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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ドルネウスの脱身の次第-2

2024-09-24 03:21:14 | 浅い霊感から神人合一まで

◎霊魂と肉体の人為的分離

 

ドルネウスの続き。

『正しく理解されねばならないが故に、今、分離から始めよう。弁えておられるように、人はある期間にのみ生き、その後、おのずと、霊、魂、肉体へと分解する。肉体は、死に際し、分解し、腐敗する。そうして、肉体の自然の火、肉体の温もりはやみ、肉体の根本湿気の流れはやむ。

 

そのとき、霊と魂は肉体を去り、肉体は大地に埋められる。そこで、腐敗過程を経て、基本要素へと風化し、要素それぞれは、四大へと帰還する。すなわち、大地は肉体の大地的部分を呑みこみ、水は液状部分を呑みこむ、というように。しかしながら、霊と魂はその源泉へと戻るが、永遠にその肉体から分離されたままであるべきではないがゆえに、後には、神の巧妙な計画により、以後は分離されることなきように、よりよき構成で肉体と再結合される。

 

結合の最高の価値は、諸部分すべてが分かち難く融合して、一となるという事実にある。』

(M‐L.フォン・フランツ/人文書院p166-167から引用)

 

キリスト教では、死後肉体が以前のように復活(栄光の体(glorified body))すると信じられている。

 

ところが人間が大悟覚醒(神人合一)する場合、元の肉体に戻れるのは、クンダリーニ・ヨーガや只管打坐であって、その場合の肉体への帰還はできるが、確率はさほど高いものではない。

またインドでは、大悟覚醒(神人合一)後の肉体への帰還はそもそも想定しておらず、人間のゴールは大悟覚醒(神人合一)と考えている。

只管打坐では、道元は身心脱落して生還したので、肉体への帰還はできるのだろう。

引用文の『霊と魂はその源泉へと戻る』とは、チベット密教でいう原初の光(母の光明)であって、神に一旦は帰っている。

引用文の『結合の最高の価値は、諸部分すべてが分かち難く融合して、一となる』は、神人合一して後、そのまま肉体に生還してくるケースを言っているのだろう。

前段でドルネウスは、肉体と霊魂の分離には三種類あるとし、自然の分離は死であって、自発的分離は霊と生命の息を用い肉体に生還可能、人為的分離は火を用い肉体が破壊されるから肉体への生還不可能。

 

以下は、思いつきだが、後世の人はよく調べていただきたいと思う。

これからすると、

自発的分離は霊と生命の息を用い肉体に生還可能。よって、自発的分離とは第一義的にはクンダリーニ・ヨーガか只管打坐(禅)。

人為的分離は火を用いるのでクンダリーニ・ヨーガ系だが、肉体に帰還不可ということなので、肉体の外に何か霊魂の宿る場所を作っているのだろうと思う。これは、チベット密教でいう虹の身体か道教でいう出神のようなものではないかと思う。虹の身体は、境涯が逆戻りすることなく修行できるというようなニュアンスの説明を読んだことがあり、いわば壊れにくいカプセルのような印象を受けた。

 

西洋錬金術書太陽の輝き(splendor solis)には、フラスコ入りの寓意図が何枚かあって、最後は若い王でフラスコ図は終わっている。王だがまだ修行は残っているということか。

フラスコが、“壊れにくいカプセル”の可能性があって、西洋錬金術では、フラスコという体外ボディでの冥想修行もありだと見ているのかもしれない。

また古事記に無目堅間の神船の記載があるが、龍宮に至る道をこの船で渡ったものだが、ひょっとすると無目堅間の神船も身体外の修行用ボディの可能性がある。

 

これらは、仮説だが人間が神に至る道は多数あるが、結構知られていないし、その道を通る人も少ないとは、もっともなことだと思う。

splendor solis young king

 

splendor solis peacock

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