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公式には「紛争」だったベトナム戦争〜USS「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-20 | 歴史

「ベトナムルーム」を終わったつもりでしたが、あと一回続けます。
USS「リトルロック」艦内を利用した展示室、
「ベトナムルーム」の展示から、主に戦死者の遺品を中心に紹介します。

■ 戦死したフットボール選手



ベトナムルームのケース内に、こんなコーナーがありました。
陸軍のアメリカンフットボール選手で、プロチームでも活躍した、



ジェームズ・ロバート(ボブ)・カルス
James Robert Kalsu(1945−1970)


の着用した帽子が展示されています。

アメリカ史上、ベトナム戦争で戦死した二人のプロフットボール選手
(もう一人はクリーブランド・クラウンズのドン・スタインブルンナー)
のうちの一人でした。

その後、2004年にアフガニスタンで、陸軍レンジャー部隊の軍曹、



パトリック・ダニエル・ティルマンJr.
Patrick Daniel Tillman Jr. 1976-2004

が戦死するまで、史上最後の戦没プロフットボール選手とされていました。

オクラホマ大学でフットボール選手として活躍したカルスは、
バッファロー・ビルズに指名され、プロ選手となりました。

ベトナム戦争が始まると、予備役将校訓練課程(ROTC)だったカルスは、
1968年のシーズンが終了していたこともあり、少尉として陸軍に入隊し、
第101空挺師団の一員として1969年南ベトナムに着任しました。

そして1970年7月21日、駐留していた彼の部隊は
敵の82ミリ迫撃砲の攻撃を受け、彼はその砲撃で亡くなりました。

彼が、ベトナムの丘の上に位置する駐屯地で
妻からの手紙を読んでいるときに攻撃が始まりました。

迫撃砲が直撃したとき、彼は今日が彼女の出産予定日であることを知らせる
その手紙を持ったままだったといいます。


この攻撃でキャンプに撃ち込まれた砲弾はおよそ600発と言われ、
そのうちの1発がカルスの後頭部に炸裂したのでした。

彼の妻は予定日きっかり(つまり彼の戦死した日)に自宅で産気付き、
第二子であるジェームス・ロバート・カルスJr.を出産しましたが、
二日後、夫が息子の誕生日に戦死したという通知を受け取りました。。


カルスの遺族(右側息子:父の生まれ変わりかというくらい瓜二つ)

戦死時のカルスの階級は中尉。
空挺バッジの他にブロンズスター、パープルハート勲章を授与しています。


あとは誰のものかはわからないベトナム土産の数々が飾ってありました。
左のはベトナム獅子舞の頭でしょうか。

ベトナムでは、テト(旧正月)が明けた仕事始めや、
あるいは店開きなどの際に獅子舞を行う風習があります。
(テトというと、『テト攻勢』を思い出しますね)

獅子舞は中国発祥でアジア全域に伝播していますが、
いずれの国でも正月を祝うために舞うという共通点があります。


手前のアオザイには英語で「Ao Dai」と説明があります。
あとはほとんど土産店で売っているようなものです。

■ POWブレスレット


円筒形のアクリルに被されたブレスレットが並べられたケース。

各ブレスレットにはベトナム戦争中に捕虜/行方不明とされた
23人のニューヨーク州西部の軍人の名前が刻まれています。

このケースは博物館が独自に製作したもの。
行方不明者全員がアメリカの土を踏み、
ブレスレットが全て取り外される日までこのまま保管されます。


POW/MIA BRACELETA Prisoner Of War Bracelet 
(またはPOW/MIA Bracelet)は、ベトナム戦争中に捕虜となった
アメリカ軍人の名前、階級、行方不明となった日付が刻まれた、
メッキまたは銅製の記念ブレスレットのことです。



このブレスレットは、1970年5月、カリフォルニアの学生グループ
「ヴォイス・イン・バイタル・アメリカ」(VIVA)が、
ベトナム戦争で捕虜となったアメリカ人を忘れてはならない、
という意図のもとに作られたのがきっかけになりました。

このブレスレットは現在も販売されており、
収益は、捕虜/行方不明者の家族に寄付されています。

フロリダ州タラハシーにあるブレスレット記念碑

ブレスレットをつけていた人たち、そして今もつけている人たちは、
ブレスレットに名前が記された兵士、あるいはその遺骨が
アメリカに帰還するまで、ブレスレットをつけ続けることを誓っています。

1970年から1976年の間に、およそ500万個が配布されました。



アメリカに来たことがある人は、おそらく一度はどこかで見る
POW/ MIAフラッグの意匠です。

You are not Forgotten
(あなたたちは忘れられていない)

という捕虜・行方不明者へのメッセージが書かれています。
そしてこのような作者不明の詩も。

私は捕虜だ

第一次世界大戦中に生まれた
以来、すべての戦争に参加してきた
兵士になったとき、捕虜になるつもりはなかった
- 上官に命じられたから仕事をしただけだ

凍え、熱され、空腹で、拷問され、こきつかわれ、虐待され、殴られた
生きて帰るためにできることをした

捕虜として経験したことは、誰も理解できない
捕虜になり、行方不明者の名簿に名前が載せられる
これ以上悪いことがあるだろうか

MIAを忘れさせないで
彼らを見捨てないで
彼らは兄弟なのだ
彼らは帰還を叫び求めているのだ



ベトナムルームの展示を見終わったと思ったら、
そこに、この展示全体についての説明がありました。

・・・・・わたしはもしかして逆から見学していたのか?

