◎確かなものが人間自体にないことを知ってしまったから人間は確かなものを求めざるを得ない
ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。
『巻頭言
そこの
横丁の
タバコ屋のオヤジさん
一ぴきの
井の中のカワズだった
ぼくの
超高級神秘力の眼で見てみたら
あ奴が
老子だったのさ・・・
格言1
○
人間は
確固とした何者かであろうとする
人間とは
欲望を自覚した分裂的な個生命体のことだ
人間的な一体感は安心感を仮作するが
その安心感ゆえに不安でもあることになる
人間は確かなものを求めざるを得ない
確かなものが人間自体にないことを知ってしまったからだ
人間的安定は、絶対者の戯れと正反対の立場にある
産みの苦しみは本当に産みの苦しみだ
人間性は、完全な束縛を願い、
そしてまた、あらゆる束縛からの
解放を願う
観念的であるということは
現実的であることだ
現実的行動派は実は余りに夢想的なのだ
確実なものが何一つないここでは
あらゆる方向性が意味を持ち
あらゆる価値付けが無意味だ
只管打坐の坐禅修行に励んでいるある婦人が、こう言った。
「今日の坐禅中は、ひたすらタタミの目の数を数えていました。」
コリャア一体何者ぞ?』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
人間はその知性ゆえに、確かなものが人間自体にないことを知ってしまったから、完全な束縛を願うことで、人間は確かなものを求めざるを得ない。ところが確かなものは人間的安定にはなく、不安を感じつつ、絶対者の戯れにあることを内心わかっている。よって、あらゆる束縛からの解放を願う。
この堂々巡り的な動きを、観念的であるということは、現実的であることだと評す。
上掲『確実なものが何一つないここでは
あらゆる方向性が意味を持ち
あらゆる価値付けが無意味だ』は、空恐ろしい状態だ。
この格言を初めて読んだ時、畳の目を数えるところしか、私はわからなかった。
角のたばこ屋のおやじが悟っていることはあり得る。身障者の親戚が悟っていることはあり得る。