◎自分の身体は“空”
(2021-11-21)
ディヤン・スートラの七つの段階の前半三段階の浄化で土台が整い、後半は神性と合体する。後半三段階を“空”とし、“空”にも三段あり身体、思考(マインド)、感情の段階があるとする。『自分は身体だ』と感じることが消えると身体は“空”となる。『自分は身体だ』と感じることを落とすと身体は“空”となる。
OSHOバグワンは、行住坐臥、一挙手一投足について、「それがどこで起こっているのか、肉体なのかそうではないかに気づきをもって見つめよ」と言う。例話では、傷つけられる自分は肉体なのかそうではないのか、今まさに殺されようとする自分は肉体なのかそうではないのか見極めよという話を出して来ている。
更に夢を見ている自分は肉体ではないと既に自覚できていることも挙がっている。
このように一日24時間、『行住坐臥、一挙手一投足について、「それがどこで起こっているのか、肉体なのかそうではないかに気づきをもって見つめる』訓練を続けると、自分は身体、肉体ではないことがわかる。これを“空”の境地と呼ぶ。
(参照:ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P227-235)
“空”とは言っているが、チベット密教でいう空性のことではなく、また個というものから出て全体に届いているわけではない。だが、自分は肉体ではないと認識することは、「肉体を傷つけられても自分は傷つけられない」「肉体は死んでも自分は死なない」という実感に至ることになる。
しかしながら、これは、現代の法体系の根幹である、私権擁護、国民の福祉、刑事犯罪の構成要件、更にはイジメの問題など、社会性と相いれない部分がある。
だが、現代人の苦悩の9割がそこに起因することを見れば、自分は身体、肉体ではないことを自覚、実感することは重要である。
これらの論は七つの身体論とは別体系であり、いわゆる現代人向け対症療法であることは注目される。
またウパニシャッドの有名な課題である「熟睡中の夢も見ない状態」などの議論よりは緩い議論であって、また肉体でなければ、エーテル体、アストラル体など微細身もあるだろうなどという議論の方向性もあるが、この視点の対症療法としての重要性は見逃せない。