この展示品には、ベトナム帰還兵から寄贈された記念品が含まれています。

展示の目的は、この史上最も評価されなかった戦争に従軍した、
多くの人々の勇気と犠牲を思い起こさせることです。

ベトナム戦争で58,300人の軍人が全力を尽くしましたが、
その中にはラオスとカンボジアで亡くなった軍人も含まれています。

「史上最も評価されなかった」

というのは、「most unpopular war」が原文です。
「最も人気のない」と訳してもまあ間違いではない気がしますが、
じゃ逆に聞くけど、「人気のある戦争」って何?

そして、わたしはここから先に心底驚きました。

米国議会が実際にはこれを「公式戦争」 と宣言していないため、
公式には「紛争」と呼ばれていますが、軍にとってその違いはありません。


そ、そうだったの〜〜?
アメリカ的にはベトナム戦争は「War」でなく「conflict」だったってこと?

でも、ベトナム戦争のことを「ベトナム紛争」って呼ぶ人なんて、
古今東西公人民間人問わず存在しませんよね?

これって、宣言しなかったというより、し忘れただけじゃないか?
っていうか、必要以上にだらだらやっている間になんで決議しなかったのか。

気を取り直して続き。

ベトナム戦争は1955 年に「始まり」、1975年にサイゴン
(現在はホー チミン市と呼ばれる)の陥落で終わりました。

この戦争では、南ベトナムの民間人19万5,000人から43万人、
北ベトナムの民間人5万人から 6万5,000人、
さらに、少なくとも4万人のカンボジアの民間人、
約110万人の共産主義北ベトナム軍とベトコン軍が殺害されたとされ、
未だに1600 名以上の兵士が戦闘中行方不明(MIA)に、
720〜840名の米軍兵士が捕虜になったまま(POW)となっています。



WNY VIETNAM VETERAN'S MONUMENT
ベトナム帰還兵記念碑

これは前回バッファローを訪れた時、写真を撮って紹介した記念碑です。





WNYとは「ウェスタンニューヨーク」のことで、
つまりここバッファローも含まれるニューヨーク州東部出身の
ベトナム戦争ベテランの名前が記された記念碑となります。

で、このお知らせが何かというと、

修復プロジェクト

30年の歳月を経て、改装が必要です。

究極の犠牲を払った私たちの英雄を讃えるために、
活気を取り戻すためにご協力をお願いします。
税控除の対象となる寄付は、
Western New York Veteran's Housing Coalition, Inc.にお願いします。
小切手の宛先は:Vietnam Monument Restoration Fundです。

どこがどう不具合で修復が必要なのか、
少なくとも近くで写真を撮ったわたしにはわかりませんでしたが、
寄付を募って資金集めをしなければならない事情があるようです。


最後に、このコーナーを締めくくるのは
ウッドロー・ウィルソン第28代アメリカ合衆国大統領の言葉です。

ウィルソン大統領は初めて「国旗を公式に記念する日」として、
1777年に議会が「星条旗を採択した」6月14日に制定を行いました。

これを受けて6月14日、海岸から海岸までの大通りに国旗がはためき、
マーチングバンドは「星条旗よ永遠なれ」や「ディキシー」を演奏し、
議員は町の広場で演説を行われ、しばらくはそういうこともありましたが、
今日では、6月14日の演説やパレードはほとんど見られません。

たとえ6月14日に大通りに国旗が並んでいるのを見ても、多くの人は
「7月4日にしては早すぎる」「何の日だろう」と思うでしょう。

それどころか、もし昨今議員が愛国的な演説をこういう場で行えば、
下手すると罵声を浴びせられたりしかねないご時世でもあります。
(それもこれもアメリカが昨今陥っている分断化の影響ですが、
トランプ大統領復活で多少は空気も変わってくるかもしれません)

それはともかく、ウィルソン大統領は、記念日制定に際して
以下のような演説を行い、それがここに書かれています。

我々が称え、その下で奉仕するこの旗は、
我々の団結、力、国家としての思想と目的の象徴である。

この旗は、我々が世代から世代へと与えてきた以外の何ものでもない。
その選択は我々に委ねられている。

平和であろうと戦争であろうと、
その選択を実行する軍勢の上に堂々と静かに翻っている。

そして、たとえ沈黙していようとも、
それは我々に語りかけてくるのである。

なお、オールド・グローリーとはアメリカ合衆国の国旗の愛称です。

続く。




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