について書かれた記事を目にした。

自分はずっとこうなんだろう(永続性) 自分はどこにいっても同じだ(普遍性) 自分が悪いんだ(個人度) という "説明スタイル" を "反芻" していると、"学習性無力感"に陥る。 Twitter


すごく自分に、
当てはまることだと思った。

自分は変わらない
どこに行ったって同じ
悪いのは、自分。
という「説明スタイル」を、ずっと繰り返し、「反芻」していた。

こういう事を繰り返しているから、
結局自分は、鬱傾向から抜け出せないのか。



実は、今でも幾度か、この「説明スタイル」みたいな内容は目にしたことがある。

自分が悪かったと、思い込んでいるだけで、
実際は、もっと別の理由か原因な場合だってある。
考え方を変えることが大切だ、と。

言いたいことは、わかる。
けれど、どうしてもそう思えない自分がいて、
素直に受け入れられなかった。

だって、否定できないじゃないか。
「自分が悪い」という説明を。
否定できるだけの材料がない。
自分の中に、そんな自信なんてない。



正直、この「説明スタイル」は、
そうそう変えられないと思う。
ただ、このツイートを見て、思った。

変えられるとするなら、
学習性無力感から脱する糸口があるとすれば、
それは、
「反芻」しないことだ。



失敗したこと。
責められたこと。
辛かったこと、悲しかったこと。
これから先への恐怖。

何度も繰り返し思い出し、
その度に無力感や孤独に苛まれて、
精神をすり減らしていく。
この作業を、できる限り、やめてみよう。



こうして思い出すことが、
「自分と向き合うこと」
「自分を認めること」
なのかなと思っていた。

「向き合う」「認める」とはどういう事なのか、
未だに分からない。
他者から否定され、修正を求められる部分を、
「それでもいいや」なんて思えない。
直すべき部分と、そのままでいい部分の、
区別がつかない。

けれどもまぁ、とりあえずは。

繰り返し思い出し、
その度に落ち込むような「反芻」は、
正しいやり方ではなかったようなので。

いきなりは無理だけど、
「目を背けること」と何が違うのか、
分からないところはあるけれど。
今までコレで、良い結果に繋がった試しは無いのだし。
やり方を変えてみるのは、一つの手かもしれない。

子への願い

2020-09-14 | Weblog
どうか、健やかに育ちますように。

おおらかに、のびのびと育ちますように。

私から産まれたことを、苦に思わないで過ごせますように。



健康なからだと、人に恵まれて、
前向きに歩んでいって欲しい。

私のように、世の中や、人に怯えながら生きるのは、辛い。
そんな思いはさせたくない。
私から生まれたことで、そんな所まで背負わせることになってしまったら。
怖い。



世を恨むのでなく。
自分を責めるのでなく。
前向きに消化して、自分の力に変えながら、
のびのびと生きて欲しい。